第32話「緩衝地帯、成立せず」
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貴族風の男が立ち上がった瞬間、会議室の空気が変わった。
椅子を引く音が妙に大きく響いた。石張りの床に、革靴の足音。男は俺のほうをまっすぐ見ていたが、見ているのは俺ではなかった。通り越した何か——もっと遠い場所を見ていた。
「審議官」
男の声は落ち着いていた。感情的ではない。それがむしろ怖い。
「この者の提案、お聞きになりましたか」
上席審議官ドレイクは眉ひとつ動かさずに答えた。
「聞いた」
「ならばお分かりのはずです。門番風情が、国境線に等しい迷宮の出入口を、魔物と共有せよと言っている。これが何を意味するか」
俺は黙って聞いていた。
割り込むタイミングじゃない。まず相手が何を言いたいのかを、最後まで聞く。それだけだ。
男の名前はセルディン伯爵、と昨日ネイハルトが教えてくれた。迷宮行政を監督する貴族院の委員で、この特別調査委員会でも実質的な権力を持っているらしい。
「魔物に人間の施設を使わせるなど、前例がない。前例がないことは、許可できない」
「前例がないから駄目、という理由は、交渉の場では通らないことが多いですが」
俺が言うと、セルディンの目が細くなった。
「何?」
「前例がないというのは、今まで誰もやっていないということです。今まで誰もやっていない理由が、本当に"やれないから"なのか、"やる必要がなかったから"なのか、それが分からないと判断できないと思います」
ドレイクがわずかに前のめりになった気がした。
セルディンは口を閉じた。
沈黙は五秒ほどで、また口を開いた。
「理屈を言っているだけだ。現実には、魔物と人間が同じ施設を使えば衝突が起きる。血が流れる。責任は誰が取る」
「それは運用次第です」
「運用で防げると言い切れるか?」
「言い切れません」
セルディンが少し意外そうな顔をした。
俺は続けた。
「ただ、現状も血が流れています。第七迷宮の第23層から何かが出てくる可能性がある。それは審議官方も承知のはずです。魔物側と情報共有できていれば防げた被害が、過去にどれだけあったか——そのコストと、緩衝地帯のリスクを比較してほしいんです」
「比較の話をするなら、数字を出せ」
「今すぐは出せません。ただ、俺のスキルログには第七迷宮の異常変動の記録が残っています。委員会としてそれを精査すれば、根拠になります」
ドレイクが手を上げた。
それだけで会議室が静まった。
「アシダ」
「はい」
「緩衝地帯の具体的な運用案を、文書で提出できるか」
俺は一瞬、考えた。
「三日あれば」
「分かった。三日後、改めて委員会を開く。それまでこの件は保留とする」
セルディンが何か言いかけた。
ドレイクが視線だけで止めた。
「セルディン委員、意見があるなら文書で提出しろ。審議の場で感情論を展開する時間はない」
感情論、と言われてセルディンの顔が少し白くなった。
会議は、そこで終わった。
廊下に出ると、ネイハルトが小走りで追いついてきた。
「アシダさん、お疲れ様でした」
「疲れましたね」
「セルディン委員は……少し厄介な方です」
「前例主義の人ですよね」
「ええ。悪い人ではないんですが、変化を嫌う。貴族院の中でも保守派の代表格で」
俺は頷いた。
悪い人ではない、というのは俺も感じた。セルディンは感情的に反発していたわけじゃない。あれは本気で「危ない」と思っている人の顔だった。それはそれで、対話の余地がある。
「宿に戻っていいですか」
「はい。明後日の朝、また迎えに上がります」
「分かりました」
宿に戻ると、荷物袋が動いた。
「どうだった?」
ゴブの声がした。
俺は袋を開けてやった。ゴブがひょこっと顔を出して、目を丸くしながら部屋を見回した。
「また人間のくさい部屋だな」
「お前の感想はいつも同じだな」
「で、うまくいったのか」
俺は椅子に座って、天井を見た。
「三日後にまた委員会がある。それまでに緩衝地帯の運用案を文書にしないといけない」
「つまりうまくいっていない」
「まだ、という言い方が正確かな」
ゴブが袋から完全に出てきて、テーブルの上に腰を下ろした。こいつは自由だ、とつくづく思う。
「反対した人間は誰だ」
「セルディンという貴族。前例がないことはやれない、という考え方の人」
「交渉できそうか」
「できると思う。ただ、俺が言うより効果的な方法がある」
「何だ」
俺は少し考えてから言った。
「第23層の情報を、もっと出す」
ゴブの顔が固まった。
「……深層の話か」
「ゴブ。お前が知っていることで、王国側にまだ話していないことがあるだろ」
沈黙。
窓の外で、王都の雑踏がくぐもった音で聞こえた。夕方に差し掛かっていた。
「……ある」
ゴブはゆっくり言った。
「あるが、話せば、俺だけじゃなくて迷宮の仲間たちにも影響が出るかもしれない」
「そうか」
「判断する権限が、俺にはない」
「分かった」
俺はそれ以上聞かなかった。
ゴブが自分で話す気になるまで待てばいい。強引に引き出しても、信頼は壊れる。
ゴブは少しの間、テーブルの木目を見ていた。
「……一つだけ、言える」
「まあ、聞いてから判断しよう」
「第23層から出てくるやつが、最近、使者を出している」
俺は背筋を伸ばした。
「使者を」
「ああ。ただ、俺たちゴブリンの層には来ていない。もっと上の層——第18層あたりの連中に接触しているらしい」
「第18層というと」
「鬼人族だ」
俺は頭の中で地図を描いた。
第七迷宮の構造は、ゴブから断片的に聞いていた。上層ほど弱い魔物が住み、深くなるほど強くなる。第18層の鬼人族は、この迷宮の中層を支配する勢力だ。
「鬼人族が、第23層の何かと接触している」
「そうらしい。俺たちには詳しいことは分からないが……仲間の中で、深層から逃げてきたやつが言っていた。『アレが手を伸ばし始めた』と」
【迷宮管理Lv.4:第七迷宮・第18層以深 異常拡大中 要注意域:拡大傾向】
スキルのログが脳裏に浮かんだ。
数値の変化は、ここ十日で加速していた。
「ゴブ」
「何だ」
「これは、俺が思っているより、早い話かもしれない」
ゴブは黙った。
黙ることで、肯定していた。
翌日、俺は文書を書いた。
ネイハルトに紙とインクを手配してもらって、宿の机の上で、朝から夕方まで書き続けた。
緩衝地帯の運用案。
具体的には——
・第七迷宮北口から半径50メートルの区域を「調停区」として設定する
・調停区内では攻撃行為を禁じる。双方の合意を条件とする
・人間側の管理者は門番職が担う(つまり俺が担う)
・魔物側の管理者はゴブのような知性体が担う
・調停区を通過する情報・物資の記録をスキルログで管理する
書きながら、これが通るかどうかは半々だと思っていた。
問題はセルディンではなく、委員会そのものの構造だ。あの場には複数の勢力がいる。ドレイクは話を聞いてくれるが、ドレイク一人で決められる話でもない。
それでも書く。
案を出さなければ、何も始まらない。
二日目の夕方、ゴブが言い出した。
「外に出たい」
「駄目だ」
「なぜだ。王都ってやつを見てみたい」
「お前が魔物だってバレたらどうする」
「バレなければいいだろう」
「バレる。絶対バレる」
「なぜ言い切れる」
「お前、目が黄色いし、耳が尖ってる」
「頭布を被ればいい」
「顔の肌の色が緑だ」
「暗くなってから出れば」
「夜中に頭布を被った緑の何かが歩いてたら余計怪しい」
ゴブは悔しそうな顔で腕を組んだ。
「……お前はときどき正論で夢を殺す」
「夢じゃなくて計画が甘いんだ」
ゴブはしばらくふてくされていた。
それから、ぽつりと言った。
「なあ、レン」
「何」
「これ、うまくいくか」
「緩衝地帯の話か」
「そうじゃなくて。全部。お前がやろうとしていること」
俺は手を止めた。
ゴブはテーブルの端に座って、足をぶらぶらさせていた。窓から入る夕日が、こいつの緑の肌を橙色に染めていた。
「分からない」
俺は正直に答えた。
「分からないが、やれることをやる。それだけだ」
「それだけ、か」
「それだけで十分なことの方が多い」
ゴブはしばらく黙っていた。
「お前みたいな人間、初めて見た」
「そうか」
「なんか……変なやつだな」
「よく言われる」
三日目の朝、委員会が開かれた。
俺は文書を提出した。
ドレイクが読んだ。他の委員たちが読んだ。セルディンも読んだ。
沈黙が続いた。
最初に口を開いたのはセルディンだった。
「アシダ」
「はい」
「管理者を門番が担う、と書いてあるが」
「そうです」
「お前一人でやれると思っているのか」
「人手は必要です。そこは王国側からの支援をお願いしたい」
「支援を要求する立場か」
「お願いです」
また沈黙。
セルディンは文書を閉じた。
「……一つ聞く。お前がこれをやろうとしているのは、何のためだ」
俺は少し考えた。
「第23層から何かが来る前に、人間と魔物が揉めている場合じゃないからです」
「それだけか」
「それだけです」
セルディンは俺を見た。
長い間、見た。
それから、ドレイクに向き直った。
「私は、反対意見を撤回しない」
委員会がざわついた。
「ただし——」
セルディンが続けた。
「試行期間を設ける提案なら、検討の余地はある」
俺はそれを聞いて、少し息を吐いた。
反対の撤回ではない。でも、ここに扉が開いた。
ドレイクが言った。
「試行期間、三ヶ月。その間に効果を測定する。委員会としての正式認定はその後の評価を以てとする」
「異議なし」
「異議なし」
声が続いた。
セルディンは最後まで黙っていた。
でもそれは、反対ではなかった。
委員会が終わって、廊下に出たとき、ネイハルトが追いかけてきた。
「アシダさん! おめでとうございます!」
「まだ正式認定じゃないですよ」
「でも前進です!」
「そうですね」
前進、ではある。
俺は手の中に文書の控えを持ったまま、廊下の窓から外を見た。王都の街並みが広がっていた。
三ヶ月。
試行期間の三ヶ月で、何かを見せなければならない。
そしてそれより早く、第23層の「アレ」が動き出している可能性がある。
【迷宮管理Lv.4:第七迷宮・深層変動 警戒レベル引き上げ】
スキルが告げた。
今日また、数値が上がっていた。
宿に戻ると、ゴブがドアの前で待っていた。
「どうだった」
「試行期間つきで、条件付き承認が出た」
「……つまり、できる?」
「まだ確定じゃないが、扉は開いた」
ゴブは少し間を置いてから、小さな拳を握った。
何も言わなかった。
それだけで十分だった。
「ゴブ、帰れるぞ」
「ああ」
「帰ってから、第18層の鬼人族のことを、もっと調べられるか」
ゴブの顔が少し固くなった。
「……やってみる。ただ、鬼人族に直接会うのは俺たちゴブリンには難しい。接触するとしたら」
「接触するとしたら?」
ゴブは俺を見た。
「お前が直接、第18層に来るしかない」
俺は深呼吸した。
第18層。
迷宮の中層。鬼人族の領域。
「分かった」
「本当に来るのか?」
「まあ」
俺は言った。
「聞いてから判断しよう」
ゴブが呆れたような、でも少し安心したような顔で鼻を鳴らした。
「お前は本当に変なやつだな」
窓の外では、王都の夜が始まろうとしていた。
そして第七迷宮の深層では、「アレ」が鬼人族に手を伸ばしていた。




