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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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292/315

第292話「下がいらない世界」

俺は、息を吐いた。


「……まあ——」


その言葉の続きが来なかった。


判定者の空間に青白い光だけが揺れている。波紋のように広がって、収まって、また揺れる。千二百四十七年間、一定だったはずのリズムが、この数日で何度も乱れていた。


さっきの声を、俺はまだ頭の中で反芻していた。


「……なぜそう言いかけたのか、自分にも分からない」


千二百四十七年間、世界のすべてを分類し続けてきた存在が、初めて自分自身について「分からない」と言った。


感情がない存在が、感情のように揺れていた。


足元——というより、空間の底が、微妙に振動している気がする。錯覚かもしれない。でも、ゴブも感じているのか、俺の隣で静かに重心を低くしていた。第七迷宮の門番は、空気の変化に敏感だ。三年間、そういう仕事をしてきた。


「レン……どうする」


小声だった。ゴブが、俺にだけ聞こえるように言った。


「待つ」


「どのくらい」


「判定者が次に動くまで」


少しの間があった。


「……怒ったりしないのか」


「何に」


ゴブが少し考えてから「俺たちのことを「エラー」と呼んでることに」と言った。


「怒る理由がないとは思ってない」と俺は答えた。「でも今は関係ない」


ゴブが「そうか」と言って、また黙った。


こいつは、俺が動かないときに一緒に動かないでいられる。それが、俺にとって助かっている。来た者も、カイルも、誰も喋らなかった。この空間の空気を読むことを、みんなが覚えてきていた。



 



「……処理を、再試行する」


判定者の声が戻ってきた。


さっきより——ほんの少しだけ——違う。乾いた声の奥に、かすかな何かが生まれている気がした。言葉にするなら「湿度」に近い。感情という名前をつけるには薄すぎるが、空白でもない。


「先ほどの発語断片を分析した。「まあ——」という語順は、確率的に「まあ、聞いてから判断しよう」という文型への移行を示す。この語型は私の設計語彙に存在しない。感染経路の特定を試みる」


「感染、か」


俺は少しだけ考えてから言った。「それは違う」


「何が違うか」


「感染じゃない。あなたの中から出てきた。外から入ったものが広がったんじゃなくて、あなた自身の中から出た」


判定者の光が止まった。


完全に、止まった。


さっきまでゆらゆらと揺れていた青白い光が、一瞬だけ固まった。呼吸を止めているみたいに。


「……説明を要求する」


「感染というのは、外から入ってきたものが中で増える現象だ。でもあなたが「まあ——」と言いかけたのは、俺の話を何日間も聞き続けた後で——」


俺は言葉を探した。


「呼ばれた声が、返ってきた、みたいなことだ」


「……理解できない表現だ」


「そうだろうな」と俺は言った。「でも、そういうことが起きた。あなた自身が一番よく知ってる」


沈黙。


長い沈黙だった。


判定者は何も言わなかった。でも光が消えていない。処理を続けている。何かを探している。


来た者が、静かに俺の横に並んだ。


「三百年前、封印される直前——私たちも、初めて誰かの声を「理解できない」と感じた。ヴォルトが最初そう言った。理解できないのに、忘れられなかった。それが、何かの始まりだったと、今なら分かる」


判定者がまた光を揺らした。


「……参照する」



 



カイルが端末を確認した。


「エラー率、58%から動いてない。上がりも下がりもしない」


【世界判定エラー:58%——変化なし】


「静止か」と俺は聞いた。


「そう。地上はまだ保ってる。ただ、バルタ三都市は機能停止寸前だって。暴動が収まらない。ジョブ表示がランダムで書き換わり続けてるから、農夫が「勇者」と表示されて混乱して、判定所に殴り込んでる。子供が「判定不能」と出て、親が錯乱してる」


ゴブが「人間って……」と言いかけて、止めた。


「人間も、秩序が崩れると怖くなる」と俺は言った。「怖くなると、何かを壊そうとする。どこかに責任を押し付けようとする。それは魔物も同じだ」


「……一般化の根拠を問う」


判定者だった。


「経験だ」と俺は答えた。「俺の経験と、俺が聞いてきた人間と魔物の話」


「経験は客観性に欠ける」


「そうだな。でも、一千二百四十七年間の分類データも、今は機能を失いかけてる。どちらが正確か、今の時点では俺には分からない」


「……それは、私への挑戦か」


「質問だ」と俺は言った。


「質問の意図を」


「あなたが「正確」と呼んできたものが、今、正確に機能していない。なら、別の何かを試すことへの障壁が、少し下がってないか、と思った」


判定者は何も言わなかった。


でも、光が止まらなかった。



 



「判定者」


俺は空間の中心に向かって言った。どこを見ればいいのかよく分からない。光はどこにでもある。でも、どこかに意志が宿っているはずだ。


「一つ、聞かせてくれ」


「……発語を許可する」


「あなたが設計した秩序——誰かが下にいることで保たれる秩序——その「下」にいる存在が、どんな気持ちでいるかを、考えたことはあったか」


長い沈黙。


「感情は、秩序設計の変数に含まれない」


「それは答えになっていない」


「……考えたことは、なかった」


俺は、その言葉を聞いて、胸の中で何かが静かに落ち着いた。


予想通りだった。でも、予想通りでも、本人の口から出た言葉は違う。聞いた意味がある。


「俺は最下層にいた」と俺は言った。「ランク外、ハズレ。それが俺に付いていた言葉だった。ジョブ判定の日、大きな広間で名前を呼ばれて、「門番」と告げられた。ランク外というのは、判定する価値もないという意味だ、と俺は思った」


「記録と一致する」


「怒ったかどうかじゃなくて——」俺は一拍置いた。「俺が第七迷宮で門番をやっていた時間は、俺の人生で一番、誰かに必要とされた時間だった。ランクは関係なかった。下にいることも、関係なかった」


「それは例外だ」


「さっきも言った。例外が——こんなにいる」


俺は横を向いた。


ゴブ。カイル。来た者。


三人とも、黙って、そこにいた。どこにも逃げずに。


「例外が増えたとき——それはもう例外じゃなくなる」



 



判定者は答えなかった。でも光が揺れた。


「俺が今まで交渉してきた相手は、全員——最初は話を聞かなかった。ゴブも、カイルも、カーラさんも、セルディン議員も、連合のオルディーン議長も、レイラも——全員。最初は聞かなかった。でも、聞いたら変わった」


「「変わった」の定義を要求する」


「態度が変わった。行動が変わった。世界に対する解釈が変わった。でも、その人自身が消えたわけじゃない。ゴブはゴブのままだ。カイルはカイルのままだ」


俺はゴブを見た。


ゴブが、まっすぐ俺を見ていた。眉が少し下がっていた。この話をされると照れるのだということを、俺は知っている。


「変わったのは——上下の関係じゃなくて、横の繋がりが生まれたことだ。ランクで上下に分けるんじゃなくて、同じ地平で話を聞き合う」


判定者の光が、複雑に揺れた。複数の周波数が混在しているような、整理できていない揺れ方だった。


来た者が静かに言った。


「私は三百年間、封印の中にいた。誰にも話しかけられなかった。話しかけていいとも知らなかった。レンが来て、初めて聞かれた。それだけで——消えなかった。私は、今もここにいる」


「来た者の種族は、封印対象として設計した。その存在はエラーだ」


「それでも存在している」と来た者は言った。低く、落ち着いた声だった。「エラーが存在しているのが、今の世界の現実だ。その現実を——どう処理するか、は、あなたが決めることだ」


判定者は、また長く沈黙した。


カイルが端末を握り直す音が聞こえた。何か言いたそうだったが、黙っていた。カイルは俺の流儀を三年かけて学んできた。ここで喋るタイミングじゃないと分かっている。


ゴブは足元の何もない空間を見ていた。考えているときのゴブの顔だった。


俺は、ただ、待っていた。



 



「……理論として、検討を許可する」


判定者の声が、また変わった。


「下を作らない秩序——その構造を、説明しろ」


俺は一度息を吸ってから言った。


「俺が説明できることは、俺が経験したことだけだ。体系的な理論じゃない」


「それでも、説明しろ」


「分かった」


俺は少し考えた。何から話すか。どこから糸を引けばいい。


「最初——ゴブが門をノックしたとき、俺はゴブをランクで考えていなかった。魔物だから危険、とも考えなかった。ただ、話を聞いた。ゴブには事情があった。第23層から逃げてきた理由があった。俺にはそれが分からなかったから、聞いた」


「「聞く」の動機は情報収集だ。設計の内にある行動だ」


「違う。俺は欲しい情報があって聞いたわけじゃない。ゴブが何を言いたいのかを知りたかった。それだけだ」


「区別が不明だ」


「情報収集は、欲しい情報を取りに行く。でも俺がやったのは——ゴブが何を持っているか、俺が知らない形で持っているかもしれないものを、出てくるまで待つことだ。欲しい答えがあるわけじゃない。あるのは、聞く相手だけだ」


判定者の光が、細かく揺れた。


「……処理誤差が発生している。再定義を試みる」


「急がなくていい」と俺は言った。「ゆっくり考えてくれ」


「急がない、という行動指針は、効率設計に含まれていない」


「それが——俺の言いたいことだ」


俺はゆっくりと言葉を組み立てた。


「あなたの設計は、急ぐことで保たれていた。ランクを決めて、分類して、どれが上でどれが下か、素早く判断することで世界を回した。でも——急いで分類すると、聞く間がなくなる。聞く間がなくなると、分からないままのことが増える。分からないままのことが増えると、怖くなる。怖くなると——」


「暴力が増える」とゴブが静かに言った。


俺はゴブを見た。ゴブが「俺たちもそうだった。第23層から逃げるとき、話す間がなかった。だから溢れた」と言った。


「……ゴブリン個体の証言は、設計検討に採用できない」


「なぜか」と俺は聞いた。


「設計対象の当事者による陳述は、客観性を持たない」


「設計された側の声を聞かずに、設計の正しさを測れるか」


判定者が、長い沈黙に入った。


今度は本当に長かった。


来た者が「……揺らいでいる」と小さく言った。俺には判定者の光がどう揺れているか分からなかったが、来た者には見えるのかもしれない。三百年間、封印の中からこの存在の揺れを感じてきた。



 



「……あなたが言う「聞き合う秩序」は、誰かが先に折れることを前提とする。それは脆い構造だ」


判定者の声が戻ってきた。今度は、前より静かだった。怒りでも拒絶でもない声で。


「そうかもしれない」と俺は言った。「俺も、何度か先に折れた。ゴブも折れた。カイルも、カーラさんも、セルディンも。みんな、どこかで先に折れた」


「脆い」


「でも——誰かが先に折れなければ、何も始まらなかった。あなたの設計は崩れなかった。俺はランク外のまま、ゴブは迷宮の中のまま、来た者は封印のままだった。折れることが、動かした」


「折れることは、設計外のエラーだ」


「エラーが世界を動かした」と俺は言った。「あなたの設計が保てなくなったのは、エラーのせいじゃない。あなたの設計が想定していなかった何かが、設計の外から働きかけたから、世界が変わった。でも——世界は壊れなかった。ただ、変わった」


「変化と崩壊の区別が曖昧だ」


俺は少し笑った。


「俺も最初は区別できなかった。変わることが怖かった。でも、変わってみたら——変わる前より、多くの人間と魔物が生きていた。それが、俺の中では十分な根拠だ」


【世界判定エラー:57.9%——微小変化】


カイルが静かに端末を見て、数字を口の中で確認していた。俺には何も言わなかった。俺も聞かなかった。



 



「誰かを最下層に置かなくても、秩序は保てる。聞き合うことで」


俺は、ゆっくりと言った。


提案じゃなかった。俺が、今まで経験してきたことの、ただの要約だ。


「人と魔物が話し合った。話し合ったら、溢出が減った。溢出が減ったら、戦争が減った。戦争が減ったら、秩序が保たれた。ランクを使わずに。下を作らずに。一人ずつ、聞いて、聞かれて、そのたびに何かが変わって——今がある」


「時間的スケールが短すぎる」


「そうかもしれない」と俺は言った。「あなたが千年かけて試したように、俺の方法にも千年かけてみることができる。結果が出るかどうかは——まあ、聞いてから判断しよう、だ」


静寂が降りた。


完全な静寂だった。


ゴブの呼吸が聞こえた。カイルが何かを飲み込む音が聞こえた。来た者が、微かに光を揺らした。


そして、判定者の声が来た。


「……そんな秩序は」


一拍。


「……そんな秩序は、存在し得ない」


断言じゃなかった。


語尾が——ほんの少しだけ——揺れていた。


まるで自分に問いかけているような。まるで「存在し得ない——のか?」と、千二百四十七年分の判定の重さを、もう一度だけ測り直しているような。そういう声の揺れ方だった。


俺は何も言わなかった。


急がなかった。


答えはまだ出ていない。


それでよかった。

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