第301話「四十八パーセント」
「四十八。」
カイルが端末の光を俺に向けた。
声に感情はなかった。その平坦さが余計に、数字の重みを際立たせた。
【世界判定エラー:48.0%】
三分前まで、51.3だった。
判定者が「まず、聞いて。それから——判断、する」と言いかけた直後から、数値は急落し始めた。俺たちがこの座に降りてきてから最大の変化だった。三ポイント以上。スキルでも交渉術でもない——判定者が自らの意志で、初めて「分類」以外の言葉を選んだ結果が、世界の崩壊速度をここまで落とした。
そして今、止まっている。
「下がる気配は。」
「ない。」カイルが答えた。「上がる気配も。48.0で固定されたみたいに見える。」
判定者の光の輪は、ほとんど動いていなかった。
この「座」と俺たちが呼んでいる空間の中心から外縁に向けて広がっていた光の波紋が、今は凪いだ湖面のように静止していた。時折わずかに揺れては戻る。それだけで、それ以上でも以下でもなかった。
「固まってますね。」ゴブが小声で言った。
「うん。」
固まっている、という言い方が正確だと俺も思う。止まったのでも、消えたのでもない。言いかけたまま動けなくなっている。「まず、聞いて。それから——判断、する」。千二百年以上、世界を分類し続けてきた仕組みが初めて分類以外の言葉を選んで、そして——止まった。
俺は腰を下ろした。
この無判定の空間に来てからどれくらい経つか、正確にはわからなくなっていた。時間の流れが薄い場所だ。空腹かどうかもよくわからない。足がじんじんと重く、でも頭だけが奇妙に冴えていた。まるでこの空間が身体の疲れを遮断して、思考だけを動かし続けているみたいだった。ゴブが「腹が減りました」と口にしたのはいつだったか。今は訊きにくい空気だった。
「来た者。」と俺は言った。座の光の輪の外縁近くに佇む気配に向けて。「今のあいつを、どう感じた。」
沈黙があった。俺は急かさなかった。来た者が答えを選んでいる沈黙は、今ではわかる。
「前に進もうとしている。」やがて来た者が言った。「でも、何かが引き止めている。」
「引き止めているものが何かは、わかるか。」
「わからない。ただ——」
一拍置いた。
「私が封印されていたとき、初めて声をかけてもらったとき、私も止まった。動けなかった。怖い、という感覚はあった。ただ、その怖さが何を怖がっているのかが、わからなかった。怖さに、名前がなかった。」
「……そうか。」
「あれも今、同じかもしれない。自分が抱えているものに、名前がつけられない。」
俺は判定者の光の輪を見た。
千二百年以上、全てのものを分類してきた存在が、今、自分の内側にある何かを分類できずにいる。その逆説を、俺は骨で理解した。
「カイル、数値は五分おきで頼む。」
「今はそうしてる。」カイルが端末を膝に置いた。「……長期戦か。」
「わからん。でも急かすことはできない。」
カイルが小さくため息をついた。否定のため息じゃない——同意のため息だ。この三人でいると、そのあたりの違いがわかるようになった。
ゴブが俺の横に来て、座り込んだ。「俺には何もわかりません」と正直に言った。「わかった」と俺は返した。「わかります」より「わかりません」のほうが信用できる、ということをこの数年で学んだ。
俺は頭の中で整理した。
あの一言が出てくるまでに、どれだけの時間がかかったか。最初、判定者は俺を「除去対象のエラー」と呼んだ。それが、リセットの実行を「保留」と認め、「自分の望み」を初めて考え、「俺」という一人称を口にし、「したかったことは——」と言いかけて——そして「まず、聞いて。それから——判断、する」まで至った。
その都度、何かが少しずつ動いてきた。
でも今、48パーセントで止まっている。
来た者の言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。
名前のないものに名前をつけるのは、分類するより難しい。
千二百年以上かけて全てのものに名前と位置を与えてきた存在が、今、自分の中にある何かに名前をつけられずにいる。分類する側から、分類される側へ。その逆転が——踏み切らせない理由かもしれない。
「まあ、聞いてから判断しよう。」
「また言ってる。」ゴブが小声で言った。
俺は聞こえなかったふりをした。でも少し、腰が軽くなった気がした。
俺は立って、判定者の光の輪の前に進んだ。
今まで来た中で、一番近い距離だった。足元が微妙に揺れる感覚がある。この空間のどこかに境界があるのかもしれない。でも進めた。光の温度が、わずかに頬に当たった。本物の温度かどうかはわからなかったが、確かに感じた。
「判定者。」
光の輪が揺れた。反応している。聞いている。
「さっきの言葉——「まず、聞いて。それから判断する」——あれを言った後、止まった。続きを急かすつもりはない。ただ一つだけ、聞かせてくれ。」
俺は言葉を選んだ。来た者から聞いたことを踏まえて。
「今、自分の中にある何か——それに名前をつけるとしたら、何になる。」
静寂が広がった。
光の波紋が外縁まで達して、戻った。また達して、戻った。その繰り返しが三回。
「……名前。」
判定者が言葉を出した。ノイズが混じった声だった。言葉を出すことへの、何かの抵抗が音に滲んでいた。
「名前が、ない。」
「ある、と思う。」
俺は即答した。判定者の光の輪が静止した。
「——ある?」
「名前がないのは、まだ言葉になっていないだけじゃないか。」
「……」
「あなたは千二百年以上、全てのものに名前と位置を与えてきた。今やっているのはその逆だ。名前を与える側から、名前を探す側へ。難しくて当然だ。」
光の輪が大きく揺れた。
俺は一歩引いた。焦らせすぎたかもしれない、と思った。でも逃げなかった。波紋が落ち着くのを待った。
後ろでゴブが息を呑む音がした。カイルの端末を操作する音が止まった。来た者が、一歩前に出た気配がした。
そして——
「……まだ、私は——」
判定者の声が、空間に滲んだ。
俺は口を閉じた。続きを待った。
「……まだ、私は——」
もう一度、同じ言葉。今度は声が低かった。言葉の前の間が長かった。言い方を探しているような、自分が何を言おうとしているのかを自分自身が掴もうとしているような——そういう声だった。
待った。
十秒。二十秒。
それ以上の言葉は来なかった。
俺は光の輪を見た。波紋が広がり、戻る。広がり、戻る。
「どうするんですか。」ゴブが後ろから小声で言った。
「待つ。」
「いつまで。」
「言えるまで。」
カイルが端末を見ながら、静かに言った。「小数点以下が動いた。」
「上か下か。」
「下。47.991まで。でも——また48.0付近に戻った。」
俺は判定者の光の輪を見た。
48パーセント。でも——下に向かいかけた。一瞬だが、下に向かった。
「方向を決めかねてる。」カイルが言葉を足した。「でも、動こうとしてはいる。」
「そうだな。」
俺は目を閉じた。
これまでのことを思い返した。
ゴブが墓場の門をノックしてきた夜のことを。「話を聞いてほしい」という、その一言。俺が扉を開けた。それが全部の始まりだった。
ヴォルトが「なぜ下りてきた」と問い返したとき。俺は「話を聞きに来た」と答えた。怖くないのかと言われた。怖い、でも聞かないと損だ、と返した。それで通じた。
レイラが「聞けるものなら聞いてごらん」と言ったとき。俺は何も言わずに、ただ聞いた。語り尽くされるまで。何かを言おうとしたら、多分あの場は壊れていた。
オルディーンが「——まあ、聞いてから判断しよう」と言ったとき。査問が、方向を変えた。
全部、「聞く」ことから始まっていた。
今の相手は——千二百年以上かけて世界を分類してきた仕組みだ。その仕組みが初めて「聞く」という言葉を出した。そして止まった。「まだ、私は——」と繰り返している。
「まだ」は、終わっていない、という言葉だ。言おうとしている。でも踏み切れない。
踏み切れないうちは、ここにいる。それが俺にできる唯一のことだった。
目を開けると、来た者が俺の隣に立っていた。
「あれは、」と来た者は小声で言った。「怖いのかもしれない。」
「何が怖いんだと思う。」
「わからない。」来た者は判定者の光の輪を見た。「でも、私が止まっていたときと同じ種類の止まり方に見える。」
「そうか。」
「私の場合は——何が怖いかを言葉にするのに、声をかけてもらった後も、しばらく時間がかかった。でも、声をかけてもらったことは覚えていた。ずっと。」
俺は頷いた。
来た者が一歩引いた。
「判定者、」と俺は言った。「「まだ、私は」——その先を言えなくていい。ただ、俺はここにいる。聞いている。」
波紋が広がった。収まった。また広がった。
長い沈黙が続いた。
俺は待った。急がなかった。ゴブの呼吸が隣で聞こえる。カイルが端末を持ち直す音がした。来た者が、静かにその場に立ち続けていた。
光の輪の波紋が、少しだけ大きくなった。
そして、判定者の声が響いた。
「……まだ、私は——」
【世界判定エラー:48%】
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