第298話「千年分の沈黙」
判定者が、黙った。
答えが来なかったのではない。何かを発しかけて、途中で止まった——その差を、俺には感じ取ることができた。声の中にあった「重さ」のようなものが、消えずにそこに残っている。
青白い光が満ちるこの空間の奥で、いつもなら即座に処理されて返ってくる判定者の声が、止まっている。止まったまま、光が揺れていた。単純な波紋ではなく、いくつもの周波数が重なって打ち消し合って、また広がって、また重なって——まるで何かを言おうとして、何度も考え直しているような、そういう揺れ方だった。
「……」
俺は何も言わなかった。
ゴブが隣でちらりと俺を見た。カイルも、来た者も、同じように俺を見た。「どうする」と聞いてくる目だった。
俺は首を横に振った。小さく、ゆっくりと。
待つ。それだけだった。
この空間に降りてきてから、何時間が経ったのかはっきりしない。
判定者の座は時間の感覚が狂う場所で、カイルの端末でさえ地上の時間とずれていた。体が重い。腹が減っている。靴の中が蒸れて、足の裏が痛い。水を最後に飲んだのは、この空間に入る直前だった。水筒を一口だけ。それが最後だった。
ゴブがそっと俺の隣に座った。膝を抱えて、じっとしている。さっきまであれほど積極的に判定者に語りかけていたゴブが、今は一言も発さずに待っていた。ゴブなりに、空気を読んだのだろう。
カイルが端末を確認して、俺に視線を送った。口の動きだけで「エラー率は」と聞いてくる。
カイルが端末を傾けて俺に見せた。
【世界判定エラー:54.8%——変動なし】
上がっていない。それが今は、唯一の救いだった。下がってもいない。でも今はそれでいい。
俺は視線を前に戻した。
判定者の光は揺れ続けている。リズムが不規則になっていた。これまでの処理中の揺れとは、明らかに違う。何も処理していないのに、内側で何かが動いている——そんな感じの揺れ方だった。
「来た者」と俺は小声で呼んだ。
「なんだ」
「今の判定者、わかるか。何をしてる」
来た者の気配が、少し揺れた。考えている気配だった。
「……動いている。内側で」
「どんなふうに」
「封印の中で、身体は止まったまま内側だけが動いていたことがある。あれと、近い」
俺はその言葉を聞いて、何も返さなかった。返す必要がなかった。
三百年、来た者は封印の中にいた。外から何も届かず、声も出せず、ただ自分の内側だけが動いていた。その感覚を来た者は知っている。
判定者は今、それに近い状態にある。千年以上、分類だけをしてきた存在が、初めて——自分自身に、向き合っている。その時間を、俺は邪魔してはいけなかった。
「俺、腹が……また鳴った」
ゴブが声を潜めて言った。でもこの空間は音がよく通るらしく、思ったより響いた。カイルが苦笑いした。来た者の気配が微かに揺れた。俺は笑いそうになって、堪えた。
「帰ったら食わせてやる」
「今日で三回目です、その言葉」
「全部本当のことを言ってる」
「それはわかります。でも俺が聞きたいのは、帰る、という状態がいつ実現するかです」
「まあ、聞いてから判断しよう」
ゴブが「この場面でもそれを言いますか」と言って、少し口を尖らせた。来た者がまた揺れた。判定者は黙っていた。
俺はゴブの隣に腰を下ろした。立ちっぱなしだった足が、正直言って限界に近かった。膝が重い。靴を脱いで休ませたかったが、さすがにそれはできない気がして、とりあえず足を伸ばした。
カイルがいつの間にか俺の反対隣に来ていた。端末を膝の上に置いて、光の揺れを眺めている。
「……お前は、よく待てるな」
「慣れてる」
「慣れるものか、そういうのは」
「慣れる。門番だったから」
カイルが「……そうか」と短く言った。
第七迷宮の入口に立っていた頃を、俺は思い出した。誰かが来るまで、ただ待つ。何も来なければ、それでも待つ。来たとしても、すぐに扉を開けるのではなく、叩き方を聞いて、音の意味を考えて、それから動く。
待つのは、苦ではなかった。
話を聞く前に、まず待つ。聞く準備として待つのではなく、待つこと自体が必要な時間というものがある。
「もしかして」とカイルが言った。「判定者は今、初めて自分に問いを立ててるんじゃないか」
「たぶんな」
「千年間、自分に問うたことがなかった?」
「処理だけしてきたんだろう。他から受け取って、分類して、返す。その繰り返し。自分を問う構造が、設計に入っていなかった」
カイルがしばらく黙って考えていた。
「……俺も、最初はそうだった気がする」
俺は横を向いた。カイルは端末を見ていて、目が合わなかった。
「ジョブのランクで全部決まると思ってた。Aランク候補の俺は正しい。ランク外のお前は終わり。そういうもんだって、疑わなかった」
「いつ変わった」
カイルが少し間を置いた。
「お前が——ゴブに話を聞いたから」
「ゴブが来た夜か」
「怒鳴り込みに行ったんだ。あの夜、俺は。魔物を匿ってると思って、そりゃないだろって怒鳴りに行った」
「ああ」
「なのに、茶を出してきた。まず座れって言って」
「怒鳴り込んできた相手にも、茶ぐらい出す」
「普通、出さないだろ」
「出した方がいいと思ったから出した」
カイルが短く笑った。小さな笑い声だったが、この空間に柔らかく溶けた。ゴブもそれを聞いていたらしく、困り顔のまま少し頬が緩んだ。
「……変な奴だとは、あの頃から思ってた」
「そうか」
「今も思ってる。でも——変な奴が正しいこともある、とは思い始めた。遅ればせながら」
「それで十分だ」と俺は答えた。
本当に、不満ではなかった。遅くても、変わった。それだけで十分だと、ずっと思っている。
ゴブが「俺も最初はレンが怖かった」と言った。
「怖かったのか」と俺は聞いた。
「怖かったです。扉を叩いたとき、殺されるかもしれないと思いました。でも仲間のためには他に選択肢がなかった。「外の人間に話を聞いてもらえ」と言われて、「本当に聞いてくれる人間がいるのか」と半信半疑で、叩きました」
「そうだったのか」
「扉を開けた瞬間、お前はただ黙って俺を見ていた。怒鳴らなかった。睨まなかった。ただ、見ていた。それで——俺は話せると思った」
来た者の気配が揺れた。カイルが端末を下ろして、ゴブを見た。
「俺も」と来た者が言った。「最初に声が届いたとき、罠だと思った」
「俺のか」
「そうだ。でもお前は何も仕掛けてこなかった。ただ、聞いていた。それが怖かった」
「聞くことが怖かったのか」
「怖くなかったのが、怖かった」
来た者の言葉の意味を、俺はしばらく考えた。やがてわかった。怖くないから安心したのではなく、怖くないということ自体が、これまでの経験にない感覚で、だから怖かった——そういうことだろう。
判定者の光が、また揺れた。
今度は少し違う揺れ方だった。中心から広がって、広がったまま——しばらく止まらなかった。全員、黙ってそれを見た。光が広がって、波紋が重なって、打ち消し合わずに積み重なって——
止まった。
また、静止した。
「……来なかったか」とゴブが小声で言った。
カイルが端末を確認した。
【世界判定エラー:54.8%——変動なし】
「また止まった」とカイルが言った。
「ああ」
「どのくらいかかると思う」
「わからない」
「……それで、待つのか」
「待つ。それしかない」
カイルが端末を膝に戻した。呆れているのか納得しているのか、わからない顔をしていた。たぶん両方だった。
「……お前が言うと、妙に説得力がある。なぜかは知らんが」
「門番だったからだろ」
ゴブが「腹が鳴った」と静かに言った。今度で四回目だった。誰も笑わなかったが、空気が少し緩んだ。
どのくらい時間が経ったか、わからなかった。
ゴブはいつの間にかうとうとしかけていて、来た者がそばで支えていた。カイルは端末を確認し続けていたが、目が少し重そうだった。
俺は眠くなかった。正確に言えば、眠れなかった。
判定者の沈黙は続いている。
でも、その沈黙の中の変化は、俺には見えていた。光の揺れが、どんどん複雑になっている。単純な波紋ではなく、いくつもの周波数が重なり、絡み合い、それぞれが別の方向に向かおうとして、また中心に引き戻されている。何かを言おうとして、言う前に考え直して、また言おうとしている——その繰り返しのように見えた。
俺は目を閉じた。眠るためではない。ただ、この沈黙に自分も入るために。
第七迷宮の入口で誰かを待っていた頃、俺はよく目を閉じた。扉の向こうで何かが起きているとき、急いで開けようとしないために。相手が準備できるまで、ただそこに立っているために。
今も同じだと思った。
判定者は今、千年分の問いを初めて自分に向けている。何が正しいか、何を選ぶべきか、そもそも「選ぶ」ということを知っているのかどうかも含めて、全部が初めてだ。急かしたところで、何も出てこない。むしろ壊れる。
来た者が俺の近くに寄ってきた。
「扉の前で待つ男だ」と来た者が言った。
「そうだ」
「ゴブが証言したとき——「影響を受けたのでなく、出会ったのだ」と言った」
「聞いてた」
「俺も——お前と、出会った。三百年、扉の向こうにいた。誰も来なかった。お前が来て——扉が開いた」
俺は目を閉じたまま、頷いた。
「判定者は」と来た者が続けた。「千年間、扉を持っていなかった。分類するだけで、扉がなかった」
「今、初めて扉ができた」
「そうだ。扉ができたから——入るのが、怖い」
俺は目を開けた。
その言葉は、正確だと思った。判定者は今、自分の中に初めてできた扉の前に立っている。開けたことがないから、怖い。開けた先に何があるか、千年間分類してきた知識の中にも答えがない。だから止まっている。
「ゴブが俺の扉を叩いた夜」と俺は言った。「俺も怖かった」
「知っている。ゴブから聞いた」
「怖いまま、開けた。怖くなくなってからじゃなかった」
「……判定者も、そうなれるか」
「わからない。でも」
俺は判定者の光を見た。
揺れている。複雑に、止まらずに、揺れ続けている。
「怖いまま扉を開けた奴の話を、今日だけでも三人聞いた。ゴブも、カイルも、お前も。判定者も——聞いてたはずだ」
来た者がしばらく黙った。
「……そうだな」と言った。
判定者の光が、動いた。
今度の動き方は、これまでとは明確に違った。
中心から広がって——今度は止まらなかった。波紋が重なって、打ち消し合わずに積み重なっていく。いくつもの周波数が同じ方向を向いて、揃っていく。これまで俺が見てきた「判定者が何かを処理するとき」の動き方に近かった。でも、これは処理ではなかった。
ゴブが目を覚ました。カイルが端末から顔を上げた。来た者の気配が大きく揺れた。
俺は立ち上がった。
光が広がり続けている。形が変わっていく。今まで見たことのない複雑な形で——
そして。
止まった。
完全に、静止した。
沈黙が、また返ってきた。
「……」
誰も声を出さなかった。カイルが端末を見た。
【世界判定エラー:54.8%——変動なし】
変わっていない。どちらにも、動いていない。
ゴブが俺を見た。来た者が俺を見た。カイルが俺を見た。
俺は、判定者の光を見ていた。
光は静止している。でも、その静止に——これまでとは違う「重さ」があった。何かを決めようとしている直前の、あの静けさに似ていた。
扉の向こうで、相手がまだ迷っている。
でも——迷っている方向が、変わった気がした。
「……待つぞ」と俺は言った。
「わかった」とカイルが答えた。
「帰れますか」とゴブが聞いた。
「帰れる。でも今じゃない」
ゴブが「わかりました」と言って、また膝を抱えて座り直した。
来た者が静かに言った。
「……お前は、急かないな」
「急ぐ必要がない」
「なぜ」
「判定者は迷っている。迷っている奴を急かしたら——処理に戻る。扉を閉める」
来た者が「そうか」と言った。
「ゴブが俺の扉を叩いた夜も、扉の前で少し間があった。あの間が必要だった。俺が準備できるまでの間じゃなくて——ゴブが、開けてもいいと思えるまでの間だった」
「……俺のときも」と来た者が言った。
「そうだ」
「俺は——待ってもらっていたのか」
「必要な時間だから、急ぐ方がおかしい」
来た者がまた揺れた。
「俺は知らなかった。お前が、扉の前で待っていたことを」
「門番は待つ側だ。それが仕事だった」
判定者の光は、まだ止まっていた。でも——止まり方が、変わった。これまでの「処理停止」の止まり方ではなく、「考えている」止まり方だ。俺にはその違いが、なんとなくわかった。
「まあ」と俺は静かに言った。
ゴブが顔を上げた。カイルが端末を手の中で握り直した。
「聞いてから判断しよう」
来た者の気配が揺れた。
エラー率は54.8%のまま、変動なし。
判定者は、まだ迷っている。
だが——その迷いは、千年分の重さを持っている。千年間、誰にも迷わせてもらえなかった存在が、今初めて迷っている。俺はそれを、ただ待っていた。扉の前で待つように。
【世界判定エラー:54.8%——判定者、応答保留中。沈黙継続】
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