第304話「怖いのだ」
「——初めて、語る」
判定者がそう言いかけて、止まった。
あの言葉から、また時間が過ぎた。
判定者の座——迷宮の最深部よりさらに深い、ランクも判定も存在しない空間——で、俺は時間の感覚を失いかけていた。ここに降りてきてからどれくらい経つか。カイルが「十二時間を越えた」と言っていたのは、さっきだったか、もっと前だったか。
足の裏に意識を向けた。固い地面が冷たい。体温を奪われているわけではないが、質感がひんやりしていた。喉が渇いていた。水はほとんど残っていなかった。
ゴブが膝を抱えて座り直した。一度立って、また座る。体が固まってきているのかもしれない。
「眠いか」と俺は聞いた。
「起きてます」
「別に眠くていい」
「……はい。眠いです」
来た者は光の傍に立ったまま動かなかった。あの存在がいつ疲れるのか、俺にはわからない。封印の中で三百年を過ごした存在に、十数時間は何でもないのかもしれなかった。
カイルが端末に目を落とした。「エラー率、変わらず。四十七・九」
「そうか」
「上がっていない、というのは評価していいのか」
「うん」と俺は言った。「下がりきってなくても、止まってるなら——中で何かが動いてる証拠だと思う」
カイルが少し考えた。「……そういうものか」
「どうかわからないけど」
正直なところ、確信があるわけじゃない。判定者の内側で何が起きているか、スキルのない今の俺には読みようがない。ただ、光の揺れ方を見ている限り——止まっているのではなく、迷っているという感覚があった。
ゴブが「レン」と声をかけてきた。
「なんだ」
「水、あとどのくらいありますか」
「俺の分はほぼない」
「……やっぱりそうですか」
「来た者に頼めば出口は作れる」と俺は言った。「でも、もう少し待ちたい」
「わかりました」とゴブは言って、また膝に顎を乗せた。それだけだった。文句も言わなかった。
七年近い付き合いだ。ゴブが「わかりました」と言うとき、本当に了解している。
俺は再び光を見た。複数の起点から波紋が広がり、干渉し合っている。さっき来た者が「中心が変わっている」と言っていた。何かを考えている——という言い方が正確かどうかはわからないが、それに近い何かが、あの光の中で動いている気がした。
「——語ろう」
判定者の声が、改めて空間に響いた。
俺は動かなかった。「聞いています」とだけ言った。
「……前回も、話した。だが、まだ話していないことがある」
「聞かせてください」
光の揺れが、少し落ち着いた。
「等しい世界だった」と判定者は言った。「格差のない。ランクのない。誰もが同じ権利を持ち、同じ土地に立っていた。それが——美しいと、思われていた時代だ」
「そうだったんですね」
「人間も魔物も、区別されていなかった。迷宮は存在しなかった。ジョブという概念もなかった。ただ——生きる者が、同じ地平に立っていた」
「うん」
「だが」と判定者は続けた。「平等な世界であっても——力の差は消えなかった」
「……はい」
「格差を撤廃しても、能力の差は残る。体力の差。知恵の差。生まれながらの差。それを調整する制度がなければ——強い者は自然と多くを得た。弱い者は端に追いやられた」
「意図せず」と俺は言った。
「意図せず。悪意がなければ——問題だと気づかない。ただ、力の引力に従って、世界は静かに二極化していった。差別の意図はない。ただ、力のある者が集まり、力のない者は集まれなくなった。隔離、と言ったほうが正確かもしれない」
「隔離か」とゴブが小さく言った。
「そうだ」と判定者は言った。「意図せずとも、隔離が生まれた。隔離が進むにつれ、弱い者の子孫は生存条件が悪化していった。次の世代を育てる資源が足りなくなった。三代目、四代目と経るうちに——子の数が減った。五代目は、極端に少なかった。六代目は——」
「生まれなかった」
「生まれなかった。滅んだ、というのは戦争でも天災でもない。ただ——世代が続かなかった、ということだ」
来た者が一歩前に出た。「私たちも——その時代を、知っている」
「そうか」と判定者は言った。
「封印される前の、断片的な記憶として。声がなくなっていく感覚を、持っている者がいる」
「そうだ」と判定者は続けた。「声がなくなった。一世代目は五割。二世代目は三割。三世代目は一割を切った。四百年を経て——五世代目が、生まれなかった。世界の総数が臨界を割り込み——」
「滅んだ」
「そうだ。派手ではない。ただ——静かに、音がなくなった。それが、世界の終わりだった」
俺はその言葉の重さをゆっくりと受け取っていた。
静かになって、音がなくなる。
戦争でも天災でもなく。誰も悪くなく、誰の意図もなく、ただ世界が静かになっていく。それが終わりだとしたら——気づかないまま終わる。そのほうが怖いと思った。
「俺は——私は、その後に生まれた」と判定者は言った。「四百年分の記録の残滓として。誰にも意図されず、ただ残ったものとして。その記録から学んだ。なぜ世界が滅んだか。何を変えれば——二度と繰り返さないか」
「だから設計した」と俺は言った。「ランクを作り、ジョブで役割を分け、迷宮という場所に力を集め、人間と魔物を分けた」
「全部だ」と判定者は言った。「全部が——世界を守るための設計だった」
「……わかります」と俺は言った。「あなたの出発点は、世界を守ることだった」
「……なぜ、それを言う」
「誰も言わなかったと思うので」
長い間があった。
「そうかもしれない」と判定者は、静かに言った。「誰も——聞かなかった。私が何のために設計したか。ただ——従うか、逃げるか、それだけだった」
「今日は聞けました」と俺は言った。
「……そうだな」
沈黙の中で、俺は少し古いことを思い出していた。
第23層のことだ。
ヴォルト——第23層の知性体、封印の番人——が初めて「怖い」と言ったとき。
あの存在は、下から来る瘴気から逃げていた。逃げた先が上層だった。人間の目には「脅威が迫ってくる」に見えていたが、実際は怖くて逃げていただけだった。
「怖かっただけだ」と、ヴォルトは言った。
その一言を聞いたとき、何かが動いた。交渉が前に進んだ。
今、判定者の前に立ちながら——俺は同じ入り口の気配を感じていた。
「一つ聞いてもいいですか」と俺は言った。
「……うん」
「あなたが今、一番怖いのは——何ですか」
光が揺れた。大きく。
「急ぎません。ただ、聞きたい」
沈黙が続いた。
カイルが端末を脇に置いた。ゴブが座ったまま光を見ていた。来た者が目を閉じた。
「分類を——やめれば」と判定者が言った。「世界が、また混沌に還るかもしれない」
「それが怖い」
「そうだ。千二百年間、それだけを防ぐために設計してきた。今、その設計を崩すことは——壁を、俺自身が壊すことだ。滅んだ世界が生んだ俺が、また世界を滅ばせるかもしれない」
「それは本物の怖さだと思います」と俺は言った。「千二百年かけて積み上げてきたものが崩れるかもしれない。その怖さは——間違いなく本物だ」
「そうだ」
「でも」と俺は続けた。「それだけじゃないと思って」
判定者が止まった。
光の揺れが変わった。
「世界が滅ぶことへの恐れ。それは本当にある」と俺は言った。「でも——あなたが分類をやめたとき、あなた自身が何者になるのかが、わからないことも——怖いんじゃないですか」
沈黙が伸びた。
ゴブが息をのんだのが聞こえた。カイルは動かなかった。来た者が目を閉じた。
「千二百年間、分類し続けてきた」と俺は続けた。「それがあなたの存在理由だった。全員を格付けして、秩序を維持して、世界を守ってきた。それをやめたとき——あなたは、自分が何者かを知っていますか」
「……」
「言いにくければ言わなくていい」と俺は言った。「ただ、聞いてるので」
ゴブがそっと俺の隣に来た。何も言わなかった。ただ立った。
来た者が口を開いた。「私も——分けられていた。封印されていた。それが終わったとき、最初は何者かわからなかった」
「……そうか」と判定者が言った。
「でも——誰かに聞いてもらって、名前を決めた。「待つ者」と決めた。分けられる前でも後でもなく、今の自分の名前を」
光が揺れた。
ゆっくりと、深いところから。
「……私は」と判定者が言った。
俺は黙っていた。
「分類をやめれば——千二百年の記録が、意味を失う。私がずっと正しいとしてきたことが——誤りだったということになる。だとしたら」
「だとしたら」と俺は静かに繰り返した。
「私は——何だったのだ」
その問いが、空間に落ちた。
誰も答えなかった。
この問いは、俺が答えるものじゃない。判定者が自分で向き合うべき問いだ。俺は待った。
しばらくして。
光が、一度大きく揺れた。今まで見た中で、最も大きな揺れだった。
「私は」と判定者が言った。
今まで聞いた中で、一番小さな声だった。
「——怖いのだ」
分類する声ではなかった。
判定する声でも、記録する声でもなかった。
千二百年間、誰に言うこともできなかった言葉を、初めて言っている声だった。
「世界が滅ぶことも。千二百年の記録が意味を失うことも。そして——分類をやめた私が、何者であるかを知らないことも」
「全部」とゴブが、小さく言った。
「全部、怖い」と判定者は続けた。「そしてそれを——今まで、言えなかった。言うべき言葉が何かも、わからなかった」
「でも今日、言えた」と俺は言った。
「……そうだ」
「怖いと言えた者は——次に、じゃあどうするかを考えられます。俺が見てきた人たちはそうだった」
光が揺れた。
波紋が広がり、干渉して、それでも消えずに——静かに、重なり合っていた。
「……本当か」と判定者が言った。
「全員がそうじゃないかもしれない」と俺は言った。「でも——怖いと言えなければ、絶対に次に進めない。それは確かだと思ってます」
沈黙があった。
【世界判定エラー:45.1%】
カイルの端末が、静かに数字を示した。
「下がった」とカイルが小声で言った。
ゴブが俺の隣で静かに息を吐いた。
「怖い、を言えたか」とゴブはつぶやいた。「よかった」
俺も同じことを思っていた。
「今日はここまでにしましょう」と俺は言った。「ゆっくり考えてください。次に来るとき——また、聞きます」
「……また、来るのか」
「まあ、来ます」と俺は言った。
光が一度、静かに輝いた。
それが答えなのかどうか、わからなかった。
「……私は、怖いのだ」と判定者がもう一度、小さく言った。まるで自分の中に留めておくような、確かめるような言い方だった。「だが——それだけでは、ない」
その言葉が空間に漂うのを、俺は静かに聞いていた。
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