第292話「下がいらない世界」
俺は、息を吐いた。
「……まあ——」
その言葉の続きが来なかった。
判定者の空間に青白い光だけが揺れている。波紋のように広がって、収まって、また揺れる。千二百四十七年間、一定だったはずのリズムが、この数日で何度も乱れていた。
さっきの声を、俺はまだ頭の中で反芻していた。
「……なぜそう言いかけたのか、自分にも分からない」
千二百四十七年間、世界のすべてを分類し続けてきた存在が、初めて自分自身について「分からない」と言った。
感情がない存在が、感情のように揺れていた。
足元——というより、空間の底が、微妙に振動している気がする。錯覚かもしれない。でも、ゴブも感じているのか、俺の隣で静かに重心を低くしていた。第七迷宮の門番は、空気の変化に敏感だ。三年間、そういう仕事をしてきた。
「レン……どうする」
小声だった。ゴブが、俺にだけ聞こえるように言った。
「待つ」
「どのくらい」
「判定者が次に動くまで」
少しの間があった。
「……怒ったりしないのか」
「何に」
ゴブが少し考えてから「俺たちのことを「エラー」と呼んでることに」と言った。
「怒る理由がないとは思ってない」と俺は答えた。「でも今は関係ない」
ゴブが「そうか」と言って、また黙った。
こいつは、俺が動かないときに一緒に動かないでいられる。それが、俺にとって助かっている。来た者も、カイルも、誰も喋らなかった。この空間の空気を読むことを、みんなが覚えてきていた。
「……処理を、再試行する」
判定者の声が戻ってきた。
さっきより——ほんの少しだけ——違う。乾いた声の奥に、かすかな何かが生まれている気がした。言葉にするなら「湿度」に近い。感情という名前をつけるには薄すぎるが、空白でもない。
「先ほどの発語断片を分析した。「まあ——」という語順は、確率的に「まあ、聞いてから判断しよう」という文型への移行を示す。この語型は私の設計語彙に存在しない。感染経路の特定を試みる」
「感染、か」
俺は少しだけ考えてから言った。「それは違う」
「何が違うか」
「感染じゃない。あなたの中から出てきた。外から入ったものが広がったんじゃなくて、あなた自身の中から出た」
判定者の光が止まった。
完全に、止まった。
さっきまでゆらゆらと揺れていた青白い光が、一瞬だけ固まった。呼吸を止めているみたいに。
「……説明を要求する」
「感染というのは、外から入ってきたものが中で増える現象だ。でもあなたが「まあ——」と言いかけたのは、俺の話を何日間も聞き続けた後で——」
俺は言葉を探した。
「呼ばれた声が、返ってきた、みたいなことだ」
「……理解できない表現だ」
「そうだろうな」と俺は言った。「でも、そういうことが起きた。あなた自身が一番よく知ってる」
沈黙。
長い沈黙だった。
判定者は何も言わなかった。でも光が消えていない。処理を続けている。何かを探している。
来た者が、静かに俺の横に並んだ。
「三百年前、封印される直前——私たちも、初めて誰かの声を「理解できない」と感じた。ヴォルトが最初そう言った。理解できないのに、忘れられなかった。それが、何かの始まりだったと、今なら分かる」
判定者がまた光を揺らした。
「……参照する」
カイルが端末を確認した。
「エラー率、58%から動いてない。上がりも下がりもしない」
【世界判定エラー:58%——変化なし】
「静止か」と俺は聞いた。
「そう。地上はまだ保ってる。ただ、バルタ三都市は機能停止寸前だって。暴動が収まらない。ジョブ表示がランダムで書き換わり続けてるから、農夫が「勇者」と表示されて混乱して、判定所に殴り込んでる。子供が「判定不能」と出て、親が錯乱してる」
ゴブが「人間って……」と言いかけて、止めた。
「人間も、秩序が崩れると怖くなる」と俺は言った。「怖くなると、何かを壊そうとする。どこかに責任を押し付けようとする。それは魔物も同じだ」
「……一般化の根拠を問う」
判定者だった。
「経験だ」と俺は答えた。「俺の経験と、俺が聞いてきた人間と魔物の話」
「経験は客観性に欠ける」
「そうだな。でも、一千二百四十七年間の分類データも、今は機能を失いかけてる。どちらが正確か、今の時点では俺には分からない」
「……それは、私への挑戦か」
「質問だ」と俺は言った。
「質問の意図を」
「あなたが「正確」と呼んできたものが、今、正確に機能していない。なら、別の何かを試すことへの障壁が、少し下がってないか、と思った」
判定者は何も言わなかった。
でも、光が止まらなかった。
「判定者」
俺は空間の中心に向かって言った。どこを見ればいいのかよく分からない。光はどこにでもある。でも、どこかに意志が宿っているはずだ。
「一つ、聞かせてくれ」
「……発語を許可する」
「あなたが設計した秩序——誰かが下にいることで保たれる秩序——その「下」にいる存在が、どんな気持ちでいるかを、考えたことはあったか」
長い沈黙。
「感情は、秩序設計の変数に含まれない」
「それは答えになっていない」
「……考えたことは、なかった」
俺は、その言葉を聞いて、胸の中で何かが静かに落ち着いた。
予想通りだった。でも、予想通りでも、本人の口から出た言葉は違う。聞いた意味がある。
「俺は最下層にいた」と俺は言った。「ランク外、ハズレ。それが俺に付いていた言葉だった。ジョブ判定の日、大きな広間で名前を呼ばれて、「門番」と告げられた。ランク外というのは、判定する価値もないという意味だ、と俺は思った」
「記録と一致する」
「怒ったかどうかじゃなくて——」俺は一拍置いた。「俺が第七迷宮で門番をやっていた時間は、俺の人生で一番、誰かに必要とされた時間だった。ランクは関係なかった。下にいることも、関係なかった」
「それは例外だ」
「さっきも言った。例外が——こんなにいる」
俺は横を向いた。
ゴブ。カイル。来た者。
三人とも、黙って、そこにいた。どこにも逃げずに。
「例外が増えたとき——それはもう例外じゃなくなる」
判定者は答えなかった。でも光が揺れた。
「俺が今まで交渉してきた相手は、全員——最初は話を聞かなかった。ゴブも、カイルも、カーラさんも、セルディン議員も、連合のオルディーン議長も、レイラも——全員。最初は聞かなかった。でも、聞いたら変わった」
「「変わった」の定義を要求する」
「態度が変わった。行動が変わった。世界に対する解釈が変わった。でも、その人自身が消えたわけじゃない。ゴブはゴブのままだ。カイルはカイルのままだ」
俺はゴブを見た。
ゴブが、まっすぐ俺を見ていた。眉が少し下がっていた。この話をされると照れるのだということを、俺は知っている。
「変わったのは——上下の関係じゃなくて、横の繋がりが生まれたことだ。ランクで上下に分けるんじゃなくて、同じ地平で話を聞き合う」
判定者の光が、複雑に揺れた。複数の周波数が混在しているような、整理できていない揺れ方だった。
来た者が静かに言った。
「私は三百年間、封印の中にいた。誰にも話しかけられなかった。話しかけていいとも知らなかった。レンが来て、初めて聞かれた。それだけで——消えなかった。私は、今もここにいる」
「来た者の種族は、封印対象として設計した。その存在はエラーだ」
「それでも存在している」と来た者は言った。低く、落ち着いた声だった。「エラーが存在しているのが、今の世界の現実だ。その現実を——どう処理するか、は、あなたが決めることだ」
判定者は、また長く沈黙した。
カイルが端末を握り直す音が聞こえた。何か言いたそうだったが、黙っていた。カイルは俺の流儀を三年かけて学んできた。ここで喋るタイミングじゃないと分かっている。
ゴブは足元の何もない空間を見ていた。考えているときのゴブの顔だった。
俺は、ただ、待っていた。
「……理論として、検討を許可する」
判定者の声が、また変わった。
「下を作らない秩序——その構造を、説明しろ」
俺は一度息を吸ってから言った。
「俺が説明できることは、俺が経験したことだけだ。体系的な理論じゃない」
「それでも、説明しろ」
「分かった」
俺は少し考えた。何から話すか。どこから糸を引けばいい。
「最初——ゴブが門をノックしたとき、俺はゴブをランクで考えていなかった。魔物だから危険、とも考えなかった。ただ、話を聞いた。ゴブには事情があった。第23層から逃げてきた理由があった。俺にはそれが分からなかったから、聞いた」
「「聞く」の動機は情報収集だ。設計の内にある行動だ」
「違う。俺は欲しい情報があって聞いたわけじゃない。ゴブが何を言いたいのかを知りたかった。それだけだ」
「区別が不明だ」
「情報収集は、欲しい情報を取りに行く。でも俺がやったのは——ゴブが何を持っているか、俺が知らない形で持っているかもしれないものを、出てくるまで待つことだ。欲しい答えがあるわけじゃない。あるのは、聞く相手だけだ」
判定者の光が、細かく揺れた。
「……処理誤差が発生している。再定義を試みる」
「急がなくていい」と俺は言った。「ゆっくり考えてくれ」
「急がない、という行動指針は、効率設計に含まれていない」
「それが——俺の言いたいことだ」
俺はゆっくりと言葉を組み立てた。
「あなたの設計は、急ぐことで保たれていた。ランクを決めて、分類して、どれが上でどれが下か、素早く判断することで世界を回した。でも——急いで分類すると、聞く間がなくなる。聞く間がなくなると、分からないままのことが増える。分からないままのことが増えると、怖くなる。怖くなると——」
「暴力が増える」とゴブが静かに言った。
俺はゴブを見た。ゴブが「俺たちもそうだった。第23層から逃げるとき、話す間がなかった。だから溢れた」と言った。
「……ゴブリン個体の証言は、設計検討に採用できない」
「なぜか」と俺は聞いた。
「設計対象の当事者による陳述は、客観性を持たない」
「設計された側の声を聞かずに、設計の正しさを測れるか」
判定者が、長い沈黙に入った。
今度は本当に長かった。
来た者が「……揺らいでいる」と小さく言った。俺には判定者の光がどう揺れているか分からなかったが、来た者には見えるのかもしれない。三百年間、封印の中からこの存在の揺れを感じてきた。
「……あなたが言う「聞き合う秩序」は、誰かが先に折れることを前提とする。それは脆い構造だ」
判定者の声が戻ってきた。今度は、前より静かだった。怒りでも拒絶でもない声で。
「そうかもしれない」と俺は言った。「俺も、何度か先に折れた。ゴブも折れた。カイルも、カーラさんも、セルディンも。みんな、どこかで先に折れた」
「脆い」
「でも——誰かが先に折れなければ、何も始まらなかった。あなたの設計は崩れなかった。俺はランク外のまま、ゴブは迷宮の中のまま、来た者は封印のままだった。折れることが、動かした」
「折れることは、設計外のエラーだ」
「エラーが世界を動かした」と俺は言った。「あなたの設計が保てなくなったのは、エラーのせいじゃない。あなたの設計が想定していなかった何かが、設計の外から働きかけたから、世界が変わった。でも——世界は壊れなかった。ただ、変わった」
「変化と崩壊の区別が曖昧だ」
俺は少し笑った。
「俺も最初は区別できなかった。変わることが怖かった。でも、変わってみたら——変わる前より、多くの人間と魔物が生きていた。それが、俺の中では十分な根拠だ」
【世界判定エラー:57.9%——微小変化】
カイルが静かに端末を見て、数字を口の中で確認していた。俺には何も言わなかった。俺も聞かなかった。
「誰かを最下層に置かなくても、秩序は保てる。聞き合うことで」
俺は、ゆっくりと言った。
提案じゃなかった。俺が、今まで経験してきたことの、ただの要約だ。
「人と魔物が話し合った。話し合ったら、溢出が減った。溢出が減ったら、戦争が減った。戦争が減ったら、秩序が保たれた。ランクを使わずに。下を作らずに。一人ずつ、聞いて、聞かれて、そのたびに何かが変わって——今がある」
「時間的スケールが短すぎる」
「そうかもしれない」と俺は言った。「あなたが千年かけて試したように、俺の方法にも千年かけてみることができる。結果が出るかどうかは——まあ、聞いてから判断しよう、だ」
静寂が降りた。
完全な静寂だった。
ゴブの呼吸が聞こえた。カイルが何かを飲み込む音が聞こえた。来た者が、微かに光を揺らした。
そして、判定者の声が来た。
「……そんな秩序は」
一拍。
「……そんな秩序は、存在し得ない」
断言じゃなかった。
語尾が——ほんの少しだけ——揺れていた。
まるで自分に問いかけているような。まるで「存在し得ない——のか?」と、千二百四十七年分の判定の重さを、もう一度だけ測り直しているような。そういう声の揺れ方だった。
俺は何も言わなかった。
急がなかった。
答えはまだ出ていない。
それでよかった。
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