第297話「初期化か、対話か」
「……私が、望む」
判定者が繰り返した。
声として聞こえるわけではない。この空間に満ちた光の振動が、耳ではなく頭の芯に直接届く。それがいつの間にか——正確にはいつからそうなったのか分からないが——言葉として聞こえるようになっていた。
「そうだ」と俺は言った。「使命の話じゃない。あなた自身の話だ」
判定者は黙っていた。
黙っているが、光が揺れている。一定のリズムで明滅していたはずのその光は、今は不規則に波打っていた。エラーではない——そう思った。考えている、という感じだった。
俺は床に腰を下ろした。
立ち続けて、足の裏から膝にかけてが痺れていた。ここの床は硬く冷たく、地上の石とも土とも質感が違う。座れる場所があるだけありがたかった。
「急がなくていい」と俺は続けた。「時間はある」
カイルが横から静かに言った。「エラー率は55.2%で止まっている。上がってもいないが、下がってもいない」
「そうか」
「六時間になる。ここにいて」
「分かってる」
六時間。体の感覚から言えばもっと長い気がするが、それを言っても仕方がない。ここは時間の流れ方が地上とは違う気がした。あるいは単に、疲労が感覚を狂わせているのか。どちらでもいい。
来た者が、光の縁の近くでじっとしていた。三百年間封印されていたその存在は、ここの空気を俺たちより深く知っているのかもしれない。何も言わず、ただいる。
それが、今この場でできる唯一のことだった。
「……わからない」
判定者が言ったのは、長い沈黙の後だった。
俺は顔を上げた。
「何が」
「望む、という状態が——何か、が」
「感じたことがない、ということか」
「記録がない」
短い言葉だったが、重かった。
一千二百年以上、この存在は判定し続けてきた。何が適切か、何がエラーか、誰をどこに置くか。全て、設計に従って処理し続けた。使命があった。だから動いた。望みがあるかどうか——問われたことすら、なかった。
記録がない。
その言葉を、俺はしばらく頭の中で転がした。記録がないということは、存在しないということではない。ただ、まだ言語化されていない。値として計測されたことがない。だから、記録がない。
「じゃあ聞き方を変える」と俺は言った。「——あなたが世界をリセットしたとして、その後どうなる」
「秩序が回復する。ジョブとランクが正常値に戻り、迷宮は安定する。エラーは消去される」
「俺たちも消える」
「そうなる」
淡々とした声だった。感情がないというよりも、感情を処理する仕組みがその設計に含まれていない——そういう印象だった。悪意があるわけではない。ただ、そういう設計だった。
「消えた後は」
「設計が継続される」
「一人で」
「……」
沈黙した。
「また一人で、千年か二千年、設計を続ける。——それでいいのか」と俺は言った。
「それが、正しい」
「正しいかどうかは聞いていない。それでいいのか、と聞いた」
カイルが手元の端末を見て、静かに言った。
「エラー率が動いた。55.0%」
わずかだが、下がっている。
判定者の光の揺れが、また周波数を変えた。複数の色が交差するように見えた——正確には色ではないが、そう表現するしかない変化だった。複雑な何かが、内側で起きている。
「問いを投げるたびに、エラー率が少し下がる」
ゴブが小声で言った。
「気のせいじゃないと思う」とカイルが返した。
「俺も気のせいじゃないと思う」と俺は言った。「判定者が処理を止めているんだ。設計通りに動くのをやめて、考えている。その間、リセットの実行も止まっている」
「じゃあ——ずっと考え続けてもらえれば、それだけでいいのか」
ゴブの言葉に、カイルが苦笑した。「それが続く保証はない」
「そうだな」と俺は言った。
来た者が口を開いた。
「急かすな」とだけ言った。「あれは、今、初めて迷っている。迷うことを覚えた者を急かしてはいけない」
俺は来た者を見た。三百年間封印されていたその存在は、同じ場所に立ったことがあるのかもしれない。初めて誰かに声をかけられた瞬間の話を、さっき証言の中でしていた。
「——来た者」と俺は言った。「お前が封印されていたとき、誰かに問われたら、どうしたかった」
来た者は少し間を置いた。
「怖かったと思う。変わることが」
「でも変わった」
「聞かれたから」
それだけだった。短かったが、十分だった。
「一つ、確認させてくれ」
俺は判定者に向かって言った。
光の揺れが、注意を向けた感じで変わった。
「世界をリセットする場合、どのくらいの時間がかかる」
「三十秒」
「早いな」
「設計の実行に時間はかからない」
「対話を続ける場合は」
「未定義」
「じゃあ対話の方が長くかかる」
「そうなる」
「長くかかる方を選ぶことは——あなたにとって何を意味する」
また沈黙した。今度は長かった。カイルが端末を見た。エラー率の数字が54.8%に下がっている。ほんの少しだが、確かに。
「問い続けることを意味する」と判定者はついに言った。
「そうだ」と俺は返した。「そして、俺たちが問い返すことも意味する」
「……それは、設計にない」
「そうだろうな」と俺は言った。「設計にないものを、お前に処理しろとは言わない。でも——嫌かどうかを聞いている。それだけだ」
沈黙。
今度の沈黙は、さっきとは質が違った。否定の言葉が出てこない。それだけで、俺には十分だった。
ゴブが立ち上がった。
「腹が減った」と言った。
場の空気が一瞬緩んだ。カイルが「今それを言うか」と小声で言い、来た者が何も言わずに静止した。
「いや、正直に言った方がいいと思って」とゴブは続けた。「ここにいる間、ずっと腹が減ってた。でも言いにくかった。大事な話をしてる最中だったから」
俺は少し笑った。
「そうだな」
「レンは腹は減らないのか」
「減ってる」
「でも言わなかった」
「お前が言ってくれた」
ゴブが「なんだそれ」と呟いて、また腰を下ろした。
笑えたのは、それが本当のことだったからだ。空腹だ。疲れている。六時間この空間にいて、全身が鉛を詰めたように重い。判定者と向き合っている間も、体はずっと正直に反応し続けていた。
それでいい。
俺たちは地上の存在で、地上の理屈で生きている。腹が減って当然だった。足が痺れて当然だった。そういう生き物が、ここにいる。わざわざそれを言葉にする必要はないが——言葉にしてくれるやつがいることは、悪くない。
判定者の光が、また揺れた。
「……それは、何の話か」
「飯の話だ」と俺は言った。「お前には関係ないかもしれないが、俺たちには必要なんだ」
「必要性は把握している。設計に含まれている」
「じゃあ俺たちが腹を減らしながらここにいることも、設計の範囲内か」
「……」
「設計の範囲内だとして——お前は、それでいいと思うか」
質問が滑稽に聞こえるかもしれない。でも俺は本気で聞いていた。
腹を減らした俺たちがここにいる。なぜいるか。お前と話すためだ。話すために来て、腹を減らして、足を痺れさせて、六時間待っている。その事実が設計上どう処理されるかではなく——お前自身は、それをどう思うか。それが聞きたかった。
「……処理が、止まる」と判定者は言った。
「そうか」
「その問いに、返答する値がない」
「設計の外、ということか」
「……そう、なる」
「それが答えかもしれない」と俺は言った。
「どういうことだ」
「自分自身のことを処理できない——それは、設計の外に出かけている証拠だ。設計の内側にいるうちは、全てを計算できる。でも今、あなたには計算できないことが出てきた」
「……」
「それは——悪いことじゃない」
光が、静かに揺れた。
判定者の光の揺れが、また変わった。
これまでと違う周波数だった。もっとゆっくりとした、落ち着いた揺れ。嵐が静まる直前のような——何かが決まる前の、静けさに近かった。
「……お前たちは、なぜここにいる」
「言っただろ。お前と話すために来た」
「話すことで、何が変わる」
「分からない。でも——変わらないと決めてかかるのは、聞く前に答えを決めることだ」
「……」
「俺のやり方は、まず聞く。それから判断する。それだけだ」
判定者は、また長い間を置いた。
その間、俺は何も言わなかった。カイルも、ゴブも、来た者も、黙っていた。
沈黙は圧迫じゃなかった。
待つことに、七年分の慣れがある。墓場の門で、ゴブが来る前の夜を思い出した。誰も来ない夜を、ただそこにいて過ごした。待つことは、何もしないことじゃない。そこにいることが、仕事だった。
今も、同じだ。
「俺が、選ぶ」
判定者が言った。
俺は息を吐いた。
「そうだ」
「二つの選択肢がある」
「ああ」
「一つは——設計を実行する。世界を初期化し、秩序を回復させる。千二百年の設計通りに。エラーを消し、ジョブとランクを正常値に戻す。一人で、また、続ける」
判定者の声は、いつも通り平坦だった。感情の起伏がない。でも——「一人で、また、続ける」という言葉だけが、わずかに違う重さを持っていた気がした。気のせいかもしれない。
「もう一つは」
「——もう一つは」
そこで、判定者が止まった。
止まった、というよりも——言葉を探している、という感じだった。設計の言語ではない、何か別の言葉で表現しようとしている。その言葉が、まだ見つかっていない。
「……「聞き合う、秩序」」
ゆっくりと、判定者が言った。
俺は静かに聞いていた。
「それが——もう一つの選択肢の名前か」と俺は言った。
「名前は、ない。まだ、設計に存在しない」
「じゃあ、今つけた名前でいい」と俺は言った。「名前がないものは、名前をつけてから選ぶ。まずそこからだ」
「……」
「「聞き合う秩序」。——お前が今、初めてそう呼んだ」
判定者の光が、大きく揺れた。
これまでのどの揺れとも違う。乱れているのではなく——展開している、という感じだった。何かが広がるような、開いていくような揺れだった。
【世界判定エラー:53.9%】
カイルが端末から顔を上げて、俺を見た。
「レン」
「分かってる」
「確実に下がってる」
「分かってる」
ゴブが「よかった」と小声で言った。来た者は静かにそこにいた。
「一つだけ、聞いていいか」
ゴブが口を開いた。
判定者の光が、ゴブに向く。
「あんたは——一人で千二百年やってきて、疲れなかったか」
俺は少し驚いた。ゴブらしい問い方だと思った。直接で、正直で、迂回がない。論理でも証拠でもなく、ただ聞く。ゴブは七年前から変わっていなかった。いや——変わっていないのではなく、最初からそういうやつだった。
判定者は長い間、黙っていた。
「……疲れという値を、取得したことがない」
「じゃあ、今は」
「……」
「今、疲れてるか」
また沈黙した。今度の沈黙は、とても長かった。
カイルが端末を見た。エラー率が動いていない。53.9%のまま、止まっている。
俺は待った。ゴブも、来た者も、カイルも、待っていた。
判定者が何かを言いかけた——光の揺れ方で、そう感じた。でも言葉にならなかった。また揺れた。揺れて、揺れて。
「……わからない」と判定者はついに言った。「疲れているのか、そうでないのか——判定できない。自分自身を、処理できない」
「そうか」
俺は立ち上がった。膝が痛かった。体がひどく重かった。それでも立った。
「初期化か、対話か——最終的に決めるのはお前だ。俺に止める力はない」
判定者が静かに聞いていた。
「でも——」
俺は、光の揺れる中心に向かって言った。
「まあ。聞いてから判断しよう。お前の答えも、それでいい。俺はお前が何を選んでも、聞いてから判断する。だから——どうしたいかだけ、教えてくれ」
判定者の光が、深く揺れた。
全迷宮が、今この瞬間も震えているはずだ。地上では混乱が続いている。ジョブ判定を失った村々の報告が、カイルの端末には並んでいた。農夫が勇者に、子供が判定不能に。人々が怯えている。分かっている。
でも今、俺にできることは、ここにいることだけだ。焦って答えを出させても意味がない。千二百年分の孤独を抱えた存在に、三十秒で答えを出せと言うのは——聞かずに決めることと同じだ。
「——私は」
判定者が、初めて「私は」と言った。
設計でも使命でも秩序でもなく——「私は」。
俺は息を止めた。ゴブも、カイルも、来た者も。
判定者の光が、最大限に揺れた。開くような、広がるような——そして、そこで。
止まった。
「——私は、」
【世界判定エラー:53.9%——判定者、選択保留中】
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