第296話「あなたはどうしたい」
判定者の光が、揺れていた。
カイルの声が空間から消えてから、どれだけの時間が経ったのか分からない。この場所では体の感覚が頼りにならない。腹が減っているかどうかさえ、少し考えないと判断がつかない。足の裏が熱い気もするが、地面の実体が曖昧だから確かめようがなかった。
隣に立つゴブが、静かに俺の袖を引いた。「大丈夫か」というより「ここにいる」という確認のような、小さな動作だった。
「……再分析、完了」
判定者の声が、空間を低く満たした。
「ジョブ『門番』——原初定義の復元、確認した」
俺は体を起こした。背中の疲れを感じながら、判定者の光の揺れを見つめる。
「聞かせてもらえますか」
「……現行定義は、千百四年前に削除した。理由——対象の能力値が計測可能な指標に収まらず、ランク付けが不能であったため」
「それが、俺に当てはまった」
「正確には——全ての門番に当てはまった。以降、ジョブ『門番』の新規判定者は一人として存在しない。お前は千百四年ぶりの登録例となった」
言葉の意味が、じわりと沁みてくる。
千百年間、誰も「門番」になれなかった。あの日、王都のギルドの判定室で、水晶が灯ったとき——俺が受け取ったのは、千年以上封じられていたものだったのか。
「では、原初定義は何でしたか」
「往来者の声を聞き、必要な者を通す役」
俺は、その言葉を繰り返さなかった。
繰り返す必要がなかった。ゴブが短く息を吐く音がして、来た者の光が静かに揺れた。カイルが端末を持つ手を止め、俺の方を見ていた。
「……往来者の声を聞き、必要な者を通す役」
カイルが、低く繰り返した。
声に棘はなかった。どこか遠いところを見ているような、柔らかい繰り返しだった。カイルはすぐに端末に目を戻し、表示を俺に転送してくる。
【世界判定エラー:55.2%——前話比-0.8%】
少しずつ下がっている。
少しずつ、だ。
「計測不能とは——」俺は判定者に続きを促した。「計測できないから捨てた、ということですか」
「……そうだ」
「計測できないものを捨てることで、秩序が保てると判断した」
「……当時の設計では、計測可能なものだけで秩序を組む方針だった。数値化できないものは変数として処理できない。変数として処理できないものは——設計の外に置くしかなかった」
「なるほど」
俺はうなずいた。
「じゃあ——俺がランク外だったのは、お前の設計が間違っていたんじゃなくて、お前の設計では俺を処理できなかった、ということですか」
「……区別するか、その二つを」
「違いは大きいと思いますよ」
判定者がまた沈黙した。
俺はその沈黙の中で、足元の感覚を確かめた。実体がない。光の上に立っているような、あやふやな感触だ。体の芯が鈍く重い。この場所に来てからずっとそうだが、今は特にきつかった。でも今は、その重さより目の前のことが大事だった。
「あなたの設計が処理できないものは、どうなりますか」
「……排除、または無視」
「排除か、無視か」
「そうだ」
「俺は排除されなかった。千百四年、放置された」
「……門番ジョブの登録者がいなかったから、排除の必要がなかった。お前が出てくるまで——問題にならなかった」
問題にならなかった。
ゴブが俺の横でぼそりと呟いた。「墓場の門」という言葉が聞こえた。七年前、王国の端っこの誰も来ない迷宮の前に置かれた俺のことを、ゴブは覚えている。あの夜、扉を叩いたことも、きっと。
「問題にならなかったところに、問題がある場合もあります」俺は言った。「ランク外が当たり前だから誰も疑わない。計測できないものは捨てていい——そうやって、千年間積み重なってきた」
「……しかし秩序は維持された」
「維持はされた。でも——」
俺は少し間を置いた。
「————その秩序の下に、どれだけの声が埋まりましたか」
判定者の空間に、長い停滞が生まれた。
「埋まった声」という言葉を、判定者は処理できているのかできていないのか、判断がつかない。光の揺れが複雑な周波数を帯びていて、読むことができなかった。
カイルが端末を確認する。地上では、各地の迷宮が不安定なまま停止している。それでも都市部の混乱は少し落ち着いているようだった。「判定が止まった」という事態を、人々は恐怖より戸惑いで受け止めているらしい。止まった方が、まだいいと感じている人間も多いのかもしれない。
「一つ、聞かせてください」
俺は判定者に向き直った。
「何を」
「今まで俺が話を聞いてきた全員に、必ず投げてきた問いです」
「……どんな問いだ」
「使命ではなく——あなた自身は、どうしたいですか」
光が、止まった。
止まった、というより固まった。揺れていた波紋が一瞬で静止したような感覚があった。
「……使命と、自身の望み——その区別を、俺は——」
「区別したことがない、ですか」
俺の言葉に、判定者は答えなかった。
その無言が、答えだった。
俺はゆっくりと息を吸った。この沈黙を急かしてはいけない。急かすのは俺の仕事じゃない。俺の仕事は——ここで、待つことだ。
「俺がこれまで話を聞いてきた相手の中に、あなたと似た状況の人がいました」
「……誰だ」
「人類連合の議長、オルディーンという人です」
「……記録に、ある。第二次対話期における連合最高意思決定者。査問議題の転換を行った人物」
「その人に、俺は同じことを聞いたんです。『あなたは人類を代表して怖がっている。でも、あなた自身は何を望みますか』と」
「……その問いに、どう答えたか」
「最初は答えられませんでした」
俺は続けた。
「でも——答えを探した。一晩、かけて。そして翌日、自分の言葉で話し始めた。全市民の前で」
判定者の光がまた揺れた。今度は細かく、震えるように。
「あなたも——千二百年以上、使命として分類してきた。使命だったから、自分の望みを考える必要がなかった。問われなかった。考える前に、次の仕事が来た」
「……そうだ」
「ならば——今日が、初めて問われた日です」
空間が静かになった。
ゴブが俺の腕に軽く触れた。確認するような触れ方だった。俺はうなずいた。体の重さは本物だったが、それより今はこの沈黙の方が大事だった。
来た者が低く言った。
「私も——かつて、誰にも聞かれなかった。三百年、封印の中で。初めて声をかけてもらったとき、何を答えればいいか分からなかった」
判定者の光が、来た者の方を感知した。
「私は——『恐怖』と答えた。何を問われているかも分からないまま、それだけが出てきた。でも——それが、初めての自分の声だった」
来た者の語り口は穏やかだった。三百年という時間の重さが、言葉の一つ一つに積み重なっているような話し方だった。
「判定者よ。お前が今感じている——何かを探そうとしている感覚。それが、望みへの最初の一歩かもしれない」
判定者は長い間、何も言わなかった。
俺もゴブもカイルも来た者も、ただ待った。
急ぐことは何もない。地上の混乱は収まりつつある。エラー率は停滞しているが、上昇はしていない。この沈黙は崩壊じゃない——考えている時間だ。
千二百年以上、ただ分類し続けてきた存在が、初めて「自分の望み」という概念と向き合っている。
カイルが小さな声で言った。
「レン。俺も——昔、同じことを聞かれた気がする」
「誰に」
「お前に。第四迷宮に一人で行って帰ってきたとき、お前が『どうだった』って聞いたんだ。結果じゃなくて——どうだった、って」
俺は記憶を辿った。そういえば、そんなことを聞いた。
「それが——俺にとって最初だったかもしれない。自分の感覚を言葉にする、最初が」
「そうか」
「うん」カイルは端末を見ながら言った。「だから——待てる。俺は」
ゴブが音のない笑いをした。声はなかったが、俺には分かった。
「私もだ、外の調停者。七年前に扉を叩いたとき——あなたに『どうした』と聞かれた。あのとき初めて、自分たちの話を外に出せた」
来た者も続いた。
「私は三百年後に、やっと」
「お前が言うな」とカイルが即答した。
空間に、静かな温度が戻った気がした。
「……聞こえている」
判定者が、ゆっくりと言った。
「お前たちが——何かを持っているのは、分かる。私には、それがない」
「何を持っていると思いますか」
「……言語化できない何かだ」
「そうですね」俺は言った。「俺も上手く説明できません。でも——それを探してみたいと思うことは、できますか」
また沈黙が来た。
今度は短かった。
「……探す、という行為を——俺は設計に組み込んでいなかった」
「組み込む必要はないです。俺もゴブも、カイルも——探しながら、ここまで来た。設計じゃなくて、気づいたら探していた」
「……そういうものなのか」
「まあ」俺は少し考えてから言った。「聞いてから判断しよう、とも言えます」
判定者の光が、一瞬止まった。
その言葉を——判定者は前にも何度か聞いた。でも今この場で聞く意味は、前とは違うかもしれない。俺にはその変化が、光の揺れの微妙な間合いで分かった。
「……お前のその——言葉は」
「俺の口癖です」
「口癖、とは」
「意識せずに出てくる言葉、という意味です。俺の場合、最初に迷宮の前で魔物のノックを聞いたとき、自然に出てきた。それからずっと——色んな相手と話すたびに出てくる」
「……なぜ出てくるか、分かるか」
「分かりません」俺は正直に答えた。「でも——聞かないと損だと思ってる。だから先に判断しない。聞いてから決める」
「損と得で判断するのか」
「最初はそうでした」
俺はゴブを見た。ゴブが静かに首を傾けた。
「でも今は——聞くのが、楽しいのかもしれない。聞かないと、知れないことがある。あなたのことも——聞いてみないと知れなかった」
判定者が長い時間をかけて、言葉を選んだ。
「俺のことを——知りたかったのか」
「そうです」
「なぜ」
「お前が、どういう存在か知らないまま、どうにかしようとするのは——俺のやり方じゃないから」
また沈黙が来た。
今度の沈黙は、それまでとは質が違った。圧迫感がなかった。判定者の光の揺れが、少しだけ柔らかくなっていた——気がする。
「……知りたいと思うことが——望むことに、なるのか」
「なると思います」
「……では——俺が今、初めて——何かを、知りたいと思っているとしたら」
俺は待った。
「それが——望み——なのか」
俺はうなずいた。言葉は要らなかった。
カイルの端末が、静かに表示を転送してくる。
【世界判定エラー:54.1%——下降継続中】
下がっている。
まだ話せている。
「私、が」
判定者の声が、音量を落として続けた。
「……望む、というのは——どういう感じがするのか」
俺は口を開こうとして、止まった。
代わりにゴブが言った。
「扉を叩いた夜、俺は仲間のために叩いた。でも——叩くとき、俺自身も、誰かに聞いてもらいたかった」
「……二つが、あったのか」
「そうだ。使命と、自分の望み。どっちも本当だった」
判定者が、光の波動を静かに揺らした。息を吐くような、柔らかい波動だった——初めて見る揺れ方だった。
「……私は——」
「焦らなくていいです」俺は言った。「俺もゴブも、ここにいます」
長い沈黙が来た。
ゴブが隣で静かに立っている。カイルが端末から目を上げ、来た者が光をわずかに落ち着かせる。俺はその空間の中心で、判定者の光の揺れを見ていた。
急かすことは何もない。
ここで待つのが——門番の仕事だ。
「私、が——望む——?」
判定者の声が、最後の言葉で揺れた。
問いかけた相手が俺なのか、来た者なのか、それとも自分自身なのか——分からなかった。
でも——問いかけていた。
千二百年以上、一度も問いかけなかったものを、今、探している。
それで十分だと、俺は思った。
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