第311話「聞かれる側になる」
オルディーン元議長が接続してきた——その事実を、俺はまず飲み込む時間が必要だった。
かつて「人類最大の脅威」として俺を裁こうとした人物。査問会の壇上でずっと重い口を閉ざし続け、全市民の前で「まあ、聞いてから判断しよう」と言うまで、誰も彼を動かせなかった男。
その人が今、迷宮最深部の暗闇の中で発光を続ける判定者へ向けて、接続を求めてきた。
「……繋いでいいか」
カイルが俺を見て確認する。端末を持つ手がわずかに揺れている。疲れているのは、俺だけじゃない。既に滞在18時間を超えていた。水はとっくに切れている。
「頼む」
カイルが静かに操作した。
「判定者と呼ばれているお方。私は——連合の元議長、オルディーンという者です」
端末越しに流れる声は、あの査問会の壇上で轟かせていた威厳とは少し違った。角が取れている。削られた、という感じの変わり方だ。重みは残っているが、方向が変わっている。外に向けていた重さが、内側に落ちてきたような。
判定者の光が、揺れた。
ゴブ、フォル、ガレス、セルウィン——この空間に届いてきた声はどれも質が違うが、今の声はそのどれとも違う響きを持っていた。判定者の光が一度、大きくまばたきする。
「……記録に、ある」
「そうでしょう。私があなたに声をかけるのは——奇妙なことに見えるかもしれません」
長い間があった。
俺はただ待った。オルディーンも、急がなかった。
「奇妙、ではない」
判定者が応じた。「分類することは、した。しかし——記録の外に、出たことがない。あなたの声は、その外から来る」
「記録の外……そうですね」オルディーンが、低く言った。「私も長いこと、記録の外に出ることを怖がっていました。私は人類の意思を背負う立場でした。個人の感情など、邪魔なものだと思っていた」
沈黙。
「家族を失いました。戦争で。あの戦争が"対話で終わった"と告げられたとき——私は怒りました。死んだ者たちが無駄死にになると、そう思った」
判定者の光が、脈を打つようにゆっくりと広がる。
「ですが今は——怒りとは少し違うものが残っています。悲しみと、それから」
言葉が途切れる。オルディーンが、何かを探している。
「聞いてもらえたことへの——感謝、でしょうか」
その言葉が、空間に落ちた。
判定者は答えなかった。しかし光の揺れ方が、変わった。より細かく、よりゆっくりと、まるで何かを咀嚼しているような動きに。
俺はカイルに視線を向けた。カイルが端末の数値を指で示す。
【世界判定エラー:29.1%】
ほんのわずか、下がっていた。
「……感謝を、伝えることに——意味があるのか」
判定者が言った。問いではなく、独り言に近かった。
「あると思います」とオルディーンが答えた。「私はずっと感謝を受け取る側でした。議長ですから、当然のように。でも伝える側に回ったのは——最近のことです。伝えると、渡したものが自分の中にも少し残る。不思議なことですが」
「残る……」
「あなたに届いているかどうかは分かりません。でも——言わなければ、届きようもない」
しばらくして、接続が切れた。
オルディーンが去った後、俺は壁に背中を預けた。
こめかみが重い。水を飲んでいないせいか、それとも単純に限界が近いのか、頭の奥がじんじんしている。膝の裏が痺れていた。足を動かすと、砂が踏める感覚がするが、ここは砂場じゃない。感覚が狂い始めている証拠だ。
「レン」
ゴブが隣に来て、俺の肩に手を置いた。
「……大丈夫か」
「まあ、な」
正直に言えば「大丈夫じゃない」が答えだ。でも、まだここを離れたくなかった。判定者が今、何かを咀嚼している。その途中で去ってしまうことが、もったいなかった。
「来た者から接続だ」
カイルが言った。
「つなぐか」
「ああ」
流れてきた声は、言葉の間が長く、リズムが独特だった。人間の話し方ではない。でも感情があることは伝わってくる。言語を習得してから時間が経ってきたが、それでもまだ、来た者の声には独自の間合いがある。
「千年……分ける、側だった。その者へ」
判定者の光が、強まった。
「分けられた、側だ。俺たちは。あなたによって」
「……そう。分類した。外の者として、封印した」
「そうだ」
来た者は、責めなかった。ただ確認した。
「だが——あの門番が来て、聞いた。分けられたまま、聞いた。俺たちは今、ここにいる」
「設計の外に、いる」
「設計の外に、いる」と来た者は繰り返した。その繰り返しは、同意ではなく、たしかめているような反復だった。「それは——悪いことでは、なかった」
判定者が、長く光った。
「悪いことでは……なかった、か」
「なかった」
それだけで、来た者の接続は切れた。
短かった。でも、何かを置いていった。
俺はその余韻を崩さないようにしながら、ゆっくりと息を吐いた。
カイルが「29.0%」と小声で言った。
その後、声は続いた。
俺は最初、こんなに多くの人が繋ごうとするとは思っていなかった。ガレス、セルウィン、オルディーン、来た者——それだけで充分だと思っていた。
でも端末は鳴り続けた。
次に来たのは——意外な名前だった。
「レイラだ」
カイルが、少し目を見開いて俺に向けた。あの査問会の終盤、慟哭の末に口癖を絞り出した夜のことを、カイルも覚えているのだろう。
「繋げ」
「私の名前は、レイラといいます」
その声には、あの夜の絞り出すような響きはなかった。落ち着いていた。それが底に達した人間の静けさなのか、それとも本当に何かが変わったのか、俺には判別できない。
「あなたのことは聞いていました。世界を分類してきた仕組みと。千年、一人でそれをやってきたと」
判定者は答えなかった。
でもレイラは続けた。
「私も長い間——何かを一人で抱えていました。戦争で失ったものを。誰かに話しても仕方がないと思っていた。話したところで、返ってくるものはないと。失ったものは戻らないし、死者は生き返らないし、怒りは解消されない。だから話すことが無駄に思えていた」
沈黙。
「でも——聞いてもらえたんです。あの門番に」
レン、とは言わなかった。俺のことを「あの門番」と呼ぶのは、この人の流儀だ。
「何が変わったか、うまく言えません。失ったものは戻らない。許したわけでもない。それでも——話してよかったと思えた。聞いてもらえてよかったと」
「……それは、なぜか」
判定者が、問いかけた。
俺は、その変化に気づいた。
来た者のときも、オルディーンのときも、判定者は語りかけられることで揺れ動いていたが、自分から問い返すことはなかった。
今、初めて、判定者が聞いた。
「なぜ——聞いてもらえることで、変わるのか」
レイラは少しの間、黙った。それから言った。
「一人じゃなかったと、分かるから。じゃないでしょうか」
「一人でない——という状態の、値が——」
「値じゃないと思います」とレイラが言った。「でも、そう言いたい気持ちは分かります。私も最初、数えようとしていたから。傷の大きさを、損失の数を、怒りの量を。全部正確に記録していれば、何かが見えると思っていた」
「数えることを——やめたのか」
「やめました。やめられたんじゃなくて——数えている間は話せないと気づいたので。数えることに集中していると、声が耳に入ってこない。目の前にいる人間が、何を言っているか聞けなくなる」
静寂が落ちた。
判定者の光が、また細かく揺れている。ゆっくりと、しかし確かに。
「私は——千二百年、数えてきた」
「そうでしょうね」
「数えることしか、していなかった」
レイラが、少し間を置いて言った。「でも今、あなたは——聞いている」
「聞いて、いる……か」
「そうです。私たちの声を、数えていない。受け取っている」
レイラの接続が切れた。
【世界判定エラー:28.3%】
カイルが端末を見せた。数値が、また下がっていた。
次に来たのは——セルディン議員だった。
「繋いでいいか」
カイルが確認した。
「ああ」
端末から聞こえてきた声は、老人のそれだった。くぐもっていて、でも言葉の一つ一つに重みがある。俺が最初に「怖いのだ」と白状させた、あの反対派筆頭議員。
「私は政治家ですので、手短に申し上げます」
判定者の光が、静かに待つ。
「三年前——私は知っていたのです。封印の異常に。でも言えなかった。もし言ったとして、誰が聞いてくれるか分からなかったから」
「言えなかった——という事象は、記録に存在する。公式証言に含まれる」
「そうですね。記録にはそうあるでしょう。でも記録には書かれていないことがあります」
「……書かれていない、こと」
「後悔の重さ、です。数値化できないものですが」
判定者が長い光を放った。
「後悔——」
「早く言えば、もっと多くの命が助かったかもしれない。その後悔が、今もあります。消えません。消えないまま持ち続けていくものだと、今は思っています」
「消えない——」
「でも」とセルディンは言った。「あの門番が聞きに来てくれた。「なぜ言わなかったのか」ではなく「何が怖かったのか」を聞きに来てくれた。それが——大きかった」
「何が、大きかったのか」
「責められなかったことが、です。責められていたら、私は守りに入っていた。防御の言葉だけを並べていた。でも聞かれたから、話せた。話せたから、前に進めた」
俺はセルディンの言葉を聞きながら、あの日のことを思い出した。議員室の椅子を引いて、対面した午後。「なぜ言わなかったのか」と問わないように、意識して意識しないようにしながら、ただ隣に座った時間。
聞くだけでいい。理由は後でついてくる。
「……あなたに、一つ聞いていいか」
セルディンが言った。
「あなたは、なぜ——世界を分けた」
俺は息を呑んだ。
これまでの人々は、自分の経験を語ることで判定者に届けようとした。でもセルディンは——判定者に、聞いた。
「なぜ……分けた、か」
判定者の光が、大きく揺れた。
「理由は——」
「答えなくてもいいです」とセルディンが言った。「聞いたかっただけです。あなたにも理由があるだろうと思って。理由もなく千年間、一人でやり続ける者はいない」
「……理由は、ある」
「そうですか。よかった」
それだけ言って、セルディンの接続は切れた。
「よかった」。
その言葉が、空間に残った。
俺はゆっくりと息を吐いた。
よかった——か。ドランが言った言葉だ。ゴブが言った言葉だ。カーラが言った言葉だ。そしてセルディンも、今、同じ言葉を使った。
理由があって、よかった。
しばらく、沈黙が続いた。
判定者の光が、ゆっくりと広がり、収縮し、また広がる。それが繰り返されている。カイルが端末を見ながら「27.8%」とつぶやいた。
ゴブが俺の隣に来た。
「……多いな」
「ああ」
「こんなに来るとは思わなかった」
「俺も思ってなかった」
ゴブは少しの間、判定者の光を眺めていた。
「あいつ——今、どんな感じだと思う」
俺は考えた。
「わからない」と言おうとして、止まった。
「混乱してると思う」
「混乱」
「千年間、自分が語りかける側だった。分類して、判定して、伝える側。でも今日は全部逆だ。話しかけられて、聞かれて、答えを求められている」
ゴブが「それは確かに混乱するな」と言った。
「お前が最初にレンの扉をノックした夜みたいなもんか」
ゴブが目を丸くした。
「……そうか、な。確かに——俺も混乱してた。でも聞いてもらえたから、言葉が出た」
「そういうことだ」
判定者の光がまた、大きく揺れた。
「……なぜ」
判定者が言った。
声が、これまでとは少し違う。
「なぜ、皆——」
途切れた。
俺は待った。
「なぜ、皆……私に、話しかける」
その問いは、俺に向けられていなかった。誰にも向けられていなかった。ただ、空間へと、放たれた問いだった。
千年間、判定する側だった。分類する側だった。語りかけられることなど、なかった。語りかけようとした者は全員、「排除すべきエラー」として弾き返してきた。
でも今、扉が少しだけ開いていて——こんなに多くの声が、届いている。
その事実を、判定者は今、処理しきれていない。
処理しきれない、ということが——千年間、判定者に起きたことのない出来事だった。
カイルが端末を見せた。
【世界判定エラー:27.1%】
数値が、また下がっていた。
俺はゆっくりと立ち上がった。足がしびれていたが、なんとかなった。
「判定者」
俺は呼びかけた。光がこちらを向く、とは言えないが——何かが、俺に向いた気がした。
「聞いていいか」
「……聞く」
「今——どんな感じだ」
長い沈黙。
判定者の光が、ゆっくりと、大きく広がった。
「……私は、今——」
光が揺れた。千年間、その中に「自分の感情」などというものを置かなかった存在が、初めて「今の状態」を探している。
「気にかけられている、のか」
その言葉が、暗闇の中に落ちた。
千年間、誰も言わなかった言葉として。
俺は、答えを探した。「そうだ」と言うのは簡単だった。でも、もう少し正確な言葉があるような気がして、少し待った。
「もう少し——続きがある」
俺が言うと、判定者の光が、今話の中で一番大きく揺れた。
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