第313話「揺らぐ千年」
「手放しても、世界は終わりませんでした」
カーラの最後の言葉が、座の中に残っていた。
カイルが手記を閉じた。端末の灯りが、薄暗い座の中でぼんやりと残った。
誰も何も言わなかった。
判定者の光が、ゆっくりと広がっていた。揺れているのとは少し違う。内側から何かが膨らむように、白い輝きが座全体をじわりと包んでいく。
俺は床に座ったまま、それを見ていた。
どのくらい時間が経ったか、もうわからない。迷宮の最深部に来てから何十時間になるのか、数えるのをとっくにやめていた。水は尽きていた。喉の奥がひりひりしていた。足の先の感覚も、とっくになくなっていた。でも、それらが遠い気がした。
何かが、起きようとしている。
カイルが端末を確認した。声を出さず、数字を口の形だけで見せた。
28.1%。
先ほどまで28.4%だったものが、まだ下がり続けている。カーラの手記を読み終えた後から、止まらずに下がっていた。
俺は数字を見て、それからまた光を見た。
「…………」
判定者が声を発したのは、さらにしばらく経ってからだった。声というより、光の揺れが言葉に変わった、という感じだ。温度も強さも変わっていない。ただ、そこに言葉が来た。
「寂しい、という値が……どこから来るのか」
俺は少し間を置いた。
「知りたいですか」
「…………知ることが、できるのか」
「わかりません」と俺は言った。「でも、聞いたら何かわかることがある、と思います。俺はそういう経験を、ずっとしてきました」
判定者の光が、ふるえた。細かく、速く。内側で何かがせめぎ合っているように。
「千二百年」と、判定者が言った。
「私は……千二百年、分類をしてきた。それしか、していない。それが私の存在の全てだった。分けて、格付けして、配置した。それが世界を守ることだった。だから、した」
「はい」
「しかし……カーラ、という者の言葉を受け取った後から、私の内側に、名前のつけられない値が生まれている。その値が、大きくなっている。何かが……占めている」
「それが寂しい、という感覚かもしれない」と俺は言った。「あるいは、逆のものかもしれない」
「逆……?」
「寂しくなくなる、という感覚。それはずっと孤独だった時間があるから、すごく大きく感じる。だから、混乱するんだと思います」
判定者は答えなかった。
でも光が、また広がり始めた。
俺の横で、カイルが小声で告げた。
「26.8%。下がるペースが上がってる」
俺はうなずいた。
来た者も、ゴブも、誰も割り込まなかった。割り込んでいい空気ではなかった。俺たちは全員、それをわかっていた。
「一つだけ聞かせてもらえますか」
俺はゆっくりと、もう一度問いかけた。
「…………」
「カーラは、一人で背負い続けてきた人でした。ゴブも、フォルも、来た者も、そういう存在です。俺自身も、そうでした。あなたも、そうだったんじゃないかと思っています。千二百年、誰にも聞かれず、ただ分類し続けてきた」
光が、静止した。
「俺はそのことを、あなたに申し訳なかったと思っています。あなたが世界を守るためにしてきたことを、誰も聞かなかった。俺たちも含めて」
しばらく、何もなかった。
座の中に、静寂だけがあった。
「……申し訳ない、とは」と判定者が言った。
「聞けなかった、という意味です」
「……聞けなかった」
「あなたが千二百年、一人でしてきたことを。誰も、あなたに近づいて聞けなかった」
また、長い間があった。
来た者が、低く静かに言った。
「私も、同じだった。封印の中で、ただ待ち続けた。誰も来なかった。来てもらえるとも思っていなかった。それが当然だと思っていた」
「そこに、レンが来た」と俺は続けた。
「来た、から……分かった」と来た者は言った。「一人でいたことが、初めて、寂しかったと分かった。来てもらうまで、寂しいという言葉を、知らなかった」
判定者の光が、大きく揺れた。
一瞬、座全体が白く満ちた。そして光は落ち着き、また揺れ始めた。細かく、静かに。
「…………来た、から、分かった」と判定者は繰り返した。「……私は、来てもらったのか」
「来ました」と俺は言った。
「千二百年……誰も、来なかった」
判定者の声は、そのままだった。温度も強さも変わっていない。でも、何かが違った。何が、とは言えない。ただ、俺には伝わった。
「来なかった、というよりも」と俺は言った。「来れる道がなかった、のかもしれません。あなたが設計した世界の中では、あなたに近づける存在がいなかった」
「……私が、設計した」
「そうです」
「……私が設計したから、誰も来なかった」
「あなたが設計したのは、世界を守るためでした。でも、それがあなた自身を孤独にしてしまった」
光が、また広がった。今度は以前よりも大きく、速く。
カイルが端末を確認した。
「23.5%」
俺は数字を聞きながら、判定者を見つめ続けた。光が波打っている。千二百年分の何かが、今この瞬間に揺さぶられている。
「あなたの設計は、間違っていなかった」と俺は言った。「世界が一度滅んだ。あなたはそれを繰り返させないために、ランクを作り、迷宮を作り、ジョブを作った。それは正しかった。千二百年間、世界は保った」
「…………」
「ただ、一つだけ、設計できなかったものがあった」
「……何を」
「あなた自身が、聞いてもらえる場所」
沈黙があった。長い沈黙だった。座の光が揺れるのを、俺はただ見ていた。
「俺は門番でした」と俺は続けた。
来た者もゴブも、黙って聞いていた。
「ランク外の、誰も使い道のない仕事だと言われた仕事。でも、その仕事の中に、ゴブが来た。話を聞いてほしいと言って」
「知っている」と判定者は言った。「記録している」
「そのとき俺は、聞いたんです。まあ、聞いてから判断しよう、と思って」
「…………」
「あなたにも、誰かが来てよかった。俺はそう思っています。ゴブが来て、フォルが来て、来た者が来て、カーラが来て、そして俺も来ました。遅すぎたかもしれない。でも、来れた」
しばらくして、判定者が言った。
「……来てよかった、という値は」
「安心することです。よかった、という言葉に近い」
「……よかった」
「そうです」
また沈黙があった。でも今度の沈黙は、以前のものと違った。それまでの沈黙は、処理しているような、分類しているような、固い質感があった。今の沈黙は、違った。
もっと、柔らかかった。
カイルがまた報告した。
「20.5%。急速に下がってる」
俺はゆっくりと息を吐いた。喉の渇きが、また戻ってきた。今度はちゃんと感じた。体が現実に戻ってきている、という感じがした。
座の光が、全体に満ちていた。さっきまでとは比べ物にならないくらい、明るかった。眩しいとは思わなかった。温かい、という感じだった。
「私は……」と判定者が言った。
その声に、何かが混じっていた。
俺は動かなかった。来た者も、ゴブも、カイルも、誰も動かなかった。
「私は……千二百年、正しいと思ってしてきた。世界が一度滅んだ。だから分けた。だから格付けした。間違いではなかった、と今でも思っている。あの世界の滅びは、本当のことだった。私が知っている」
「はい」
「だが……今、ここに、あなたたちがいる。その感覚が、私の千二百年の設計の中には、なかった。設計外のことが、起きている」
「起きています」と俺は言った。
「…………起きている。なのに……壊れていない」
「壊れていません」
また、間があった。
「壊れていない……」と判定者は繰り返した。「私が設計にないことを処理するとき、通常は……エラーとして排除する。でも、今……これを……排除したくない、という処理が、動いている」
ゴブが俺の隣で、ぼそりと言った。
「……それ、俺もレンに対して思ったことあります。最初に扉を叩いたとき、怖くて逃げたかった。でも逃げたくなかった。それと、一緒ですかね」
俺はゴブを見た。
「お前、そんなこと言ったことなかったじゃないか」
「……言えなかったんですよ、あのときは。今は言えます」
光の中で、ゴブは真剣な顔をしていた。
「判定者さんも、怖くていいと思います。逃げたくても、逃げたくなかったなら、それでいいと思います」
「……一緒、かもしれない」と判定者は言った。
「ゴブがそう言うなら」と俺は言った。「多分、そうです」
「あなたの声が、さっき……震えていた」と俺は言った。
「…………知っている」と判定者は言った。
「初めてですか」
長い間があった。
「……初めてだ」
俺は、それを聞いて、小さく息を吐いた。
千二百年。ただ、分類し続けてきた。誰も来なかった。誰も聞かなかった。そのうちに、声が震えるようなことが、なくなっていったのか。あるいは最初から、震えることを知らなかったのか。
どちらにしても、今、震えた。
「怖かったですか」と俺は聞いた。
「…………」
「震えること、が」
「……わからない」と判定者は言った。「怖いとは、少し違う。怖いときの値とは、形が違う。もっと……」
「もっと?」
「…………大きかった」
俺は何も言わなかった。
何も言う必要がないと思った。
来た者が静かに言った。
「判定者。私たちは、ここにいる。あなたが揺れても、ここにいる。それは変わらない」
光が、またふるえた。大きく。
カイルが端末を確認した。声が、わずかにかすれていた。
「17.3%。……急速に落ちてる」
俺は立ち上がった。膝が痛かった。長時間床に座り続けていたせいで、関節が固まっていた。それでも立った。
光の中に立つと、温かかった。
判定者の光が、白く波打っていた。揺れているというより、もはや波打っていた。千二百年分の何かが、内側でせめぎ合っている。
長い沈黙があった。
その沈黙の中で、俺は来た者とゴブとカイルを見た。全員が、光を見ていた。誰も目をそらさなかった。
来た者は静かに目を閉じていた。かつて封印の中にいた存在が、今は光の中で、ただ立っていた。
ゴブは少し緊張した顔をしていた。それでも、動かなかった。
カイルは端末を握ったまま、判定者を見ていた。
俺も、見ていた。
何かを急かすつもりはなかった。門番だった頃から、待つのは得意だった。誰かが言葉を探しているとき、その探す時間を奪ったことは一度もない。
やがて、判定者が口を開いた。
「……もう少し、だけ」
声が、震えていた。
さっきよりも、もっと。
「……聞かせてもらってよいか。あなたたちの話を」
【世界判定エラー:30%】
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