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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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第289話「届くはずのない声」

格子の光が、少し緩んでいた。


俺はそれに、最初に気づいた。


判定者の空間で——青白い格子に囲まれたこの場所で——ほんのわずかだが、圧力が変わっていた。圧力という言葉が正しいかどうかも分からない。目には見えない。息苦しくなるわけでもない。ただ、皮膚の外側が、少し違う。


「できなかった」


さっき、判定者がそう言った。


千二百四十七年間、ただ分類し続けてきた存在が、「できなかった」という言葉を使った。俺を「エラー特殊値」と定義したまま処理を続けようとして、来た者の記録に突き当たり、自分が117件の「削除できなかった記録」を持つと認め、そして——「できなかった」と。


設計の言語を持つ存在が、設計の外側に触れた瞬間だった。


今は、沈黙していた。


「除去」も「分類」も「処理」も、何も言ってこない。格子の光は脈打ち続けているが、攻撃的な揺れではない。何かを処理している。あるいは——処理しようとして、できていない。


ゴブが俺の隣で小さく息をついた。


「……静かになったな」


「うん」


「それは、いいことか」


「分からない。でも悪いことじゃないと思う」


来た者は一言も発さず、ただ立っている。三百年前に封印された存在は、沈黙の中でも何かを感じているはずだが、今は顔に出さない。カイルが通信ラインを維持しながら画面を見ていた。


世界判定エラーは、54%。


臨界点をすでに超えていた。リセットの実行は止まっているが、崩壊は続いている。地上で何かが壊れていく音は、ここには届かない。届かないが、数字が全てを語っていた。


「カイル」


俺は声をかけた。


「聞こえてる」


「地上は」


「バルタの暴動は継続中だ。迷宮核が六基、不安定なまま。判定が止まっているから、新しいジョブが誰にも割り当てられていない。産まれた子供にも」


「フォルは」


「接続は維持してる。ただ——消耗している。俺もそろそろ限界が近い」


俺は頷いた。カイルに「もう少し持ってくれ」とは言わなかった。言っても意味のない言葉がある。俺が黙っていれば、カイルは続ける。それだけの人間になっていた。


沈黙が続いた。


俺は急かさなかった。


ゴブが最初に墓場の門をノックしてきた夜も、査問会でオルディーンが長い間を置いた夜も、待つことが唯一できることだった。急かされた人間が本当のことを言ったためしがない。空腹もあった。いつから何も食べていないか分からない。足の裏に疲れが溜まっているのを、今更のように感じた。



 



「レン」


カイルが言った。


いつもより少し低い声だった。何かを受け取ったときの声だと、俺には分かった。


「外から通信が来た」


「誰から」


「ガレスだ」


ゴブが顔を上げた。


「重騎士の、ガレス様か」


「そうだ」


カイルが言った。「深部まで届くとは思っていなかった。念のためフォルに中継を頼んでおいた。繋がった」


念のため。


カイルらしいと思った。昔の彼は「できないことは最初からやらない」人間だった。今は違う。結果が読めなくても、手を打っておく。たぶん、それは俺から学んだことではなく——カイル自身が、聞いて、動いて、身につけたものだ。


「読む」


俺が言うと、カイルが少しだけためらってから、静かに口を開いた。


「そのまま読む」


格子の光が、かすかに揺れた。


「アシダへ。お前が今どこにいるかは知らん。カイルから話を聞いた。世界の底に降りて、何かと話をしているそうだな。お前らしいと思った」


カイルの声が、手紙の言葉を読み上げていく。


「俺はかつて、お前を斬りに行った男だ。それを忘れるな。だが今の俺は、別のことを知っている」


「俺は長い間、魔物を敵だと信じていた。憎んでいた。部下を二十三人、溢出で失った。奪われた分だけ憎んだ。それが正しいことだと思っていた。怒りが彼らの弔いになると思っていた」


カイルが一度、息を止めた。


「だが、お前が俺に聞いた。『怖いですか』と。あの一言だけで、俺は二十三人の部下の顔を——名前ではなく顔を——初めてちゃんと見た気がした」


格子の光が、波のように揺れ始めた。


「憎むのをやめるのが怖かったのだ。憎んでいれば、彼らが死んだことに意味ができた。憎しみが、証明になった。だが聞いてもらったとき、初めて分かった。俺が本当に怖かったのは、彼らの死が無駄だったかもしれない、という事実だった」


ゴブが黙っていた。来た者も動かない。


「聞いたから怖くなった。でも楽になった。お前が今話している相手も——何であれ——もし一度も誰かに聞いてもらったことがないなら、聞いてやれ。千年だろうが二千年だろうが関係ない。聞いてもらえれば、変わる。お前がそれを俺に教えた。——ガレス」


カイルが、読み終わった。


静かだった。



 



格子の光が、大きく揺れた。


今度は「揺れた」という言葉では足りないくらい。青白い光の格子が、まるで湖面に岩が落ちたときのように、波紋を広げながら乱れた。消えるわけでも攻撃するわけでもなく、ただ——揺れていた。


「……この記録。差出人を分類せよ」


判定者の声が来た。


命令の形をしているのに、どこか問いかけのような音をしていた。


カイルが事務的に答えた。「ガレス。元・人類連合討伐隊長。ジョブ:重騎士Aランク。現在:民間人。三年前、レンの処分を求めた側だったが立場を変えた」


「分類:変節。信用値:低」


「違う」


俺は言った。


「ガレスは聞いた。それが全部だ」


「聞く行為は——変節の一種か」


「変節は外から圧力をかけられて立場が変わることだ。ガレスは誰にも強制されていない。俺の話を聞いて、自分で考えて、自分で判断した」


格子が、止まった。


「自分で——判断」


「そうだ」


「設計において——個体が自律的に立場を更新することは——」


「設計の話は一度聞いた」


俺は静かに遮った。


「ガレスの話をしてる。設計がどう見るかじゃなく——ガレスに何が起きたかを、俺は言ってる」


長い間があった。


「走査する」


判定者が言った。格子の光が脈打ちながら、何かを処理し始めた。カイルが俺に目で問いかけた。俺は首を振った。急かさない。


「走査完了」


少し経ってから、判定者が言った。


「ガレス関連記録において——接触以前と以後で、ランクに関する参照頻度が変化している」


来た者が、わずかに首を動かした。


「以前:年間平均六・三回参照。以後——ゼロ」


「ゼロ」


俺は繰り返した。


「三年間、一度もランクを確認していない」


「正確には——記録は存在する。だが参照要求が発生していない。ガレスは自分のジョブやランクを、三年間、一度も参照していない」


ゴブが「そうか」と静かに言った。


俺には、判定者が何を感じているか——「感じる」という言葉が正しいかどうかも含めて——少しだけ分かった気がした。


設計の上では、全ての人間はランクを参照するはずだった。ランクで動く世界で生きる以上、自分のランクを確認しないことはあり得なかった。


三年間、一度も確認しなかった人間が、記録として現れた。


「聞いてから判断した結果が、それだ」


俺は静かに言った。


「ガレスは俺の話を聞いて、自分で判断した。そしたら、ランクより先に見えるものが出てきた。だからランクを見る必要がなくなった」


「先に見えるもの」


「顔だ。手紙に書いてあった。部下の顔を、初めてちゃんと見た気がした、と」


判定者が、詰まった。



 



長い沈黙があった。


格子の光が波紋のように揺れ続けた。カイルが画面を見ながら何も言わない。ゴブが俺の隣で静かに立っている。来た者は、ずっと判定者の光の方を向いていた。


「俺は——顔を見ない」


判定者の声が言った。


「設計において、個体識別は記録番号で行う。顔は——判定に必要のないデータだ」


「そうだな」


俺は肯定した。


「でも、ガレスが変わったのは顔を見たからだ。番号を見たからじゃない」


「顔は——データか」


「データじゃない」


「データでないなら、記録の対象ではない」


「でも一番大事なとき、がある」


判定者が詰まった。


ゴブが、来た者が、カイルが——全員が息を止めていた気がした。


「重要度の根拠は何か」


「根拠はない」


俺は言った。


「でもガレスは、部下の顔を見て初めて、二十三人が本当にいたと実感できた。番号じゃなかったから、ちゃんと悼めた。それが事実だ」


「……」


「あんたに言っても、分からないかもしれない。でも——俺はあんたに聞いてほしかった。ガレスという人間が、どうやって変わったかを」


格子の光が、また揺れた。


今度は、ゆっくりと、何かが混じるような揺れだった。


「レン」カイルの声が低くなった。「エラー率——五十八パーセントだ」


【世界判定エラー:58%】


数字は、まだ上がっていた。地上が壊れ続けている。判定者はリセットを止めているが、止まりきってもいない。崩壊が静かに進んでいた。


ゴブが俺を見た。


「レン……大丈夫か」


「分からない」


正直に言った。


「でも——届いた」


「なにが」


「ガレスの声が。届くはずのなかった場所まで」


ゴブが眉を寄せた。「それが、何になるんだ」


「まあ」


俺は少しだけ、息を整えた。


「聞いてから判断しよう」


ゴブが小さく笑った。「……また、それか」


「また、それだ」


判定者の声が来た——いつもの「処理」の声ではなく、命令でも分類でも除去準備でもない、何か別の、まだ名前のついていない何かが混じった声が。


「……ガレスは」


「うん」


「聞いた後——何を言ったか」


「楽になった、と言った」


「楽に——なった」


「そうだ」


「楽になった……それは——どういう状態か」


俺は少し考えた。


「重かったものが軽くなることだ」


「軽くなることは——機能の低下か」


「違う。機能は変わらない。ただ、一人で持っていたものを——誰かと分けられるようになる。それを、楽になると言う」


格子が、止まった。


完全に止まった。


脈打ちも揺れも消えて、ただ青白い光が静止した。


「一人で——持っていたものを——分ける」


判定者が、ゆっくりと繰り返した。


「千二百四十七年間」


「うん」


判定者の声が、そこで止まった。


また来るかと思ったが、来なかった。今日一番の沈黙だった。「処理中」の沈黙ではなかった。「感じている」かどうかも分からないけれど——何かが、この空間で動いた気がした。


カイルが画面に目を落とした。


「……エラー率」


「上がったか」


「止まってる。五十八パーセントで——止まってる」


俺は判定者の光を見た。


来た者が、初めて声を出した。


「三百年前——私も、ここと同じ空間にいた。問う者がいなかった。だから答えなかった。答えなかったから、封印された。もし——あのとき誰かが」


来た者が、判定者の光に向けて言った。


「届くはずのない声が届いたとき、あなたは——どう思いましたか」


【世界判定エラー:58%——上昇が、止まった】


格子の光が、大きく揺れた。

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