第306話「一人で背負う者」
「わからない」
その声が、座の中に残っていた。
石の表面は冷たかった。俺は片膝をついたまま、判定者の光の揺れを見続けていた。足の感覚がだいぶ前からない。推定十六時間以上、この空間にいる。水は三時間前に尽きた。
ゴブが「腹、減ったな」と小声で言った。
来た者が「……空腹に似たものは、知っている」と静かに返した。
「封印の中で?」
「長くいると、意志の密度が下がる。形は違うが、近い」
ゴブが「なんだそれ」と言い、来た者が「うまく説明できない」と答えた。
妙に場が和んだ。カイルが端末を打ちながら小さく笑った。
俺はその会話を半分聞きながら、頭の中を整理していた。
二つの恐れ。
世界が混沌に還る恐れ。
自分がいなくなる恐れ。
どちらが先か、という問いに判定者は答えられなかった。「わからない」と言った。千二百年間、一度もその問いを自分に向けたことがなかったから。
引っかかりがある。
どこかで見た構造だ、という感覚が、ずっとあった。
カーラ、と俺は思った。
第五章で最初に会ったときのことを思い出す。夜、荷馬車で一人で来た副司令。「助けてほしい」と言うまでに、どれだけかかっただろう。言葉にする前に、できる限りのことを全部やってきた人の顔だった。
後になってカーラは言っていた。「私は、一人で背負う人でした」と。「手放したとき、初めて楽になれた」と。
言えるようになったのは、誰かが聞いたからだ。
オルディーン、とも思った。
人類連合の議長。「人類そのもの」の象徴として議長席に座り、誰も見ていない場所で一人、名簿と向き合っていた男。失った家族の重さも、世界全体の恐怖も、一人で引き受けて「議長」であり続けた。
「あなた自身はどう思うか」と俺が問うたとき、初めて戸惑った顔をした。そんなことを聞かれたのは——という、なんとも言えない顔だった。
二人とも、一人で背負う人だった。
そして誰かに聞かれるまで、それが「一人」だとすら気づいていなかった。
俺は判定者の光を見た。
千二百年。
「一つ聞いていいですか」
俺は静かに言った。
光が集中するような変化をした。聞いている、という合図だとわかるようになってきた。
「千二百年間、誰かに「それを決めるのを手伝ってほしい」と言ったことがあるか」
沈黙が来た。長い沈黙だった。
「……設計に、その選択肢は——なかった」
「つまり、ない」
「……ない」
俺はもう一つ続けた。
「設計が終わったとき、誰かに見せたか」
「見せる——意味が、わからなかった」
「見てほしかったか」
今度の沈黙は、それより長かった。
「……その値は」
「「その値は」って言うときは、処理中だよな」俺はゆっくりと言った。「急がなくていい」
判定者の光がしばらく揺れ続けた。来た者が、その揺れを静かに見ていた。
「……「見てほしかった」かどうかを——分類しようとした。しかし該当する過去記録が、ない」
「考えたことがなかった、ということか」
「……思い至らなかった。設計を完成させることが——全てだったから」
俺はその言葉を聞いて、静かに息を吐いた。
設計を完成させることが全て。見せることも、手伝ってもらうことも、「怖い」と言うことも、設計の中にない。千二百年間、一人で走り続けた。
カーラだ、と思った。
オルディーンだ、と思った。
「二人のことを話してもいいですか」
俺は判定者に向かって言った。
「……聞く」
「カーラという人がいた。王国の副司令だった。俺が最初に会ったとき、夜中に一人で来て「助けてほしい」と言った。でも、その言葉を言うまでに、できることを全部やってきた人だった。一人でできる範囲を、全部使い果たしてから来た」
判定者は何も言わなかった。光が揺れているだけだった。
「もう一人、オルディーンという人がいた。人類連合の議長。「人類そのもの」として席に座って、誰の前でも「議長」だった。俺が「あなた自身はどう思うか」と聞くまで、自分の意見を言ったことがほとんどなかった。そんなことを聞かれたのは初めてだ、という顔をした」
カイルが端末を持ちながら、静かに俺を見た。
「二人とも——一人で背負っていた。誰かに頼む選択肢が、最初から設計になかった。「怖い」と言う場所もなかった。だから気づかなかった。自分が「一人」だということに」
来た者が静かに動いた。
「……私も、そうだった」と来た者が言った。「封印の中で何百年もいた。「独り」という言葉を知らなかったから、それが当たり前だと思っていた。声をかけてもらって、初めて「これが独りだったのか」とわかった」
「感じていたのに、名前がなかった」
「そうだ」
俺は判定者を見た。
「あなたも——同じじゃないですか」
長い。
本当に長い沈黙が来た。
ゴブが俺の袖を軽く引いた。目で「大丈夫か」と聞いていた。俺は小さく頷いた。
カイルが端末に目を落とした。
「……カーラも、オルディーンも」と判定者がゆっくりと言った。「それは——人間の話だ。私は、違う」
「そうです」と俺は言った。「あなたは千二百年で、人間より長い。でも構造は同じだと思った。「一人で背負っている」という形が」
「私は——設計に従って動いていた。感情に従ったのではない」
「カーラも最初はそう言っていた。「職務として動いていた」と。でも、俺が「本当に怖くなかったか」と聞いたら——怖かった、と言った」
判定者の光が大きく揺れた。
「怖いと言える場所があれば、もっと早く言えた。でも、なかった。一人で背負うのが「正しいこと」だと思っていたから」
来た者が「……私もそうだった」とまた言った。
ゴブが口を閉じたままでいた。こういうとき、あいつは余計なことを言わない。その沈黙が、今は助かった。
俺は判定者の光から目を離さなかった。
そして静かに言った。
「あなたは——ずっと、独りだったんですね」
沈黙が、来た。
でも今度の沈黙は、質が違っていた。
重くない。静かだった。波がなくなった水面のように、ただ静かだった。
「……「独り」という状態の定義が、私の中に——ない」
ようやく声が来た。
「ずっとそれだったから——比較対象が、存在しない」
「比較対象がないから、独りだとわからなかった」
「……そうだ」
俺は来た者を見た。来た者がわずかに頷いた。同じだ、という意味だと受け取った。
「今は」と俺は聞いた。「今は、わかるか」
また長い沈黙。
カイルが端末を持ち直した。ゴブが足を少し崩した。来た者は微動だにしない。判定者の光だけが揺れ続けていた。
カイルの端末が、静かに光った。
【世界判定エラー:44.8%】
「下がった」とカイルが小声で言った。「能動的に下がったのは——久しぶりだ」
ゴブが「本当か」と耳打ちした。
「少しだけどな。でも確かに動いた」
俺はそれを聞いても、判定者から目を離さなかった。
「……今は」
判定者が言いかけた。
「今は——あなたたちが、いる」
その声が、少しだけ違っていた。
設計の言語ではなかった。千二百年間積み上げてきた分類の文体ではなかった。もっとぎこちない、もっとゆっくりした、でも確かに新しい何か。
俺は胸の中で何かが落ち着くのを感じた。
まだ終わっていない。次に言わなければならないことがある。「背負わなくていい」という言葉が。でも今日、判定者は一つだけ、知ったかもしれない。
独り、という言葉の意味を。
「エラー率、また下がった」とカイルが言った。「44.6%だ」
「動いてるな」
「……お前、何をしたんだ」
「何もしていない」と俺は言った。「聞いただけだ」
カイルが苦笑した。「お前が「だけ」って言うときが一番信用できない」
ゴブが「そうですよ」と同意した。
来た者が「……聞く、は——「だけ」ではない、と私は思う」と言った。
三人でそれを聞いて、少し笑った。座の中で笑い声が出たのは、初めてかもしれなかった。
俺は判定者の光を見たまま言った。
「一つ聞いていいですか」
「……聞く」
「「今はあなたたちがいる」と言ったとき——それはどういう意味でしたか」
また沈黙。でも今度の沈黙は短かった。
「……分類できない、という意味だった」
「分類できない?」
「私はこれまで、すべてを分類してきた。ジョブに、ランクに、迷宮の層に。しかしあなたたちを——どこにも、収められない」
俺は少し考えた。
「それは——困るか」
判定者の光が、ゆっくりと揺れた。
「……困るのか——わからない。設計では困るはずだ。しかし今は——」
「今は?」
「……その値も、まだ——出ない」
俺は立ち上がろうとして、脚に力が入らなかった。ゴブが素早く腕を支えた。「疲れてる」と言われた。「わかってる」と返した。
体は限界に近い。石の床で十六時間以上、水なしで。でも判定者は今、何かの「続き」を話しかけている。
「まあ」と俺は言った。「それは——聞いてから判断しましょう。ゆっくりでいい」
判定者の光が、一瞬大きく揺れた。
「……あなたは」と判定者が言った。「なぜ、急かさないのか」
「急かしても、損だから」
「損——」
「良い話は急かすと逃げる。俺の経験則だ」
少しの間があった。
「……経験則」と判定者が繰り返した。「設計ではなく、経験から——導き出した、ということか」
「そうです」
「……私には、経験則が——ない」
俺はその言葉を聞いて、次に言うことを決めた。
「じゃあ、これから作りましょう。あなたも交えて」
判定者の光が、大きく——本当に大きく揺れた。
カイルの端末に新しい数字が表示された。
【世界判定エラー:44.1%】
さらに下がっていた。
ゴブが俺の腕を掴んだまま言った。「……レン。これ、進んでる」
「みたいだな」
「次は、何を聞くんだ」
俺はまだ判定者を見ていた。光はまだ揺れている。大きく、でも静かに。
「それも——聞いてから判断する」
そのとき判定者が、静かに言った。
「……あなたたちに、一つ、聞いてもいいか」
俺は思わず来た者を見た。来た者が微かに動いた。ゴブが目を丸くした。カイルが端末を閉じた。
千二百年間、ただ分類してきた存在が。
今、「聞いていいか」と言った。
「もちろんです」と俺は答えた。「聞いてください」
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