第300話「聞いてから」
判定者が「したかったことは——」と言いかけて止まってから、どれくらい経ったのか、もう俺には分からなかった。
空間には重力があるのかないのか。歩けているのか浮いているのか。時間の流れ方がおかしくなっていた。青白い光が静かに揺れ続けていて、それだけが変わらなかった。
足の裏がじんじんしていた。
ずっと立っているせいだ。いや、座れる場所があるのかどうかも分からない。足の裏の鈍い痛みだけが、俺をここに繋ぎ止めていた。
「……まだ待つのか」
カイルが低い声で言った。
「待つ」
「どれくらい」
「分からない」
カイルが息を吐いた。長い、細い息だった。疲れているのが声で分かった。俺も疲れている。それでも、ここで動けなかった。
ゴブが「……寒くないですか」と聞いてきた。
「寒い」
「俺も」
来た者は何も言わなかった。感情を声に出すことに、まだ慣れていないのかもしれない。三百年間、封印の中では声を出す相手もいなかった。それでも、俺の横で微動だにせずいてくれていた。
判定者の光は波打っていた。複数の場所から同時に波紋が広がって、ぶつかって、また新しい波が生まれる。その繰り返しが続いていた。
「したかったことは——」という言葉が出てから、判定者は止まっていない。見えない内側で、何かを探し続けていた。
千二百年以上、分類し続けてきた存在が、自分自身のことを分類しようとしている。
それには時間がかかる。当然だ。
俺は待った。門番の仕事は、ずっとそうだった。扉の前で待つ。来る者があれば通す。来ない者を無理に引っ張り込まない。
「……したかったこと」
判定者の声が、空間に滲んだ。
音というより、意味が直接届く感じがした。エコーではなく、内側から来るわけでもなく、ただ「在る」というような伝わり方だった。
「設計には、なかった。その値は——記録に、ない」
「それが、答えです」と俺は言った。
「答え?」
「設計にないものを探していた。それが、あなたのしたかったことじゃないですか」
判定者は答えなかった。
でも光の波紋が、一瞬だけ大きく乱れた。
乱れ、というのは悪い意味じゃない。川の流れに石を投げたときみたいに、ある一点から新しいリズムが生まれる。俺には判定者の感情を読む術がない。でも、あの揺れが「当たり」を意味しているということは、なんとなく分かった。
「設計にないものを……探す」
「ずっとしてたんじゃないですか。分類するたびに、分類できないものと出会って。それを「エラー」として退けてきた」
長い間があった。
「でも退けても退けても、また出てきた」と俺は続けた。「俺みたいなのが」
カイルが横で小さく笑った。緊張を逃がすような、細い笑いだった。
「お前がエラーの代表みたいに言うな」
「代表なんだが」
「……そうだな」
ゴブが「俺もエラーですよ、たぶん」と言った。「ゴブリンが人語を話して交渉するなんて、設計にないはずです」
来た者が、ほんの少しだけ声を出した。
「封印されていたものが名前を持った。それも、設計にない」
三人が揃って言うと、判定者の光が大きく揺れた。
「……設計外の事例が、多い」
「多いですよ」と俺は言った。「で、それを全部エラーとして除去しようとしてきた。でも俺たちはここにいる」
「なぜ、在れる」
「あなたが、まだ動かしていないからです」
今度の沈黙は長くなかった。
「……動かせなかった」
その言葉が、静かに落ちた。強がりでも謙遜でもなく、ただ事実として。千二百年以上機能してきた設計が、初めて「できなかった」と言った。
俺の胸の中で、何かが動いた。感動なのか安堵なのか、名前を付けられないまま、ただそこにあった。
「できなかった理由を、聞いてもいいですか」
俺は声を穏やかに保った。急いでいない。ここで急いだら全部台無しになる感覚があった。
「……計算が、合わない」
「計算?」
「除去すべき対象を除去すれば、設計は正常に回帰するはずだった。だが——回帰しなかった。むしろ、エラーと接触するたびに——」
言葉が途切れた。
「接触するたびに、なんですか」
「……処理に時間がかかるようになった。何かが、残る」
ゴブが「残る、ってどういう意味ですか」と聞いた。ゴブの聞き方はいつも正直だ。知ったふりをしない。それがよかった。
判定者の声が、また変わった。論理の言葉ではなく、何か別のものを探すような、不安定な抑揚が混じり始めた。
「……分類できないものと接触するたびに、設計とは別の何かが生まれる。それを除去してきた。だが除去するたびに——設計が、軽くなる」
「軽くなる」と来た者が低く繰り返した。「それは——失う、ということですか」
「失う。その定義では——近い」
来た者が俺の方を見た。目があった。俺はうなずいた。
「判定者」と俺は言った。「あなたは今、何かを失うことを怖がっていますか」
また、沈黙。
でもこの沈黙は違った。今まで何度も経験してきた「処理中の停止」ではなく、もっと内側から来る、人間的な間に近かった。
「……怖い、という値が——ある」
「その怖い、という値を聞かせてもらえますか」
「失えば——設計が、完全になる。完全に回帰する。だが——」
「だが?」
「……それが、正しいのかどうか。判定できない」
正しいかどうかが判定できない。千二百年以上「正しい」を定義してきた存在が、今、正しさを判定できないと言っている。
俺は何も言わなかった。
「千二百年以上、「正しい」ことしかしてこなかった。正しいとは、設計通りであることだ。だが——今この瞬間、設計通りにすることが、正しいのか——判定できない」
【世界判定エラー:51%】
カイルが集計を確認して、小さく息を吐いた。まだ高い。でも、下がり続けている。
「一つだけ聞いていいですか」
俺は静かに言った。
「……処理する」
「あなたは今まで、誰かの話を聞いたことがありますか。聞こうとしたことが」
長い沈黙だった。
波紋が止まった。光が、一瞬、消えかけた。
「……ない」
「設計に、なかったから?」
「設計に——なかった。分類する。判定する。除去する。それが機能だ。「聞く」という処理は、設計に——存在しない」
「でも今、俺の話を聞いてる」
「……」
「設計にない処理を、今、してる」
言い切って、俺は黙った。それ以上言葉を重ねなかった。
来た者が、ほんの少し動いた。
「私も——最初は、聞けなかった」と来た者は言った。「三百年、封印の中にいた。誰とも話さなかった。話し方を知らなかった。最初に声をかけてくれた者がいた。それが、怖かった」
判定者の光が揺れた。
「怖かった」と来た者は続けた。「聞かれることが怖かった。答えが出せないから。でも——聞いてもらったとき、何かが残った。あなたが言う「残る」もの——それと、同じかもしれない」
静寂。
カイルが腕を組んで下を向いた。ゴブは何も言わなかった。ただ判定者の光をじっと見ていた。
俺も、待った。
体の感覚が薄れていた。腹が減っているのか疲れているのか、境界がなくなっていた。でも今は関係ない。今は、ここだ。
「……設計にない処理を、している」
判定者が、自分で確認するように言った。
「そうですね」と俺は言った。
「設計外の処理を——止められない」
「止めなくていいと思います」
「止めなければ——設計が、崩れる」
「崩れていいんですよ」
その言葉を言ったとき、判定者の光が大きく揺れた。
「設計が——崩れていい?」
「崩れた後で、考えればいい」
俺は少し息を整えてから、続けた。
「聞いてから、判断すればいい」
「……」
「あなたが千二百年守ってきたものを、俺は否定しない。それは本当に大事なことだった。でも今は、設計を守ることより——」
一瞬止まった。
「あなた自身が、どうしたいかを、聞きたい」
沈黙が来た。
今度の沈黙は、それまでの全てと違った。
処理が止まったのではなく、判定者が——考えているのだと感じた。設計のための計算ではなく、自分自身のために考えている。
カイルがゆっくり顔を上げた。ゴブが俺の袖を少しだけ引いた。来た者は微動だにしなかった。
俺たちは全員、待った。
光の波紋が止まり、また生まれ、また止まった。その繰り返しが、何度も、何度も続いた。
ep1の夜を思い出した。
あの夜も、扉の向こうで誰かが迷っていた。叩くべきか叩かざるべきか。俺は扉の内側で、ただ待っていた。ゴブが叩いたとき、俺は驚かなかった。来るだろうと思っていたわけじゃない。ただ、待っていた。それだけだった。
「……」
判定者の声が、出かかって、止まった。
また出かかった。
俺は息を呑んだ。
ゴブの手が、俺の袖をもう少し強く握った。
「……まず」
判定者が言った。
声が、これまでとは違った。論理の声ではなく、もっと不安定で、もっと不確かで——でも確かに内側から出てきているような声だった。
「まず——」
もう一度、繰り返した。
カイルが小さく「……」と声をもらした。言葉にならない、息の音だった。
「まず、聞いて」
静寂。
判定者が止まった。
出した言葉を、自分で反芻しているようだった。一つの言葉を口にした後で、それが自分の言葉だと確かめるように、長い間があった。
「聞いて——それから」
また止まった。
光が、ゆっくりと、広がった。波紋ではなく、ただ、広がった。
「……判断、する」
その言葉が落ちたとき、俺は何も言えなかった。
セリフが出てこなかったわけじゃない。言葉を出す必要がなかった。
来た者が、かつて俺の言葉を初めて繰り返したとき。ゴブが「聞く」を自分の言葉にしていったとき。カイルが「聞いてから判断した」と初めて言ったとき。カーラが笑いながら言ったとき。レイラが慟哭の末に絞り出したとき。オルディーンが全市民の前で立ち上がったとき。
その全部が、今ここに繋がっていた。
世界の仕組みが、聞くことを、選んだ。
「……おい」
カイルの声が、かすれていた。
「カイル」
「聞こえたよな。今、聞こえたよな」
「聞こえた」
「夢じゃないよな」
「夢じゃない」
ゴブが俺の袖を放した。そして判定者の光を見上げて、小声で言った。
「……よかった」
その三文字が、静かに、空間に溶けた。
【世界判定エラー:48%——初めての低下】
カイルが集計を転送してきた。数字を見て、俺は息を吐いた。長い息だった。どれくらい溜めていたのか、吐き切るまで時間がかかった。
「下がった」とカイルが言った。
「下がった」
「……でも、まだ48だ」
「うん」
「止まってない。完全には」
「わかってる」
カイルが俺を見た。
「これで終わりじゃないな」
「終わりじゃない」と俺は言った。「始まりだ」
俺たちが判定者の座を後にするとき、ゴブが一度振り返った。
「「戻ってきてくれますか」と言わなかったですね」と言った。
「言わなかった」と俺は言った。
「ドランは言ってた。「戻ってこい」って」
「覚えてる」
「なぜ、言わなかったんですか」
俺は少し考えた。
「ドランは、一人になることが怖かった。だから「戻ってこい」と言った」
「判定者は——怖くないんですか」
「怖いと思う。でも——」
俺は立ち止まって、判定者の光の残滓が薄れていく方向を見た。
「言わなくていい相手になった気がした。次に来たとき、ちゃんとそこにいてくれると思ったから」
ゴブが「……そうですか」と小さく言った。「俺も、そう思います」
カイルが「お前たちはいつからそんなに達観してるんだ」と半ば呆れたように言った。「こっちはまだ動悸が収まらないのに」
「俺も動悸してる」
「してないように見える」
「慣れた」
「何に慣れてるんだ。世界の仕組みと話すことにか」
「そこに慣れてどうする」
ゴブが「二人とも笑ってますよ」と言った。
そうか、と俺は思った。笑っていたのか。気づかなかった。
来た者が「戻ろう」と言った。「カイルが腹を鳴らしている」
「鳴ってない」とカイルが即答した。
「鳴っていた」
「……気のせいだ」
「私の耳は正確だ」
ゴブが「俺も鳴ってます」と正直に言った。
俺も鳴っていた。たぶん。
「まあ」と俺は言った。「帰ってから食べよう」
「それは当たり前のことだ」とカイルが言った。「当たり前のことを「まあ」で包むな」
「聞いてから判断するより先に腹を満たす方が先だというのは、正論だ」
「そうだ。珍しく正論を言った」
ゴブが先に歩き出した。来た者がその後に続いた。カイルが歩き出した。
俺は一歩踏み出す前に、もう一度だけ振り返った。
判定者の光は、まだあそこにあった。波紋が続いていた。
「……まず、聞いて。それから——判断、する」
その言葉は、完全じゃない。
「まあ」がない。一度止まった。続きを探した。
でも、確かに出た。
完全な発語は、まだ先にある。でも——始まった。
俺は前を向いて、歩いた。
背後で、判定者の光が静かに揺れ続けていた。
【世界判定エラー:48%——初めての低下。完全な発語は、まだ——】
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