第302話「踏み切れない理由」
「47・9……また48・0に戻った」
カイルの声が、暗い空間に落ちた。
判定者の光が揺れている。波紋が広がっては内側に戻り、また広がる。規則がない。千二百年間ずっと規則だけで動いてきた存在が、今はじめて、その外側で揺れている。
俺はそれを見ながら、立っていた。
足が少し痛い。どれくらいここにいるか、数えていない。数えても意味がないと思って途中でやめた。この座には外の光が届かないから、時間の感覚がしだいにあいまいになってくる。腹が減っているのは分かる。それだけが確かな感覚だった。
「動こうとしてるけど、止まってる」
隣でゴブが言った。
「そうだな」
俺は短く返した。
「……まだ、私は——」
さっきの判定者の言葉が、まだ残っている。言いかけて止まった言葉。その尻尾だけが、空気の中に漂ったままだ。
来た者が、俺の後ろで静かに言った。
「引き戻した」
「え?」
「止まったのではない。引き戻した」
来た者は判定者の光を正面から見ている。俺には横顔しか分からない。
「言葉が出かかった瞬間に、何かが内側から押し返した。あれは——止まったのとは、違う」
俺はその言葉を、頭の中でゆっくり転がした。
止まったのではなく、引き戻した。差は小さい。でも大事な差だ。「止まる」なら力が尽きた。「引き戻す」なら力が働いた。判定者の内側に、言葉を出させない何かが存在している。
「何が押し返したか」
「分からない」と来た者は言った。「だが——あった。確かに、何かがあった」
カイルが端末を見ながら「エラー率は動いていない」と続ける。「48・0で固定。上がりもしないが、下がりもしない」
固定されている。それが怖いのか、それとも安心なのか、俺には判断がつかなかった。エラーが上がっていないのはいい。でも下がっていないのは、判定者がまだどちらに進むか決めていないということだ。
俺は立ち上がって、光に近づいた。
近づくと、わずかに光の揺れが変わった気がした。感知されているのかもしれない。この光の中に、俺を見ている何かがある——そう思うことがある。目というより、センサーのようなものだけれど。
「聞いていいか」
俺は言った。
光が、小さく波打った。
「……聞くことは、処理対象だ」
「そうじゃなくて」
俺は続けた。
「何が、あなたを止めていますか」
光が、ぴたりと止まった。
ほんの数秒、完全な沈黙になった。ゴブが息をのんだのが聞こえた。カイルが端末から顔を上げた気配がした。来た者が、一歩前に出た。
それから光が戻ってきた。今度は大きく、複数の方向から波が来るように。
「……止まっている、と——」
「さっき言いかけた言葉がある」と俺は言った。「「まだ、私は——」って途中で止まった。その続きが、どこかに引っかかってる。そうじゃないですか」
長い間があった。光の波紋が、いくつもの方向から重なって、干渉して、打ち消し合って——また戻ってくる。まるでいくつもの声が、どれを出すか話し合っているような揺れ方だった。
「……正確では、ない」
「正確じゃない?」
「止まったのではない」
「引き戻した、ということですか」
「——言えなかった」
俺は一度、黙った。
止まったのでも、引き戻したのでもなく——言えなかった。「止める」には意志がいる。「引き戻す」にも力がいる。でも「言えない」は——もっと奥にある。言いたくても言えない、出てきそうで出てこない——そういう状態のことだ。
「言えなかった理由を」と俺は言った。「聞かせてもらえますか」
また長い沈黙が来た。
カイルが後ろで何かを打ち込んでいる。端末の音だ。集計を確認しているのか、何かを記録しているのか。カイルはこういう場面で手を動かすことで落ち着きを保つ。最初は気になったが、今はそれに慣れた。むしろあの音があると、ここがまだ現実とつながっている気がして、俺も少し楽になれる。
ゴブが俺の袖をそっと引いた。
「レン」
「なんだ」
「無理に聞かせなくていいんじゃないか、と……俺は思うけど」
小声だった。判定者に聞こえているかもしれないが、ゴブは声を落とした。
「無理に聞かせる気はない」
俺も同じくらいの声で返した。
「ただ——言えなかった理由がある限り、向こうは次に進めない。ここで引き下がったら、48%のまま固定されたまま終わる可能性がある」
「そうだけど」
「聞かれて、困るか?」
俺はゴブに問い返した。ゴブが少し考えて、光を見ながら言った。
「……困るとは違う。ただ——」
「ただ?」
「俺も最初、理由を聞かれたくなかったから」
俺はゴブを見た。あいつは判定者の光を見たまま話した。
「第七迷宮の扉を叩いた夜、なんで来たか聞かれたら困った。「怖かったから」としか言えなくて、怖かったのは恥ずかしかったから。だから、最初は言えなかった」
「でも言えた」
「レンが急かさなかったから」
俺はゴブの横顔を、しばらく見ていた。
あの夜のことを、よく覚えている。雨の音がしていた。扉のノックが、それより細くて弱かった。中に入れるかどうかも決めないまま、まあ聞いてから判断しようと思って扉を開けたら——膝まで濡れたゴブリンが立っていた。あのとき俺が急かしていたら、ゴブは話せなかったかもしれない。
「急かさないよ」
俺は前を向いて、判定者に向かって言った。
「急かさない。ただ聞く。それだけです」
光が、変わった。
波の形が、さっきと違う。外から内に向かって収束するような揺れ方になっていた。
「……あなたは」
判定者が言った。
「なぜ、聞くことが——できる」
「え?」
「聞くことが——怖くないのか」
俺は少し考えた。
「怖いですよ」と俺は言った。
光が、一瞬だけ止まった。
「今も?」
「今も」
「怖いのに——聞くのか」
「聞かないと損だと思ってるから」
「損」
「答えが分からないまま帰るのが、一番損なんです。俺的には」
来た者が後ろで小さく何か言った。笑ったような気がした。振り返らなかった。
「……損、という値は」と判定者が言った。「設計に、ない」
「そうでしょうね」
「だが——」
光が揺れる。内側から外側へ、外側から内側へ。
「——先ほどから、それに近い処理が、内側で——起きている」
俺は何も言わなかった。
それが何を意味するかは、向こうが言葉にするまで待つ。急かしたら消える。そういう言葉がある。
カイルが「47・8になった」と静かに言った。少しだけ、動いた。
「話してください」と俺は言った。「「損」に近い処理が、何を指してるか」
また長い沈黙。でも今回は質が違う。さっきは「言うかどうか」を迷っている沈黙だった。今は——「どう言うか」を探している。
「……言いかけた言葉に、続きがある」
判定者が言った。
「聞いています」
「ただ——それを言うことで——」
光が、また内側へ向かって深く収束した。
「——失うものが、ある——かもしれない。そういう処理が——止めている」
俺は息を、ゆっくり吸った。
失うものが、ある。
千二百年間、何かを失ったことのない存在が——初めて「失う」という概念を、自分に当てはめようとしている。
「何を失うと思っていますか」
「……分からない」
「分からないけど、怖い?」
「——怖い、という値に近い」
ゴブが俺の隣で「あ」と小さく言った。俺も同じタイミングで気づいた。
「それは」と俺は言った。「みんな、そうですよ」
光が、ぴたりと止まった。
「……みんな、と言ったか」
「言いました」
「みんな——設計対象の全てが?」
「「分からないまま怖い」は、そうだと思います。たぶん」
カイルが「47・6」と言った。また少し下がった。
光がゆっくりと揺れ始めた。さっきとは違う、穏やかな揺れ。呼吸のような。
「……「怖い」という値は」と判定者が言った。「設計当初から——記録に、あった」
「知っています」
「世界が滅んだあの日から。格差のない混沌の中で——何もかもが同じ重さを持ち、何もかもが同じ速度で消えていった。あの感覚が——」
声が、揺れた。
俺は今まで判定者の声が揺れるのを何度か聞いてきたが、今回の揺れ方は違った。怒りでも困惑でもない。もっと奥、どこか脆い場所から来る揺れ。
「——今も、ある」
「そうですか」
「千二百年、ある」
「……分かりました」
俺は短く答えた。それ以上は言わなかった。
言わなくていい場面がある。聞いたら、受け取ったと伝えて、あとは待つ。それだけでいい場面が、確かにある。
ゴブがそっと足を組み直した。カイルが端末を膝の上に置いた。来た者は動かない。俺もただ、そこにいた。
しばらくして、判定者が言った。
「……聞いてもいいか」
「どうぞ」
「あなたは——言いかけた言葉が、あるか」
俺は少し驚いた。そういう問いが来るとは思っていなかった。
「俺が、ですか」
「そうだ。言えなかった言葉」
隣でゴブが俺を見た。カイルも端末から顔を上げた。来た者が「……面白い問いだ」と小さく言った。
俺は光を見たまま、少し考えた。正直に答えようと思った。
「ありますよ」
「何を?」
「ゴブに——第七迷宮の門番を引き継がせるとき、「戻ってこないかもしれない」と思いながら言えなかった。言ったら、あいつが行かせてくれないと思ったから」
ゴブが「えっ」と言った。
「カーラさんとの別れのとき、もっとそばにいたかったと思いながら言えなかった。タイミングじゃないと思ったから」
「お前が……」カイルが妙な顔をした。「そういうこと、思うんだな」
「思うことはあります」
俺は判定者に向かって言い続けた。
「言えなかった理由は、タイミングじゃなかったり、言ったらどうなるか分からなかったり。でも共通してるのは——言えなかったのは、言う価値がないからじゃなかったってこと。言えなかったのは、それだけ大事だったから、だったと思う」
光が、静かに波打った。
「大事だったから——言えなかった」
「はい」
「……それは、逆説だ」
「逆説です」
「だが——」
光が、内側に向かって深く揺れた。
「——分かる、気が、する」
ゴブが小さく息を吐いた。俺も同じだった。
「カイル、エラー率」
「47・2だ」
また少し下がった。
「では」と俺は言った。「あなたが言えなかった言葉は」
光が、止まった。
今度は長い止まり方だった。さっきとは違う。選んでいる止まり方じゃなくて——向き合っている。何か大きなものの前に立って、一歩を踏み出す前に止まっているような。
「……言えるかどうか、分からない」
「分からなくていいです」
「でも——」
波紋が、光の中心から広がった。
「——試みることは、できるかもしれない」
「聞きます」
俺は言った。静かに、でも確かに。
光が揺れた。揺れ方が、さっきまでとまた変わった。複数の方向から来ていた波紋が、少しずつ、一点に向かって集まっていくような。
「まず——」
ゴブとカイルと来た者が、全員が息を止めているのを感じた。
「まず——」
判定者の声が、さっきより低い、もっと底の方から来るような声になった。
「私が——」
光が、いっとき明るくなった。それから、大きく揺れた。
「私が、やめたら——」
そこで、止まった。
「——世界は——」
完全な沈黙が落ちた。
判定者は続かなかった。言葉が、そこで断たれた。言いかけて——それ以上が出てこない。光だけが、静かに揺れ続けている。
カイルが端末を確認した。
「エラー率——47・0」
また、動いた。
でも言葉は、続かなかった。
俺は待った。急かさなかった。どれくらい待っただろう。ゴブが静かに膝を抱えた。来た者が、ゆっくりと息を吐いた。カイルが端末を膝に置いたまま、光を見ていた。
「続き、ありますよね」
俺は静かに言った。
「次に話せるときに、聞かせてください」
光が、一度だけ、大きく波打った。
それが返事なのかどうかは分からなかった。
ただ——判定者が初めて、踏み切れない理由の「端」に、自分で触れた。
私が、やめたら——。
世界は——どうなるのか。
千二百年間、誰にも問われなかったことを、判定者はいま自分の言葉で、言おうとしていた。
それだけは、確かだった。
【世界判定エラー:47・0%】
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