第290話「レイラの記録」
「聞いてから——」
判定者の声が、そこで途切れた。
格子の光が揺れていた。処理しようとして、止まる。その繰り返しがもう数分続いていた。俺は動かなかった。カイルも、ゴブも、来た者も、誰も口を開かなかった。
静かな空間の中で、俺は足の裏に意識を向けた。
床——床と呼べるかどうかも分からない、この空間の底面——が微かに振動している。判定者の格子が揺れるたびに、その振動が足から伝わってくる。感覚として捉えていないと、自分がどこに立っているのか分からなくなりそうだった。迷宮の最深部にいる、ということを、体に覚えさせておかないといけない。
「……カイル」
俺は静かに呼んだ。
「何だ」
「地上の状況は」
カイルが通信具を確認した。少し間があってから答える。
「エラー率は56%で止まってる。上昇は一時停止した。でも下がってもいない。バルタの暴動が続いてるが——規模は縮小傾向らしい。理由は不明だ」
「ガレスの言葉が、何かに影響しているのかもしれない」
「……そういうものか」
「分からない。でも、止まってるなら、もう少し待てる」
俺は喉の渇きを感じた。この空間に入ってからどれだけ時間が経っているのか見当もつかないが、水も食料も口にしていなかった。それでも、今は動かなかった。動けなかったわけじゃない。動くべきじゃないと判断していた。
ガレスの手紙が判定者に届いた。「俺は魔物を憎んでいた。だが聞いたら変わった。お前も、聞いてみたらどうだ」——その言葉が、設計の前提を揺るがした。「全人間はランクで動く」という千二百四十七年間の原則を、ガレスは三年間一度も参照していなかった。その事実に処理が止まり、判定者が「かもしれない」という言葉を初めて使った。
「かもしれない」。
それが、まだ耳の奥に残っていた。
通信具が鳴ったのは、それからすぐだった。
カイルが確認して、少し間を置いた。
「……レイラから、だ」
俺はカイルの顔を見た。カイルも俺を見た。
「内容は」
「記録を送りたいと言っている。判定者に向けた記録。こちら経由で通してほしい、と」
俺は少し考えた。
レイラ。
査問会の場で慟哭し、自分の工作の全記録を自ら公開して扇動を止めた女。「許してはいない。憎むのをやめただけ。停戦です」と言い残した女。
その彼女が、今、判定者に向けて何かを送ろうとしている。
「彼女に一つだけ確認してくれ」
「何を」
「本当に手放す覚悟があるかどうか。送ったものは取り戻せない。それでいいか、と」
カイルが少し間を置いて、通信具に向かった。短いやり取りがあった。向こうの声は聞こえなかった。
しばらくしてカイルが顔を上げた。
「——「手放したくないから書いた。でも手放せるのもそのためだ」と言っている」
俺は息を吐いた。
「通してくれ」
【世界判定エラー:56%】
記録は、声として届いた。
俺は最初、それを意外に思った。文字として処理されるでも、光の形で可視化されるでもなく、レイラの声のまま、この空間に流れ込んできた。判定者が音声として出力したのか、あるいは記録そのものが声の形をしていたのか——判断がつかなかった。
ただ確かなのは、それがデータではなかった、ということだ。
「——これは、レイラ・ヴェルナインの個人記録です」
声が始まった。
「記録の受取先: 《判定者》。目的: 証言。データではなく、痛みの開示」
格子がわずかに揺れた。「データではなく」という言葉で、判定者が処理しようとした気配があった。だが、それは続かなかった。声が先に進んだからだ。
「私の夫はアルグレン戦役三年目に死にました。三十一歳でした」
短い間があった。
「名前はオズ・ヴェルナインといいます。娘は八歳でした。名前はエラといいます」
ゴブが俺の隣で、静かに息を吸った。
「この戦役は、《判定者》の管轄する迷宮から溢れ出た魔物が引き金でした。あなたの設計の中では、それは「迷宮管理の通常動作範囲内の溢出」として記録されているはずです。「運用上の損失」と分類されているかもしれない」
判定者が何かを言いかけた。格子が動いた。でも声にはならなかった。
「でも私にとって、それはオズとエラでした」
格子の光が、沈んだ。
消えそうなほど薄くなった。それでも消えなかった。
俺はその変化を見ていた。何も言わなかった。今ここで俺が口を挟む必要はない。
「あなたの秩序は、彼らを守りませんでした」
格子が揺れた。長い揺れだった。処理しようとしている——でも、収まる分類コードがどこにもないのが分かった。
「私は長い間、あの戦役を"意味のあるものにしたかった"。だから和解に反対しました。あの戦争が無駄だったと認めることが、オズとエラの死を無駄にすることだと思っていたから」
ゴブが俺の袖を、そっと引いた。顔を向けると、ゴブの目が赤くなっていた。俺は首を横に振った。今は静かにいよう、という意味で。ゴブは頷いて、袖を離した。
「でも——」
レイラの声が、少し変わった。
低くなった。記録として書き起こされたはずなのに、声の揺れが感じられた。それが俺には、レイラがどんな顔でこれを書いたか、想像させた。机の前か、灯りの前か。オズとエラの名前を書くとき、どんな顔をしていたか。
「レン・アシダが私の話を聞いた夜、私は初めて気づきました。私はずっと、誰かに話を聞いてほしかったのです。オズの名前を呼んでほしかった。エラの名前を覚えてほしかった。でも誰も聞かなかった。誰も聞こうとしなかった。だから私は怒り続けた」
「——処理——怒りの——」
判定者がかすかに声を漏らした。
来た者が静かに口を開いた。
「それは怒りの分析じゃない」
来た者の光が揺れていた。
「彼女は怒った理由を説明しているんじゃない。孤独だったと言っている」
判定者の格子が、来た者の声に反応して静止した。
レイラの声は続いていた。
「私が彼の話を——オズとエラの話を——誰かに初めてきちんと聞いてもらったとき、私は泣きました。ずっと呑み込み続けてきたものが溢れました。それは解決ではありませんでした。オズは帰ってこない。エラも帰ってこない。でも、私は一人じゃなくなりました」
「——解決していない。最適——」
「判定者」
俺は声を出した。
格子が止まった。
「解決じゃなくていい、と彼女は言っている。聞かれることで変わるものがある。分類しなくていい。ただ、受け取ってくれ」
沈黙。
格子の光が揺れていた。「受け取る」という概念を処理しようとして、止まっている様子だった。俺は急かさなかった。
レイラの声が続いた。
「私はあなたに怒っています。今も怒っています。でもその怒りを持ったまま、あなたに何かを伝えなければいけないと思いました」
カイルが小さく息を吐くのが聞こえた。
「あなたは千年以上、世界を分けてきた。私はその設計の中で、夫と娘を失いました。あなたの設計では、それは「許容範囲の損失」だったかもしれない。でも私は許せない。そして多分——許せなくていいと、レン・アシダは言った」
「——許せなくても——」
判定者が処理しようとした。でも言葉が続かなかった。
「彼は私に「あなたの怒りは正しい」とは言いませんでした。「間違っている」とも言いませんでした。ただ聞きました。それだけです。でも、それだけで、私は壊れなくて済みました」
来た者が、格子のすぐそばまで近づいた。
「——私も、三百年前——封印されたとき、誰にも理由を聞かれなかった。封印する側も、される側も、理由を言わなかった。言葉がなかった。だから三百年、それが正しいことなのか間違いなのか、分からないままだった」
格子が揺れた。
「でも、レンが聞いた。あの門の前で。「まあ、聞いてから判断しよう」と言って、聞いた。それだけで、俺たちは変わった」
「——変わった——分類値が——」
「ない」
俺は言った。
「変わった事実はある。分類できなくていい。それは起きた」
判定者は黙った。
レイラの声が、最後に差し掛かっていた。俺は、声の息継ぎの変化で分かった。
「私はあなたを許すとは言えない。今も言えない」
格子が、微かに収縮した。
「でも——」
来た者の光が止まった。ゴブが息を詰めた。カイルが通信具を握り直した。
「あなたも、独りだったんでしょう」
その言葉が届いた瞬間、格子の光が不規則に揺れた。
「千年間。誰にも聞かれず。誰にも答えず。ただ分類し続けた。正しいかどうかも聞いてもらえず。感謝されたこともなかった。私と同じでした——誰にも話を聞いてもらえないまま、ずっと怒りを呑み込んできた私と」
格子が揺れ続けていた。
今まで見たことのない揺れ方だった。規則性がなかった。
「私はあなたに伝えたかった。あなたが独りだったということを——知りたかった、と」
そこで、レイラの記録が終わった。
空間が静かになった。
誰も動かなかった。
カイルが息を吐く音だけが聞こえた。ゴブは目を細めていた。来た者の光は、格子のすぐそばで静止していた。俺は格子を見上げていた。
格子が揺れていた。乱れていた。処理しているのか、処理できていないのか、今の俺には判断がつかなかった。ただ、今まで見たことのない揺れ方だということだけは分かった。
「……レイラ・ヴェルナインの——記録を」
判定者が、ゆっくりと言った。
「分類、できない」
「そうか」
「怒りを持ったまま、記録を送った。解決を求めず、届けることを選んだ。その行動の——分類コードが、存在しない」
「存在しなくていい」
「……存在しなくても——いい?」
「ああ。分類できないものは、分類しなくていい。ただ——受け取ればいい」
格子が、止まった。
長い沈黙だった。
足の裏の振動が、また変わっていた。乱れていた何かが、ゆっくりと落ち着こうとしているような感触だった。
「——独り——だった」
判定者の声が、かすかに言った。
問い返しているのか、認めているのか、俺には分からなかった。でも、判定者はそれを声に出した。
「一千二百四十七年間——分類し続けた。感謝された記録は——ゼロ件、だった」
「ああ」
「それは——」
「辛かったんだろう」
判定者は黙った。
格子の光が揺れ続けていた。乱れていた光が、少しずつ、周期を取り戻し始めているように見えた。
【世界判定エラー:56%——停止】
カイルがそれを確認して、俺に目で伝えた。上昇が止まっていた。下がってもいない。でも——止まっていた。
「辛い——という値が——記録に——」
「ある」
俺は言った。
「さっきの記録が届いたとき、格子の光が沈んだ。あれは何だったか分かるか」
判定者は答えなかった。
答えられないのか、答えたくないのか、分からなかった。ただ格子は揺れていた。静かに、しかし確かに揺れていた。
俺はそれを見ながら、待った。急かすことに意味はない。
「まあ、聞いてから判断しよう」
小さく呟いた。
自分への言葉として。次の一手への準備として。
格子の光が、またわずかに揺れた。
レイラの最後の言葉だけが、まだこの空間のどこかに漂っているような気がした。
——「あなたも……独りなんでしょう」
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