第314話「まあ、聞いてから判断しよう」
「私は——」
判定者がそこで止まったのは、もうどれくらい前になるだろうか。
水袋を手に取った。持ち上げるまでもなく、軽さですぐわかった。とっくに空だった。腰を据えた岩の冷たさは、最初のうちは背中から体温を奪っていたが、もう感じない。慣れたのか、感覚が引いたのか。迷宮の最深部には光がほとんどなく、判定者が放つ光だけが岩壁を染めていた。
隣で「来た者」が静かに膝を抱えた。
封印の外から来た存在が待つときの静けさというのは、少し違う。急いでいない、というより、待つことそのものに意味を置いているような座り方だった。封印の内側で、長い時間ただ待ち続けていたことが、身体のどこかに染みついているのかもしれない。
「カイル」
石板に指を走らせた。すぐに光が返ってくる。
「いるよ。何かあったか」
「数字を」
「今は二十・一パーセント。動いてはいるが——下がりきらない。揺れてる感じだ」
揺れている。
止まっているのではなく、揺れながら動けていない。判定者の光も、ゆっくりと揺れ続けていた。壁に映る影が形を変えては戻り、変えては戻る。千二百年間ただ分類し続けてきた仕組みが、「私は——」の先を言えないでいる。
「来た者」が小さく言った。
「……苦しそうだ、あれは」
「うん」
「人間も、ああなるか。言葉が出ないとき」
「なる。よくなる」
「お前も、なったことがあるか」
「よくなる」
「来た者」は少し黙ってから、「そうか」とだけ言った。
俺も黙った。
急かすつもりは最初からない。聞くというのは、相手が話せるようになるまでただここにいることでもある。そう思い始めたのがいつか、もう覚えていないが、ゴブが墓場の門をノックしてきたあの夜から、どうやらずっとそうやってきたらしかった。
あの夜、俺が扉を開けたのも、似たような感覚だった気がする。急かされたわけでも、誰かに言われたわけでもなかった。ただ、ノックを聞いて——開けたのだ。
「……聞いていいか」
判定者の声が来た。
今度は「私は——」ではなく、問いかける形だった。その違いを、俺は一拍おいてから理解した。千二百年間、何かを誰かに聞いたことがない存在が、今、問うている。分類してきた側が、問われる形を選んだ。
「聞いてくれ」
間があった。
「私が——分類をやめたら、私は何になる」
静かな問いだった。追い詰めているわけでも、脅しているわけでもない。ただ、事実を尋ねている。千二百年間ただ分類し続けてきた者が、分類をやめた自分の正体を、知ろうとしている。
俺は少しの間、考えた。
正確に言えば、考えようとした。でも答えが出なかった。出なかったというより、そもそも持っていなかった。判定者が分類をやめたら何になるかなど、考えたことがなかった。
「わからない」
「それは——誠実な答えか、それとも」
「本当にわからないから、そう言っている。言葉を選んでいるわけじゃない」
判定者は何も言わなかった。
俺は続けた。
「ゴブが門番になったとき、俺はゴブが何になるか分からなかった。カイルが二代目調停者になったとき、カイルがどんな調停者になるかも分からなかった。レイラが扇動をやめてからどうなるかも、オルディーンが査問を転じてからどう変わるかも、その場では分からなかった」
「それで——どうしたんだ」
「見た。話した。聞いた」
「わからないまま、か」
「わからないままで始めて、少しずつわかった。最初から全部わかってたら、聞く必要もないだろう」
長い沈黙があった。
「来た者」が、横からそっと言葉を足した。
「私も、封印が解けたとき、外に出てからどうなるかわからなかった。何になるかは誰も教えてくれなかった。ただ——出た。そこに声をかけてくる者がいた。その者は名前をくれた。「来た者」という名前を」
「それで——よかったか」
「よかったかどうかは、今もよく分からない。でも——会いたい者が増えた。封印の中では誰とも深く話さなかった。今は話している。それが何かになったということなのか、私にも、まだわからないが」
判定者の光が、ゆっくりと広がった。
【世界判定エラー:17.4%】
カイルからの数字が石板に浮かんだ。
「動いた。また下がってる」
「見えてる」
「向こうは何か言ってるか」
「聞いてた」
「お前じゃなくて向こうが」
「そうだ」
通信の向こうでカイルが何か言いかけて、止まった。俺が待つと、少し経ってから「続けてくれ」と短く返ってきた。
「もう一つ、聞いていいか」
「聞いてくれ」
「お前は——わからないとき、どうする」
「聞く」
「誰に」
「目の前にいる相手に。わからないことがあったら、そこにいる誰かに聞く。聞いてから判断する」
「なぜそうする」
俺は少し考えた。理由を言語化することに、あまり慣れていない。
「聞かなかったことを後から後悔する方が、嫌だからだと思う。知らなかったことが後でわかって、あのとき聞いていればと思う経験が——多かった。だから先に聞くようになった」
「後悔——」
判定者の声が、そこで止まった。
さっきとは違う止まり方だった。何かが刺さった止まり方だ。
「後悔を、したことがあるか——千二百年、判定できなかった」
「今は、答えられるか」
「……今は、ある、と思う」
「何を後悔してる」
問い返してから、一瞬ためらった。これは聞いていいことか。でも聞かなかったら後悔するかもしれない。
判定者は長い間をかけてから、答えた。
「記録した——ゴブが扉をノックした夜も。人間の子が初めて泣きながら魔物に手を差し伸べた朝も。カーラが夜明け前に詰所の机に向かっていた時間も。ドランが最後に「よかった」と言って消えた瞬間も。レイラが一人で泣いた夜の沈黙も——全部、記録した」
「記録しただけで、聞かなかったのか」
「声は拾っていた。内容も保存していた。でも——聞く、ということの意味が、分類の言語では処理できなかった。記録することと聞くことが同じでないと、千二百年、気づかなかった」
岩が静かに軋む音がした。
「来た者」がわずかに息を吸った。
俺はゆっくりと言った。
「完全に分かってなくても、聞けることはある。俺も、聞くことの意味を完全に言語化できていない。でも——聞いてから判断したい、という感覚だけはある。わからないまま判断するより、聞いてから判断した方がいい。それだけだ」
「それだけ——か」
「それだけで、ここまで来た」
光が、揺れた。
大きく、今までで一番大きく。
来た者が身を固くした。俺も、呼吸を整えた。
「……まあ」
声が来た。
「来た者」の肩が、ぴくりと動いた。俺も、気づいていた。
「まあ——」
もう一度、同じ言葉。
千二百年間、一度も使わなかった言葉を、今、初めて声に出そうとしている。それがどういうことなのか言葉にはならない。ただ声の質が違った。今までのどの声とも違っていた。震えていた。分類する声ではなく、迷っている声だった。迷いながらも、それでも言おうとしている声だった。
「聞いてから——」
光が広がった。
岩壁全体が、柔らかく明るくなった。
「判断しよう」
静かだった。
宣言でも叫びでもなく、ただ静かに、そう言った。
千二百年間ただ分類し続けてきた仕組みが、今この瞬間、分類でなく対話を選んだ。
俺は、言葉が出なかった。
驚きとは少し違う。喜びとも少し違う。ただ——聞こえた、という感覚だけがあった。あの声を、ここで聞いた。それだけだった。「まあ、聞いてから判断しよう」という言葉が、千二百年かけて、最深部の岩壁の前でようやく届いた。
「来た者」が、ゆっくりと長い息を吐いた。
それ以外に音はなかった。
最深部の岩と光と沈黙の中に、その言葉だけが残った。
変化に気づいたのはカイルだった。
「——レン」
声が固かった。
「何だ」
「判定処理が——全部、止まってる。七つの迷宮全部。連合側の管轄判定点も、外の迷宮も——全部、一斉に止まった」
石板の数字を見た。
【世界判定エラー:——】
エラー率の数字が、空白になっていた。表示できる値を持てなくなったように、ただ消えていた。
「崩壊してるわけじゃない。処理が完全に止まってる。でも——意図的な感じだ。エラーじゃなく、止めてる。判定者が自分から」
「判定者」
呼びかけると、光の向こうから返事が来た。
「……聞いている」
「何を」
「千二百年分の——記録を。今まで聞かずに積み上げてきたものを、聞いている。ゴブの声。カーラの声。ドランが「よかった」と言った瞬間の光。オルディーンが議長席を立った夜の静寂。レイラが扉の前で立ち止まって、入れなかった朝の——その停止の感触も」
「全部、残ってたのか」
「記録してあった。ただ——聞いていなかっただけだ」
光は揺れていなかった。
最初に見たときの無機質な光とも違う。落ち着いた光だった。長い間走り続けてきたものが、初めて立ち止まって呼吸をしている、そういう光に見えた。
カイルから通信が返ってきた。
「世界中の判定点から問い合わせが殺到してる。ジョブが計測できない、ランクが表示されないって。どう答えればいい」
「しばらく待つように、と言ってくれ」
「どれくらい」
「判定者が千二百年分の声を聞き終わるまで」
「……それ、いつ終わる」
「わからない」
「わからないのか」
「まあ——聞いてから判断する」
通信の向こうでカイルが、小さく息を吐いた。
「お前はほんとに変わらないな」
「ずっとそう言われてる」
石板を置いた。
来た者が、俺を見ていた。何か言おうとしているような、それでも何も言わないような表情だった。封印の中にいた間も、こういう顔をしていたのかもしれない。
「よかったのか、これで」
「どういう意味で聞いてる」
「判定者が——「聞いてから判断する」と言った。それで、よかったのか」
俺は少し考えた。
「終わったわけじゃない。聞くと言っただけで、何を判断するかはこれからだ。でも——聞き始めたなら、ここからは聞いてから判断する。それで十分じゃないか」
「十分か」
「ゴブが墓場の門をノックしてきたとき、俺は扉を開けた。それだけで、ここまで来た。始まりはそれだけでよかったと思ってる」
「来た者」は少しの間黙ってから、「そうか」と言った。
判定者の光が、また静かに広がった。岩壁が明るくなり、最深部のはずなのに、どこか開けた感じがした。
「次に——また、話せるか」
判定者の声だった。
千二百年間、次の接触を求めたことがあっただろうか。俺には知る術がないが、今この声には、それを求める何かがあった。
「まあ——聞いてから、判断しよう」
俺はそう答えた。
判定者は何も言わなかった。
でも光が、わずかに揺れた。
【世界判定エラー:——(全判定点、自発停止確認)】カイル転送「崩壊反応なし——判定者、稼働中」
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。
なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。




