第310話「私も、あなたと同じでした」
フォルの声が消えた。
「その言葉はあなたの設計にあるか」——問いだけが、空間に漂っていた。
判定者は答えない。光が揺れている。さっきからずっと、落ち着かなく、だが確実に揺れていた。
俺は壁に背中を押しつけたまま、床に座り込んでいた。
足の感覚が薄い。十七時間以上、この場所にいる。水は八時間前に尽きた。喉の渇きは考えないようにすれば乗り越えられる——そう思ってから四時間が経った。
「世界判定エラー、37.2%」
カイルが端末を見て、静かに読み上げた。
「下がってる」
「ゴブとフォルの声が届いたせいだと思う。でも——止まってもいる。37台でしばらく動いてない」
来た者が俺の隣で光を揺らした。封印から来た知性体。待つ者と名づけた存在。今日は誰より長い時間、ここに一緒にいた。
「……判定者が、処理している」
「何を」
「聞いたことを」
俺はそれを聞いて、少し息を吐いた。
焦らなくていい。処理しているなら、それでいい。
カイルの端末が鳴った。
「——来た」
「誰から」
カイルが画面を確認して、目を細めた。
「ガレス殿です」
俺は立ち上がった。足がしびれていたが、それより優先することがあった。
「繋いでくれ」
接続が確立したとき、最初に届いたのは空気の音だった。
外だと思った。風が吹いている。農地の匂いがするような気がした。
「——聞こえるか」
ガレスの声は記憶より少し老けていた。当然だ。三年近く経つ。
「ガレスだ。連合の元・討伐隊長。今は引退して、小さな農地を耕してる。カイルに「一言だけでいい」と言われて、こうして話している」
判定者の光が揺れた。
「俺が何者かを、まず言うべきだと思う。俺はかつて、剣を持ってあの門番の小屋に向かった男だ。殺すためではない——厳密には。だが、排除しに行った。それは変わらない事実だ」
「そして、剣を収めた」
短い沈黙があった。喋るのが得意ではない。でも今日は、ちゃんと考えてきた声だった。
「俺はな、魔物を憎んでいた。正確に言うと——怖かった。溢出で仲間を何人も失った。部下を埋めた。だから刃を向けるしかなかった。そうするしかないと思ってた」
「分けることで、楽になろうとしてた。敵と味方。人間と魔物。上と下。分けてしまえば、迷わないから。考えなくていいから」
ゴブが俺の隣で足を崩した。聞いている。
「でも聞いたら——わかった。分けていたのは世界じゃなくて、俺自身だった。聞く前と後で、魔物が変わったわけじゃない。ただ、俺の目が変わった」
「そういうことだ。それだけだ」
咳払い。
「あんたが何者かは俺にはわからない。千年分類してきたっていうのも、正直ピンとこない。ただ——分類することで楽になろうとした気持ちは、わかる気がする」
「俺も、同じだったから」
一拍おいて、ガレスが言葉を足した。
「それと——まあ、聞いてから判断した結果、俺は剣を収めた。今でも間違いじゃなかったと思ってる。以上だ。農作業の時間だ。じゃあな」
接続が切れた。
風の音が消えた。
俺はゆっくりと息を吐いた。
ガレス。かつて刃を向けてきた男が、今は農地で土を耕しながら、判定者に向けて言葉を送ってきた。
「【世界判定エラー:34.6%】」
カイルが静かに読み上げた。
次が来るまで、少し間があった。
ゴブが俺を横目で見た。
「ガレスさん、変わりましたね」
「そうか」
「三年前、あの人の目は違いました。俺を見るとき——値踏みするような目でした。今は、声の中に聞こうとする何かがある」
「聞いた、ということだ」
ゴブが「うん」と言って、膝を抱えた。
来た者が動いた。
「彼は判定者について話したのではなく、自分について話した」
「ああ」
「なぜそれが届くのか」
「自分と同じだと感じるから、じゃないか」
来た者が光を揺らした。考えているようだった。
「……そういうものか」
「俺もよくわかってない。でも——そうだと思う」
カイルの端末がまた鳴った。
「次です。セルウィン殿、連合の元査問官から」
「繋いでくれ」
「セルウィン・ロカーです」
整然とした声だった。感情を制御している声。でも今日は、その制御の下に何かが滲んでいた。
「元・連合査問会主任査問官。現在は記録部門の顧問をしています。伝えることを、三日考えました」
三日間。言葉を選んでから来る。そういう人だった。
「私が理解していることから始めます」
「分類というのは——恐怖への答えです」
判定者の光が静かに動いた。
「私は若い頃、言葉が国を動かすのを目の当たりにした。一人の演説家が民衆を変え、王が退位した。そのとき私は思った——言葉は制御できない。だから怖い。怖いものには、定義が必要だ」
「以来、私は論理を使った。分類を使った。定義できないものを、私は怖がっていた」
「分類すれば予測できる。予測できれば制御できる。制御できれば——怖くない」
俺は目を閉じた。
カーラも、オルディーンも、ガレスも——みんな怖かった。怖かったから、どこかに答えを求めた。セルウィンの場合、その答えが「分類」だった。判定者と——構造が同じだ。
「あなたが世界を格付けしてきた動機を、私は正確には知りません。でも——分類に逃げ込んだということは、分類しなければ怖かったということだと、私は思います」
「私と、同じように」
「査問会のとき——私は一度、言いかけました」
俺は目を開けた。
「「まあ、聞いて——」と。あの門番と同じ言葉を」
ゴブが、ほんの少し口元を動かした。
「呑み込みました。あの言葉を言ったら、自分が変わると思った。変わることが、嫌だった。変わることは——それまでの自分を否定することだと思っていたから」
「でも、変わりました。時間がかかりましたが。査問会が終わってから、記録を整理するうちに——気づいたら変わっていました」
一拍。
「変わったとき、世界が変わったわけではありませんでした。ただ私の中の何かが変わっただけです」
「それでも——十分でした。変わることは、終わりではありませんでした」
「あなたが千年維持してきた設計を、私が否定する権限はありません。ただ——変わることは、終わりではない。私はそれを経験した者として、言えます」
接続が切れた。
判定者の光が、ゆっくりと安定していった。
「【世界判定エラー:31.0%】」
来た者が、俺を見た。
「彼は、恐れを認めた」
「ああ」
「自分の恐れを、まず」
「そうしないと、判定者の恐れには届かないから」
来た者がわずかに光った。
次の接続が来たとき、俺は少し驚いた。
「連合議長——オルディーン閣下から、です」
「議長自身が?」
「はい」
カイルが確かめるように言った。俺も少し間を置いた。
「繋いでくれ」
「オルディーンだ」
かつての連合議長の声は、記憶より柔らかくなっていた。
「三ヶ月前に退任した。後任に引き継いだ。若い者だが——まあ、俺より聞ける人間だといいが、それは保証できない」
軽く笑う気配があった。あのオルディーンが。
「……俺がお前に話したいことは、一つだけだ」
端末の向こうで、少しの間があった。公的な「議長」の声ではない。もっと個人的な何かを探している気配があった。
「俺はずっと、人類を代表して怖がっていた」
「人類が怖がっているから、その恐怖を正しく処理しなければならない。だから処分という結論を先に出した。聞く前に」
来た者が俺の隣で静かに光った。
「あんたも——そうじゃないかと、思ってな」
オルディーンの声が続く。
「あんたは世界を代表して、世界を守ってきた。設計が何を求めているかを優先した。俺が議長として、個人の意見を持つことを許さなかったように——あんたも「判定者としての自分」に縛られてきたんじゃないかと、俺は思った」
「だから——自分がどうしたいかを、聞かれたことがなかったんじゃないかと」
俺は壁から少し体を離した。
議事堂の中で、俺が「あなた自身は、どう思いますか」と聞いたとき——オルディーンは長い間、答えられなかった。議長として、その問いを受け取る訓練を、誰も受けていなかったのだと後で気づいた。
「あのとき、一人の門番に「あなた自身は、どうしたいですか」と聞かれた。生まれて初めてだったかもしれない、あの問いを受けたのは」
判定者の光が、大きく輝いた。
「あんたにも——千年の間に、誰かが「あなた自身は、どうしたいですか」と聞いたことがあったか」
俺はゴブと目を合わせた。
ゴブが静かに、首を横に振った。ないだろう、という意味だった。
「なかったとしたら——俺は、それを言いに来た」
「判定者よ」
「あんた自身は——どう、したい」
接続が切れた。
沈黙が、下りた。
今度は、誰も何も言わなかった。
俺も、ゴブも、カイルも、来た者も——ただ、判定者の光を見ていた。
揺れていない。
震えてもいない。
ただ——そこに、ある。
だが明らかに、さっきまでとは違う何かだった。内側で何かを、処理している。
「【世界判定エラー:27.3%】」
カイルが静かに読み上げた。
「大きく下がった」
来た者が言った。
「判定者が、自分に問いかけている」
「何を」
「「したいこと」を」
俺は息を吸った。
喉が渇いていたが、今はどうでもよかった。
どれくらい経っただろう。
判定者の光が静かに揺れていた。外からの声に揺れるのではなく、内側から揺れる感じがした。
カイルの端末が振動した。
「……レイラ殿から、接続要求が来ています」
俺は少し息を整えた。
ep290で、彼女はすでに判定者へ記録を送っていた。戦争の全記録、失った者の名前、和解の経緯——全部をデータとして。
だが今回は声だ。
「繋いでくれ」
接続が成立したとき、最初に聞こえたのは沈黙だった。
「……レイラです」
低い声だった。安定している。でも今日は記録官の声ではなかった。もっと個人的な、誰かに話しかける声だった。
「以前、記録を送りました。全部、送りました」
「でも——声で言わなければと思ったことが、一つだけ残っていたので」
判定者の光が動いた。
「あなたが千年、世界を分類してきた理由——今回、関わった方々の話を聞いて、少し理解したと思っています」
「というより——見覚えがあった、と言う方が正確です」
来た者が俺を見た。俺は小さく頷いた。
「私も、していたんです」
レイラの声が続いた。
「あの戦争で全てを失った後——私は、和解を進めた者を憎みました。その感情を、世論工作に変えた。憎まなければ、失ったことに意味がなくなる気がした」
「だから分類したんです。あの男が悪い、交渉が悪い、聞くことが悪い——そう分けることで、私は失った者たちを守ろうとした」
「分類すれば、誰かが悪いことになる。誰かが悪ければ、意味のない死などない——そう思えた」
「でも本当は誰も悪くなかった。戦争があって、人が死んだ。それだけだった」
「悪者を作りたかったのは、私自身だった」
判定者の光が大きく揺れた。ゴブが膝に置いた手を少し強く握った。
「あなたが世界を分類した理由も——どこかに「意味のない出来事を、意味のないままにしておきたくなかった」があったのではないかと、私は思っています」
「違うかもしれない。でも——もし少しでも重なるなら」
「私は分かります」
一拍。
「私がそうだったから」
判定者の光が——震えた。
揺れるのとは違う。震えている。内側から何かが動いている。
「あのとき、査問会で——レン・アシダに聞いてもらいました。誰にも聞いてもらえなかったことを」
「聞いてもらってから——少しだけ、変わりました。分類しなくても、失った者たちに意味はある、と思えるようになった」
「あなたにも——もし千年間、誰にも聞いてもらえなかったなら」
「私が聞きます。今から」
来た者が俺の隣で、静かに言った。
「彼女が——泣いている」
声には出ていない。でも来た者には分かるのかもしれない。
「そうかもな」と俺は思った。声には出さなかった。
レイラの声が、最後に言った。
「私も——」
短い間。
「私も……あなたと、同じでした」
接続が切れた。
沈黙が下りた。
今度は、誰も何も言わなかった。
俺も、ゴブも、カイルも、来た者も——ただ、判定者の光が震えるのを見ていた。
それは長い震えだった。
かつての討伐隊長が、かつての査問官が、かつての連合議長が、かつての黒幕が——それぞれの変わり方で、それぞれの言葉で、判定者に語りかけた。
共通していたのは一つだった。
「自分も、同じだった」
「……数値」
カイルが端末を見た。
「【世界判定エラー:23.1%】」
ゴブが、静かに息を吐いた。
「判定者は——今、どうしてますか」
来た者が答えた。
「聞いている。受け取ったものを」
「それ、でいいんですかね」
「……わからない」
来た者が珍しく、不確かな答えを返した。
「だが——届いた。それは確かだ」
ゴブが俺を見た。
「レン」
「なんだ」
「次は——誰が来るんですか」
俺にはわからなかった。
判定者の震えは、まだ続いていた。光が揺れるたびに、俺には何かを言いかけているように見えた。でも——まだ言葉にはなっていない。
焦らない。急かさない。
それは最初からずっと変わらない、俺のやり方だった。
「まあ——聞いてから判断しよう」
俺はそう呟いた。誰に言うわけでもなく。
ゴブが「そうですね」と言った。
来た者が静かに光った。
カイルが端末を握り直した。
判定者の震えが、続いている。
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