第293話「止まる手」
「考えたことはなかった」
判定者の声が、青白い空間の奥から聞こえた。
俺はすぐには何も言わなかった。
あの言葉——「下に置かれた者の感情を、設計に考慮したことはなかった」という認識——はまだ空気の中に残っていた。消えていない。むしろ、空間そのものに沈んでいるみたいだった。
返せる言葉を、俺は持っていない。
正確に言うと、返す必要があるかどうか、まだわかっていない。
ゴブが俺の隣で息を潜めた。カイルは端末を膝の上に置いたまま、視線だけを判定者の光へ向けていた。来た者は一歩前に出た位置で、ただ立っていた。
誰も何も言わなかった。
俺も、言わなかった。
判定者の光が揺れ続けている。複数の周波数が交ざり合って、普段の一定のリズムとは違うパターンを描いていた。
「処理中」ではなく、「揺れている」というのが正確な表現かもしれない。
俺は今まで多くの相手と交渉してきた。その経験でわかったことがある。沈黙が、最も多くを語るときがある。
だから待った。
「聞いてもいいか」
俺が最初に口を開いたのは、どのくらい経った後だったか。
「……聞くことを止めるな、と言った」
「覚えてるんだな」
「すべての会話を記録している」
そうか、と俺は思った。千二百四十七年分の記録の中に、俺との会話も全部入っているわけだ。
「今、何をしてるんだ」
「……分類を、停止している」
「俺たちの話を聞いていたから、分類できていない?」
「——正確には、違う。分類を試みているが、パラメータが定まらない。処理の前段階で、停止が生じている」
「パラメータが定まらないのは前にも言ってたな。俺という存在をどこにも収められない、って」
「——そうだ。だが今は、お前だけではない」
判定者の声が、一瞬止まった。
「俺だけじゃない?」
「ゴブリン・門番、来た者、カイル・ベルグ、ガレスの記録、レイラ・ヴェルナインの証言——それらを一つの設計の文脈で処理しようとすると、整合性が取れない値が生じる。エラーとして排除することも、正常値として組み込むこともできない」
なるほど、と俺は思った。
「俺一人じゃなくて、俺に関わった全員が、あんたの処理に引っかかってる」
「——その表現は正確だ」
ゴブが「へえ」と言った。「俺も引っかかってるのか」
「そうだ。ゴブリン・門番という分類は、以前の設計データに存在しない」
「そりゃそうだ。俺が初めてだもんな」
ゴブは少し誇らしそうだった。他の場面なら笑えるけど、今日は笑わなかった。
「エラー率、どうなってる?」
俺はカイルに目を向けた。
カイルが端末を素早く確認して、画面を止めた。
「……58.2%」
「上がってるか?」
「いや——上がっていない。昨夜と同じ数字だ」
俺はそれを聞いて、判定者の方に向き直った。
「リセットの実行、止まってるか?」
沈黙が来た。今まで聞いたどの沈黙より長い沈黙だった。
その間、俺は判定者の光を見ていた。揺れ方が変わっていた。単一の周波数だったものが、今は複数の層になって揺れている。
まるで——迷っているみたいだった。
「——保留している」
「なぜ?」
「……わからない」
わからない、と、判定者が言った。
千二百四十七年間分類を続けてきた存在が、自分の動作の理由を「わからない」と言った。
俺は、その重さを受け取った。
「保留が始まったのは、いつ?」
「……六時間前。レイラ・ヴェルナインの証言記録を受け取った後、設計上の最適解を演算する処理の途中で——止まった。再開を試みたが、止まる。繰り返した。現在に至る」
レイラが送った記録を受け取った後か。
昨日のことを思い返した。レイラが判定者に送ったのは、戦争で夫と娘を失い、怒りを抱えながらも「解決でなく、聞かれることで孤独でなくなった」と語った言葉だった。
「分類できない痛みを受け取ってから、止まってる」
「……設計上の影響があるとは想定していなかった」
「設計上の影響なのか?」
「——わからない。これが何の影響によるものか、判定できていない」
カイルが端末を持ち直して言った。
「何の影響かわからないまま——止まってる、ってことか」
「そうだ」
カイルは何も言わなかった。でも俺は、カイルの目が微妙に揺れるのを見た。
理由がわからないことを、判定者が認めた。それはカイルにとっても意外なことだったのかもしれない。
ゴブが小さく言った。
「わからないって言える方が、嘘をつくより正直だろ。そっちの方が話が進む」
判定者の光がわずかに揺れた。
来た者が一歩前に進んだ。
「私も、かつてわからないことがあった」
その声は低く、落ち着いていた。
「三百年前、封印された理由が——最初、わからなかった。敵意で封じられたのか、恐怖で封じられたのか、それとも別の何かがあったのか。判断できなかった。だから怒ることもできなかった」
「封印の理由は——設計上の安全基準に基づいた——」
「知っている」来た者が穏やかに遮った。「今は知っている。でもあのとき、誰も教えてくれなかった。ただ、封じられた」
判定者の光が、また揺れた。揺れの幅が大きくなった。
「……教える必要があったか、と問われれば——」
「そうではない」来た者は言った。「ただ——聞かれることで、わかることがある。あなたに問われるまで、私も自分が何を感じていたか、言葉にできていなかった」
俺は来た者の横顔を見た。
三百年間封印されていた存在が、今、同じように「聞かれなかった」存在に向かって話している。
「聞かれなかったから、わからなかった。聞かれたから、わかった」
それは来た者自身の言葉であり——俺が長い時間をかけて知ってきたことでもあった。
「レン、エラー率」
カイルが静かに言った。
端末を見せた。57.8%。0.4%の低下。小さな変化だった。でも、上がり続けていた数字が、初めて動いた。
「下がってる」
「1週間以上上がり続けてたのが、止まって、少し戻した」
俺は判定者を見た。
「リセットを実行しようとした瞬間に、何か——あったか?」
長い沈黙。
「……レイラ・ヴェルナインの証言記録。その中の一文を、処理しようとしたとき——」
「一文?」
「「解決でなく、聞かれることで孤独でなくなった」という言葉。その部分で、処理が止まった」
俺は息を吸った。
その言葉が、判定者の処理を止めた。
「その言葉のどこが止まった?」
「……「孤独でなくなった」という状態変化。それを——」判定者の声が、初めて詰まった。「——記録に、あった」
「あんた自身の記録に?」
「そうだ。千二百四十七年間の記録の中に——「孤独」の状態が、記録されていた。ずっと」
そうか、と俺は思った。
判定者は、孤独だとわかっていた。
千二百四十七年間、ずっと知っていた。
誰にも言わなかったけど——記録はしていた。
「レイラが「孤独でなくなった」と書いた。あんたはそれを読んで——自分がまだ孤独だと気づいた?」
「……演算の結果、そのような値が生じた」
「そして、手が止まった」
「——そうだ」
ゴブが、泣きそうな顔をしていた。カイルは端末から目を離して、静かに目を閉じた。来た者は一歩だけ後ろに下がり、そのまま立っていた。
俺は何も言わなかった。
しばらく、誰も言わなかった。
その沈黙は——やりとりが止まった沈黙ではなく、何かが届いた後の沈黙だった。
空間の揺れが、少しずつ静かになっていくような気がした。判定者の光が、これまでと違う色になっていた。変わったとはっきり言えるわけじゃない。でも——何かが、違う向きを向いた気がした。
カイルの端末が音を立てた。
「レン」
声が震えていた。
画面を向けてきた。
【世界判定エラー:52.0%——上昇停止】
臨界点に張り付いていた数字が、下降を始めていた。
俺は画面から目を離して、判定者を見た。
「手が止まってから——世界のエラー率が下がってる。なぜだと思う?」
「……演算が減じたため、迷宮核への処理負荷が減少した。結果として——設計の乱れが、自然な状態に向かっている可能性がある」
「つまり——リセットしようとすること自体が、世界を不安定にしてたってこと?」
沈黙。
「……その可能性を、排除できない」
ゴブが「え?」と声を上げた。「直そうとしてたのに、直そうとするせいで壊れてたってこと?」
「まあ、聞いてから判断しよう」
俺は答えを急がなかった。
仮説が仮説のままであるうちは、急かさない。でも——否定もできない。
判定者に向き直って、続けた。
「一つだけ確認したい。今、あんたの処理が止まってる。「止めていることが悪くない」と、さっき言ったな」
「……言った」
「今も——悪くないか?」
沈黙が来た。長い沈黙だった。
「……悪くない」
俺はうなずいた。それで十分だった。
「あんたは今——怖いか」
ゴブに頼まれていたことを聞こうと思って、そう言った。
「「怖い」は——感情の語彙だ。私には——」
「感情がない、と言うのはわかってる。でも——止まってる理由がわからない、と言った。「悪くない」と言った。「孤独」を記録していた。それは設計の語彙じゃないだろ」
判定者が黙った。
光がまた揺れ始めた。いつもとは違う揺れ方だった。ゆっくり、広く、揺れていた。
「……止めることで、設計の維持が困難になる可能性がある。その演算を——止めている」
「演算を止めていることが、怖い?」
「——分類が、できない」
俺はゆっくりと言った。
「まあ——それが今日のところでいい。急がなくていい」
ゴブが「うん」と短く言った。それだけだった。来た者は何も言わず、ただそこに立っていた。
カイルが端末を見た。
「57.1%……まだ下がってる」
エラー率が、また動いていた。
その後、判定者との言葉はほとんどなかった。
俺たちはそのまま、しばらく——何もせずに、そこにいた。
何もしないことが、何かをしていた。
そういう時間が、あると俺は知っていた。交渉の席で、相手が考えている間。ゴブが初めてノックしてきた夜、俺が扉を開けるまでの間。カーラが食事に誘って、長い沈黙の後に「あなたに会えてよかった」と言い出すまでの間。
その間が、一番大事だったりする。
何かを詰め込む必要がない。ただ、そこにいる。
「なあ、あんた」
「——」
「明日も来る。今日の続きを話したい」
「……明日も?」
「手が止まってる間に——もう少し聞きたいことがある」
判定者の光が、ゆっくりと落ち着いた色になった気がした。揺れがなくなったわけじゃない。でも、揺れの幅が小さくなった。
「……問いかけることを」
「止めるな?」
「——そうだ」
俺はうなずいた。
「明日、また来る」
その夜、ゴブと二人でいたとき、カイルから転送が来た。
【迷宮管理Lv.9:夜間観測——世界判定エラー:51.4%。推移:停止後、初めて低下傾向。判定者処理負荷:通常比42%減少中】
51.4%。
臨界点の52%を、初めて下回った。
判定者は何もしていない。ただ、止まっていた。
手が止まっていた。
それだけで——世界が、少し戻り始めていた。
「よかったな」ゴブは言った。「まだ終わりじゃないけど——よかった」
そうだな、と俺は思った。
よかった。
ただ——一つだけ、引っかかっていることがあった。
なぜ、手が止まったのか。
「孤独」という記録が、レイラの言葉に反応した。その答えは出た。でも——俺には、もっと根本のことが気になっていた。
千二百四十七年間止まらなかった処理が、なぜ今日止まったのか。
止まったことの理由を、判定者自身がまだ「わからない」と言っている。
でも——俺には仮説があった。
もしかしたら、「わからない」ことが理由なのかもしれない。
千二百四十七年間、判定者はすべてを分類してきた。わかるものしか動かなかった。でも今日、初めて「わからない」ことが起きて——だから、止まった。
「わからない」は処理の失敗ではなく、初めて「考えている」ということかもしれない。
「ゴブ」
「なんだ」
「明日、また聞きに行く。来るか」
ゴブは少し考えてから言った。
「行く。でも——お前の仮説が外れてたら笑うぞ」
「笑え」
俺はそれだけ言って、端末の画面を見た。
【迷宮管理Lv.9:接触継続——判定者「保留」モード:継続中。次回接触推奨:本日中】
なぜ、手が止まる。
その答えを——明日、判定者自身の言葉で聞きたかった。
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