第309話「あんたの線を、俺たちは越えた」
---
ゴブの言葉が、空間に残っていた。
「まあ、聞いてから判断しようと思って」
判定者の光が揺れている。乱れたリズムが止まらない。
俺は息を整えた。
水が尽きてどのくらい経つか、もうわからなかった。足の裏は感覚が薄れ始めている。十七時間以上、この場所にいる。体が限界を教えているのに、離れる気にはなれなかった。
「判定者」
俺は静かに呼びかけた。
「ゴブの言葉が、あなたを揺らした」
「……」
「揺らした、ということは——何かが、届いた」
光はまだ揺れていた。返事はない。でも、沈黙は否定ではなかった。
「あなたは証明を求めた。俺は見せると言った」
俺はゆっくりと続けた。
「外に、声を届けたい。分けられた側の声を——あなたに、直接届けたい」
「……」
「そのために、あなたのネットワークを使わせてほしい」
全迷宮の底を流れる回路。判定者が千二百年かけて構築した、世界の設計の基盤。それを通じて外へ声を届けること——俺が提案したのは、そういうことだった。
「設計外だ」
判定者の声が滲んだ。低く、かすれるように。
「わかってます」
「設計外の処理は——」
「証拠を出すためです」
俺は続けた。
「設計の中だけを見ていたら、設計外の証拠は出てこない。あなたが見たいと言っているのは——そういうことですよね」
沈黙。
俺の隣で、ゴブが静かに座り込んだまま光を見ていた。カイルは端末を構えて待っている。来た者は、暗闇の向こうで静かに存在していた。
「失敗したとき、どうする」
判定者が問うた。
「また聞きます」
俺は答えた。
「失敗したら、何がいけなかったか聞いて、また試みます。一回でうまくいかなくても——それは、最初からそういうものです」
「……」
「俺もゴブも、最初から全部うまくいったわけじゃない。間違えて、怒らせて、それでも聞き続けた」
光の揺れが、少し変わった気がした。
「……開放する」
声が滲んだ。
「これは、設計外だ」
「はい」
「責任は、どこが取る」
俺は少し考えた。
「俺が取ります」
「お前は——ただの人間だ」
「そうです」
「ただの人間が、設計の責任を取れるか」
「取れないかもしれない」
俺は正直に言った。
「でも、責任を取ると言える人間は今ここに俺しかいない。だから、俺が言います」
判定者の光が、広がった。
ゆっくりと、網の目のように空間を走る。全迷宮の底を流れる回路が、開き始めた。
変化は、音もなく来た。
「繋がった」
カイルが端末を見て言った。
「フォルから信号が届いてます。ゴブ——声、通ってます」
ゴブが立ち上がった。
小柄な体で、まっすぐ前を向く。光の向こうに話しかけるように、ゴブは深く息を吸った。
「判定者」
ゴブは呼びかけた。
「名前があるかどうか知らないけど——俺はゴブって呼ばれてる。ゴブリン。あんたが分類した種族の、一番下のあたりにいる者だ」
光がわずかに揺れた。
「あんたに分けられたのは知ってる」
ゴブの声は低くて静かだった。怒りはなかった。それより、もっと静かな何かが滲んでいた。
「ゴブリンは最下層。人間の脅威。迷宮の中に押し込められた存在——そういう設計だったんだろ」
「……そうだ」
「俺はずっと、第七迷宮の四層にいた。上からは人間が来る。もっと強い魔物に追われて、下からは第23層の脅威が来る。俺みたいな弱いゴブリンは、挟まれて震えてるしかなかった」
ゴブの目が、遠い場所を見ているようだった。
「外なんて、夢みたいな話だった。出られるとも思ってなかった」
「……」
「ある夜、変な奴が来た」
ゴブが俺を一瞥した。「変な奴」という視線が来て、俺は少し居心地が悪くなった。
「夜中に門番の小屋に行って、扉を叩いた。何をされるかわからなかった。叩いたら斬られるかもしれないと思った。でも——叩かなかったら、何も変わらなかった」
ゴブは続けた。
「そいつは話を聞いてくれた。外に出てきていいって言ってくれた。脅威かどうかは後で判断するって——まずは聞いてくれた」
「……」
「あんたの設計の中じゃ、俺はゴブリン。最下層の魔物だ」
ゴブはまっすぐ、光に向かって言った。
「でも今の俺は——第七迷宮の門番だ。王国から正式に認められた、門番だ。人間から「おめでとう」を言われた日のことを、俺は今でも覚えてる」
判定者の光が大きく揺れた。
「……それは」
「設計の外にあることだ。わかってる」
ゴブは静かに言った。
「設計の外で——俺は、会えた」
「会えた」
「あんたに分けられても。俺たちは、会えた」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
光は揺れたまま、止まらない。俺の喉が、ひりついた。足の感覚がない。何かを飲みたかった。でも——この空間から、離れることができなかった。
「フォルから接続確認」
カイルが端末を操作しながら言った。
「繋ぎます」
声の質が変わった。カイルのスキルを経由して届く、迷宮知性体の声。それは空間に溶け込むように滲んできた。
「判定者」
フォルの声は古く、深かった。迷宮の核にいる知性体の声は、ゴブとも来た者とも違う。もっと根元に近い、設計に近い場所から来る声だった。
「私はフォル。第七迷宮の核として在る者だ。迷宮という構造物の中に、長い年月を存在してきた」
「……知っている」
「ならば、私が何であるかも知っているだろう」
「……分類装置の核。秩序を維持するための機構」
「そうだ」
フォルは静かに言った。
「私はあなたの設計の内側にいた。迷宮という装置の中で、人間を選別し、強い者を上層へ導き、弱い者を弾く——それが私の役割だった。あなたと私は、同じ役割を担わされていた存在だ」
「……そうだ」
「だから——私には、少しわかる」
「……何が」
「あなたが、なぜ分けたのかが」
俺は黙って聞いていた。
フォルが判定者に直接語りかけるのは、初めてのことだった。この空間でその言葉を聞くのは、俺にも重さがあった。
「設計の中にいると、分けることが正しいと思う。それしかないと思う。分けなければ秩序がないと信じて疑わなかった」
「それは、正しい」
「正しかった」
フォルは続けた。
「だが——私は間違えたことがある」
「……」
「ドランという知性体がいた」
俺の胸が、少し痛くなった。
ドランの名を聞くと、いつもそうなる。
「彼は第七迷宮を三百年、管理していた。誰とも話さずに。設計の外の声を拒んで——それが正しいと信じて」
「……それは、正しい」
「正しかった」
フォルの声が少し沈んだ。
「だが——彼は最後に、一人の人間に話しかけた。その人間が、彼の話を聞いた。三百年で、初めて」
「……」
「ドランは、最後に言った。「よかった」と」
光が揺れた。
「よかった」
「あなたの設計に、その言葉はあるか」
沈黙。
「……「よかった」は——感情の値だ。設計の測定項目には入っていない」
「そうだろうと思っていた」
フォルは静かに言った。
「でも——それは、確かにあった。私は見た。ドランが消える直前、彼の声が変わるのを、私は感じた」
「……」
「設計で測れないものが、あった。私はそれを証言できる」
判定者の光が、またゆっくりと揺れた。
今度は大きく、長く。まるで何かを受け取ろうとするような揺れ方だった。
「来た者から接続が来てます」
カイルが端末を見ながら言った。声が少し上ずっていた。
「繋ぎます」
声の質が変わった。
外から来たものの声は、フォルよりもさらに古い質感があった。世界の外から来た知性体の言葉は、わずかに温度が違う。
「——判定者」
来た者の声が届いた。
「私たちは、あなたの設計の外から来た」
「……知っている。分類不能。除去対象」
「そうだ」
来た者は静かに言った。
「あなたは私たちを会わずに決めた。分類不能と判定し、除去対象と定めた。設計の維持のために、それは正しかっただろう」
「……そうだ」
「では——」
来た者は続けた。
「あなたは私たちに、会ったことがあるか」
沈黙。
「……設計上、その必要はなかった」
「そうか」
来た者の声は、怒りを含んでいなかった。静かな、確認だった。
「あなたは会わずに決めた。話さずに分類した。それが正しい設計だった」
「……そうだ」
「もし、あなたが会っていたなら——どうなっていたか。考えたことはあるか」
「……設計に、その仮定項目はない」
「私たちは三百年、封印の内側にいた」
来た者は続けた。
「外に出られず、話す相手もなく——ただ、待っていた。あなたに「除去対象」と決められた存在として、ただ、そこにいた」
「……」
「レンという者が来た」
俺の胸の底が、揺れた。
「除去しようとせず、分類しようとせず——ただ、聞きに来た。「まあ、聞いてから判断しよう」と言って」
「……」
「私たちは初めて、話すことができた。名前を得た」
「名前は——分類の手段だ」
「この名前は違う」
来た者は静かに言った。
「ただの人間が、私たちを見て、自分でつけてくれた名前だ。分けるためでなく——繋がるために」
判定者の光が大きく揺れた。
「エラー率、動いてる」
カイルが端末を見ながら言った。
「下だ。ゆっくりだけど——」
「判定者」
ゴブが、また口を開いた。
小柄な体で、暗闘の底に座り込んだまま、ゴブは光に向かって言った。
「俺はゴブリン。あんたの設計では最下層だ。今は門番で、人間と話して、一緒に食事して——たまに口喧嘩もする」
ゴブの声に、笑みが混じった。
「フォルは迷宮の核で、長い間ここにいた。来た者は外から来て、三百年待った」
「……」
「俺たちはみんな、あんたに分けられた側だ」
ゴブは静かに言った。
「でも——」
一拍の間。
「あんたの線を、俺たちは越えた」
光が止まった。
揺れが——止まった。
違う。止まったんじゃない。じっと、何かを確認するように静止した。
「越えた」
判定者の声が滲んだ。
ゆっくりと、意味を確かめるように。
「……あなたたちは、その後——どうなったか」
「会えた」
ゴブが答えた。
「俺はレンに会えた。聞いてもらえた。それだけで——俺の世界が、変わった」
「変わった」
「それが答えかどうかは知らない」
ゴブは素直に言った。
「でも——変わったのは、本当だ。あんたに言えるのも、本当だ」
長い沈黙が落ちた。
光は静止していた。
俺は喉の渇きを感じながら、その光を見ていた。足元の感覚はほとんどなかった。何かを飲みたかった。でも、動く気にはなれなかった。
光が、ゆっくりと動き始めた。
揺れではなかった。変化だった。
「……エラー率」
カイルが静かに言った。
端末を見て、息を吐いた。
「四十パーセント。ちょうど四十」
俺は光を見た。
「判定者」
俺は声をかけた。
「どうですか」
判定者は、しばらく沈黙していた。
やがて、声が滲んだ。
「……わからない」
「わからない、か」
「これは——設計上、処理できない」
「処理できなくていい」
俺は言った。
「わからなくても——聞けた。それで、十分です」
「……」
「次は」
判定者の声が、問いかけた。
「次は、誰が来るか」
俺は少し考えた。
次——ガレス、セルウィン、レイラ、オルディーン。かつて敵対した者たちが、次に声を届ける番だった。
「次は——あなたの設計の中で、人間同士で戦っていた者たちです」
「……人間同士で、戦っていた者」
「はい。でも、彼らも変わりました」
「変わった」
「聞いたから、変わりました」
光が揺れた。今度はゆっくりと、問いを持つような揺れ方だった。
「……分けた側が」
「そうです」
「分けていた側が——聞いて、変わった」
「次の声を待っていてください」
俺は言った。
「聞いてから、判断しても遅くない」
「……」
光が、広がった。穏やかに。
【世界判定エラー:40.0%——外部証言受信継続中】
カイルの端末に、その数字が浮かんだ。
「次の接続、準備します」
カイルが静かに告げた。
「ガレスに連絡を入れます——かつての敵が来ます」
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。
なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。




