第308話「信じられない仕組み」
「……背負わなくていい、か」
光の波紋が、ゆっくりと揺れた。
判定者がその言葉を処理しているのが、うっすらとわかった。理解するためではなく、ただ繰り返している——そんな感じだった。千二百年間、一度も誰かに言われたことのない言葉を、今になって受け取ろうとしている。
俺は口を閉じたまま、待った。
急かしても意味がない。こいつの時間軸は俺たちとは違う。一秒の沈黙が千二百年の積み重ねを解きほぐそうとしている。
隣でゴブが足を崩して座り直した。長時間同じ姿勢でいたせいで、腿の裏が痛むんだろう。俺も同じだった。腰の奥に鈍い痛みがある。水は三時間前に底をついていた。口の中が乾いて、声を出すたびに喉が引っかかる感覚がある。ここに降りてきてから十七時間以上が経っていた。
カイルが端末を確認した。
「エラー率、四十三パーセント台に入った。さっきより下がってる」
小声だった。判定者に聞こえているかどうかに関係なく、仲間に向けた確認だった。
【世界判定エラー:43.7%】
数字は下がっている。ゆっくりだが、確かに動いている。
来た者は空間の端で静かにしていた。あいつの光は柔らかい。判定者のそれとは明らかに違う——似たような存在でも、三百年かけて「待つこと」を覚えたやつと、千二百年かけて「分けること」だけをしてきたやつでは、光の質が違う。来た者の光には、どこか温度があった。
俺は床に手をついて背を伸ばした。脊椎がひとつずつ鳴った。
「……証明がない」
判定者が口を開いたのは、それから少しあとのことだった。
俺は顔を上げた。
「聞き合うことで秩序が保てる、という前提に」
声は平坦だった。感情を乗せようとしているのか、あるいは乗せ方を知らないのか、まだわからない。千二百年間、値と論理だけを扱ってきた声だ。
「あなたは、そう言った。しかし」
続く言葉を待った。
「それは仮説だ。検証されていない。俺の設計は千二百年の試行から導かれた。あなたの提案には、それに匹敵する根拠がない」
ゴブが小さく息を吐いた。批判ではなかった——ただ、この議論がまだ続くということへの、静かな息継ぎだった。
俺は判定者の光を見た。揺れている。威圧ではなく、本当に疑問として問うている。
「……そうだな」
「否定か」
「いや。あなたの言う通りだ、と思った」
光がわずかに止まった。
「聞き合うことで秩序が生まれると俺が言っても、それは俺の経験から来る話だ。数値として叩き台に出せるものじゃない。証拠がないというのは、正しい指摘だ」
しばらく沈黙があった。
「……否定しないのか」
「嘘をついても意味がない。あなたは分類の存在だ。根拠のないことを言っても、見抜く」
判定者の光が落ち着いた。威圧を撤退させたときの波紋に似ていた。
「それは……正確だ」
カイルが小声で「おい」と言った。俺を見ている。「認めたら終わりじゃないのか」
「終わりじゃない」と俺は返した。「ここからだ」
「だから」
俺は膝に手をついて立ち上がった。腰が鳴った。長時間の床座りは、体に堪える。俺は判定者の光に向き直った。
「見せます」
「見せる、とは」
「証明を。言葉じゃなく、実際に」
判定者は沈黙した。処理が走っているのが、光の微細な震えから見えた。
「あなたが千二百年かけて分けたものが、聞き合うことで繋がった例がある。一つや二つじゃない。あなたが直接聞けば、それが証明になるかどうかはあなた自身が判定すればいい」
「……見せる、とはどういう意味か」
「声を届けてほしい。外に。俺たちがここに来られたのは、あなたの座が全迷宮に繋がっているからだ。その回線を少しだけ借りたい」
光が大きく揺れた。
「この空間は閉じた設計だ。分類の精度を保つために」
「わかってる。全部開けなくていい。ここまで俺たちを届けてくれたカイルのスキルに繋いでもらえれば、あとは俺たちで何とかする」
カイルが端末から顔を上げた。俺と目が合う。
「……できるか」
「やってみる。保証はしない」
それでいい。保証なんて、俺だってない。
判定者の光は長い間揺れていた。千二百年間、外の声を遮断し続けてきた存在に、その回線を開けと言っている。設計の根幹に触れる話だ。拒否されることも想定していた。
「なぜ」
「何が」
「なぜ、私が手を貸す必要がある」
俺は少し考えた。正直に言おうと思った。
「あなたが疑問を持っているからだ」
「……疑問」
「証明がないから信じられない、と言った。それは嘘じゃない。あなたは今、本当に迷っている。もし完全に信じないなら、疑問を持たずに俺たちを排除すればよかった。でもそうしなかった」
ゴブが静かに続けた。
「迷ってる人間は、答えを探してます」
ゴブが言うと説得力が違う。こいつは迷いながら門番になったやつだ。迷いながら人間語を覚えて、迷いながら俺の扉をノックしに来た。その全部が、今ここに繋がっている。
判定者は長い沈黙に入った。
来た者の光が一度揺れた。何かを言いたそうにしていたが、言葉を出さなかった。こいつはいつも言葉の手前で止まる。でも、止まること自体が意志だと俺は知っている。止まって、待って、それでも残るものだけが来た者の言葉になる。
「……一つ、聞いていいか」
判定者の声が変わった。問いを問いかける声だった。
「どうぞ」
「あなたは——失敗したとき、どうするつもりだ」
俺は少し意外に思った。判定者がそういう問いを投げてくるとは思っていなかった。
「失敗したら」
「見せると言った。繋がったとしても、届いた声が証明にならなかった場合。あなたは何をする」
俺はゴブとカイルを見た。二人は俺を見ていた。
「また聞く」
「……それだけか」
「それだけだ」
カイルが小さく笑った。苦笑のほうに近い。「こいつはずっとそうだ」とカイルが言った。「失敗したら次を聞く。俺が最初にそれを見たとき、正直バカにしてた。今は同じことをやってる自分がいる」
「……あなたも、同じことをするのか」
「俺は二代目調停者です」とカイルは言った。「師匠から受け継いだのは、スキルじゃなくてそのクセです」
判定者は沈黙した。
「最初に、ゴブリンがレンの扉をノックしたとき」と、ゴブが言った。「レンは追い返すこともできた。でも聞いた。俺も怖かった。人間に話を聞いてもらえるとは思っていなかった」
「……聞かれることを予期していなかったのか」
「してなかった」
「なぜ、それでも行った」
ゴブは少し間を置いた。
「まあ——聞いてから判断しようと思って」
俺は思わず振り返った。
ゴブは澄ました顔をしていた。どこかで俺の口癖を拾って、ずいぶん前から自分のものにしている。こいつがこれを言うのはもう珍しくないが、いつも少し胸に来る。こいつが最初にこれを言えるようになった日のことを、俺はたぶんずっと忘れない。
判定者の光が、ゆっくりと動いた。
「……証拠のないものに賭けた、ということか」
「そうです」とゴブは言った。「でも、賭けてみたら——こいつがいた」
「判定者」
「なんだ」
俺は言った。
「あなたは今、俺たちの話を聞いている」
「……それは」
「証明できていないことに、あなたは耳を傾けている。あなたの設計では「証明なき提案は無効」のはずだ。でも今、あなたはここで俺たちと話している」
光が揺れた。強く、そして長く。
「それが——答えだと言いたいのか」
「あなたが判定すればいい」
長い沈黙だった。
カイルが端末を握り締めていた。ゴブは膝に手を置いて、判定者の光を真っ直ぐ見ていた。来た者は静かだった。
俺は立ったまま、ただ待った。
「……回線の開放を許可する」
判定者の声は、これまでの中で一番低かった。
「ただし」
「聞く」
「結果を——俺は見る。あなたたちが言う「繋がり」が本物かどうか。俺が判定する」
「それでいい」
「もし」
光が一度、大きく震えた。
「もし、証明にならなかったとき。あなたは、どうする」
俺は即座に答えた。
「また聞きます」
カイルが動き出した。端末を操作する音がする。この空間の奥まで届くわけではないが、判定者の座が回線を開けた瞬間、カイルのスキルが反応した。
【二代目調停者スキル:外部接続——確立】
「繋がった」とカイルが言った。「薄いが——外に届く」
「ゴブとフォルに呼んでくれ。待つ者も」
「……ゴブはここにいる」
「ああ、そうだった」
ゴブが「俺は残ります」と静かに言った。「証人として。俺がここにいることが、一番の証明だと思うので」
俺はゴブを見た。こいつが第七迷宮の門番になった日のことを思い出した。小さな式典。カーラが「おめでとう、門番」と言った。あのとき、ゴブがどんな顔をしていたか。
「ありがとう」
「礼はまだいい」とゴブは言った。「うまくいってから、にしてください」
カイルが通信を走らせた。
「フォル——聞こえるか」
遠い波長が返ってきた。薄いが、確かにある。
「来た者——届いてるか」
空間の端で来た者の光が揺れた。届いている。
「ガレスとレイラにも」とカイルは続けた。「声が届くか試す。外が繋がってる時間は、長くないかもしれない」
「わかった。手早く頼む」
俺は判定者を見た。
光は揺れていた。回線を開けたことで、何かが入り込んでくるのを感じているのかもしれない。千二百年ぶりに、外の声を聞く扉をわずかに開けた。こいつがどんな気持ちでいるのかは、俺には正確にはわからない。ただ、揺れている光が、恐怖と好奇心の両方でできているような気がした。
「準備ができた」と俺は言った。
「……始めろ」
「もう少しだけ待ってくれ」と俺は言った。「あなたに向けて話しかけてくる者たちがいる。全部聞いてほしい」
判定者は沈黙した。
「……何人だ」
「数えていない」
「数えていないのか」
「まあ」
俺は少し間を置いた。
「聞いてから、判断しよう」
【世界判定エラー:43.1%】
光の揺れが、ゆっくりと変わった。拒絶でも受容でもない、何か別のものに。
判定者の声が、低く落ちてきた。
「……見せて、みろ」
一息置いて。
「できるものなら」
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