第305話「消えることへの恐れ」
水筒を逆さにした。
一滴も、出なかった。
「終わりましたね」
ゴブが短く言って、水筒を静かに地面に置いた。音が座の中に反響して、消えた。
どれだけ時間が経ったか、もう正確にはわからない。この場所には窓も光の変化もなく、ただ判定者の白い光が一定の強さで空間を満たしている。体の感覚から推測するなら——腹はずっと前から鳴いていて、足も膝も岩の上に座り続けた重さで固まりかけていて——おそらく十五時間前後は経っているはずだった。喉が乾いていた。乾いているというより、声を出すたびに何かが削れる感覚があった。
「【世界判定エラー:45.2%】」
カイルが端末の数値を読み上げた。
前に聞いたときとほとんど変わっていない。
停滞している。止まっているというより——何かが踏み切れずにいる、という感じがした。判定者の光は揺れているわけでも消えているわけでもなく、ただそこにあった。でも俺には、その光の向こうに何かが溜まっているような気がしていた。
判定者は「分類をやめれば世界が混沌に還る」と言った。千二百年かけて作り上げた秩序が崩れることへの恐怖。それは理解できる論理だった。設計者が自分の設計の崩壊を恐れる。当然だ。
でも、何かが引っかかっていた。
ヴォルトが最初に「怖い」と言ったとき——その怖さの下に、もう一層あった。ガレスが「置いてけぼりにされた」と言ったときも、その言葉の前に「わからん」があった。レイラが「聞かれたことがなかった」と白状したときも、最初は「上手い」という遠い言葉を使っていた。
表面の言葉と、その奥に眠っていた本当の言葉は——いつも別のものだった。
俺はまだ下の層を聞いていない、という気がしていた。
「一つ確認してもいいか」
俺は声を出した。
ゴブが俺を見た。カイルが端末から顔を上げた。来た者は静かに立ったまま、こちらに向いた。
「世界が混沌に還ること、と言ったが」
俺は続けた。急かさず、でも止まらずに。
「それは——世界への恐れだ。あなたが千二百年かけて設計したものが崩れることへの。それは今、聞いた」
「……正確だ」
判定者の声は短かった。感情を乗せるための機構を持たない声だが、今は以前より何か密度が違う気がした。
「ならもう一つ聞く」
「……」
「それだけが、怖いのか」
沈黙があった。
長い沈黙ではなかった。でも、その短い間隔の中に何かが詰まっているのを感じた。判定者が考えているというより——踏み切れずにいる、という感じだった。セルウィンが口癖を言いかけて呑み込んだあの瞬間に似ていた。レイラが「言えば傷つけると思っていた」と言い訳する前の間に似ていた。
「答えなくてもいい」と俺は言った。
急かさない、は俺が長い時間かけて染みついた感覚だった。ゴブに教わったわけではないし、カーラから聞いたわけでもない。ただ、いつからか——急かすよりも待つほうが、ずっと多くのものを聞けると知っていた。
まあ、聞いてから判断しよう。
声に出さなかった。頭の中で静かに言った。まだ続きがある。
「ただ——まだ聞いていないことがある気がして」
来た者が、ゆっくりと一歩前に出た。
その存在はいつも慎重に動く。三百年封印されていた間に覚えた動き方なのか、場所を選んで、ゆっくりと。急かされない動き方を、それはずっと前から知っていた。
「私も——同じことを感じた」
来た者の声は静かだった。
「あなたが「世界が怖い」と言ったとき。本当のことを言っていたと思う。でも——全部ではない、とも感じた」
判定者の光がわずかに揺れた。
規則正しく、安定していたはずの光のリズムが——わずかに外れた。
「……もう一つ、ある」
判定者の声が出た。
誰も動かなかった。
ゴブが静かに膝の上で手を組んだ。カイルが端末を膝に置いた。来た者はそのまま立っていた。
「世界が混沌に還ることは——怖い。それは本当だ。千二百年、私はそのために分類した。それが崩れることは、許容の外にある」
「うん」
短く相槌を打った。次の言葉を待った。
「だが」
その一音に、これまで聞いてきた何万もの判定の言葉とは違う重さがあった。
「分類をやめれば——」
声が途切れた。
少し間があってから、また続いた。
「——私が、いなくなる」
座の空気が変わった。
光の強さも温度も何も変わっていない。でも、何かの境界を越えた感覚があった。
「私が、分類するから——私は、私だ」
判定者の声は平坦だった。もともとそういう仕組みで作られた声。でも、その言葉には俺がうまく名前をつけられないものが滲んでいた。
「分類をやめれば——私は、何に、なる」
誰も答えなかった。
俺も答えなかった。
答えを急ぐ必要がなかった。これは俺への問いかけというより、判定者が初めて自分に向けた問いを口に出している場面だった。それを急かして俺の答えで埋めてしまったら——何かが、壊れる気がした。
「ジョブのない存在に、ジョブは与えられない。機能のない存在を、私は分類できない」
「……」
「私が分類をやめれば——私は、分類できない存在になる。分類できない存在は、私の設計において——」
「……消える、ということか」
カイルが小さく言った。
珍しく、自分から言葉を出した。
「判定者でなくなった判定者は、判定者の定義に入らない。だから——」
「……正確だ」
判定者の声がそう答えた。
カイルが口を閉じた。端末を膝に置いたまま、少し視線を下に落とした。俺はその横顔を横目で見た。何と呼べばいいかわからない表情をしていた。
かつて第四迷宮から戻ってきたカイルが「俺には向かないかもしれない」と言いかけて止まった夜の顔に、少し似ていた。あの夜、俺は何も言わなかった。ただ傍にいた。今もたぶん、それでいい。
俺は座の光を見ていた。
千二百年間、一人でここに座って、世界を分類し続けてきた存在。
「門番、ランク外」と判定した存在。
農夫に農夫のランクを与え、剣士に剣士のランクを与え、そのどれにも入らないものを「ランク外」と弾いてきた存在。
誰も、その孤独に気づかなかった。
気づく必要がないと思われていた。仕組みに孤独はない、歯車に悲しみはない——そういう前提で世界が動いていた。俺も最初はそう思っていた。仕組みは仕組みだ、感情はない、だから話しかけても意味がない。
でも判定者は今、怖いという言葉の輪郭を探している。
世界が崩れることへの恐怖だけではなく。
自分が消えることへの恐怖。
「世界への恐れが先だったのか」
俺は声に出した。独り言のような声で。
「それとも——自分が消えることへの恐れが、最初から一緒にあったのか」
判定者は少し間を置いた。
「……わからない」
初めて聞く言葉だった。
千二百年間、分類できないものを「判定不能」として処理し続けた存在が——自分のことを「わからない」と言った。
ゴブが隣で小さく息を飲んだ。
「どちらが先に浮かんだか、覚えているか」
俺は続けた。
長い沈黙があった。俺はその間、ゴブとカイルと来た者の気配を感じていた。誰も急かさなかった。それぞれが、自分のやり方でその時間を守っていた。
「……覚えている」
「どちらだった」
「分類をやめることを考えたとき——世界が崩れる計算より先に——私が、いなくなる、という値が、出た」
「そっちが先だった」
「……そうだ」
俺は息を吐いた。
来た者が、静かに言った。
「私は——封印の中で、三百年いた」
判定者の光が揺れた。
「名前も、なかった。来た者とも、待つ者とも、誰も呼ばなかった。ただ、封印されていた。私は——自分が消えるのか、消えないのか、ずっとわからなかった」
「……」
「怖かったかと、今なら問える。だが当時は——怖いという言葉を知らなかった。知らなかったから、怖かったことにも気づかなかった」
来た者の声が一段落ちた。
「あなたも——知らなかったのかもしれない。自分が消えることへの恐れを、「怖い」と呼んでいいことを」
判定者は沈黙した。
今度の沈黙は、これまでとまた違う質を持っていた。処理が詰まっているのではなく——何かが、内側でゆっくりと動いている感じがした。
「私は」
判定者が、また口を開いた。
今度の声は——これまでで一番静かだった。静かというのは、小さいということではない。何かが剥き出しになっている、という感じだった。
「千二百年間、ここにいた。分類した。それだけが、私だった」
「うん」
「分類をやめることを考えるとき——世界が崩れる計算より先に——私が、いなくなる、という値が出る」
「うん」
「その値が出るたびに、私は計算を止めていた」
「千二百年、ずっとか」
「……千二百年、私は何度も「やめること」を計算した。やめれば世界が崩れるという計算が出る。だが——」
「その前に」
「……その前に。私が、いなくなる、という値が出た」
「その値を——」
俺はゆっくりと言った。喉が乾いていた。声が少しかすれた。
「怖い、と呼んでいいか」
「……」
「怖いと、呼んでいいか」
「……呼んで、いいのか」
「いい」
カイルの端末がかすかな電子音を立てた。
誰もそちらを見なかった。
ゴブが膝の上で手を重ねて、じっと座っていた。空の水筒が、傍らで静かに横になっていた。
「……怖い」
判定者の声が出た。
「うん」
「私が、いなくなることへの——」
「うん」
判定者の声が続いた。
ためらうように。絞り出すように。それでも確かに、言葉として出てきた。
「私が、いなくなる……それも、怖い」
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