第288話「効かない分類」
青白い光の中で、ゼロという数字が浮いていた。
正確には声だ。言葉だ。でも俺の頭の中で、それはやはり数字の形をしていた。
千二百四十七年。判定者が稼動し続けた時間のすべてを走査した結果——判定者そのものへの感謝の記録は、一件も存在しない。
沈黙が続いていた。
青白い格子の光がわずかに揺れていた。俺は何も言わなかった。急かす必要はなかった。この沈黙の中に、次の何かが育っている気がした。
ゴブが俺の隣で呼吸を整えている気配がした。緊張しているのだろう。ゴブはこういう空間が苦手だ。床がない、と言っていた。実際、ここには地面がない。浮いているのか立っているのかわからない感覚の中で、それでもゴブはここにいる。
カイルは後ろで静止していた。余計なことを言わないときのカイルを、俺は信頼している。
来た者は、光の外縁に近い場所で、波紋のように広がる格子を見ていた。
「……感謝、という値は」
判定者の声が、沈黙を割った。
音量は同じだ。でも質が違う。密度、とでも言えばいいか。言葉と言葉の間隔が、さっきまでより遅い。
「設計の目的に含まれていない。記録の必要がない。ゆえに」
「ゆえに、何ですか」
「……影響しない」
「本当に影響しないなら」と俺は言った。「今の間は何だったんですか」
格子の光が、大きく揺れた。
答えが来るまでに、また少し時間がかかった。
「……影響しない、ということにしたいのかもしれない。設計の言葉でそう処理しようとしたが」
「できなかった」
「……そうだ」
それが、判定者が初めて「できなかった」と言った瞬間だった。
俺はその言葉を、静かに受け取った。急いで次に行かなかった。一つ一つを、丁寧に。
ゴブがぼそりと言った。「……レン。あれは、もしかして——」
「もしかしてじゃないかもしれない。でも急ぐな」
「急いでないけど、足が——この空間、本当に足の感覚がおかしい」
「俺も変な感じがする。でも、立ってる」
「立ってるのか?」
「たぶん」
「……たぶん、って」
カイルが後ろから「今は集中させてやれ」と言った。ゴブが「わかってる」と返した。二人のやりとりを聞きながら、俺は格子の揺れ方を観察し続けた。
揺れている。「できなかった」という言葉の後から、揺れ方が変わっている。さっきまでは整然とした周期があった。今は、それが乱れている。
「……除去対象の位置特定を、完了した」
判定者の声が変わった。
さっきの揺れを引き戻すように。設計の速度に戻ろうとするように。感情があるかどうかはわからないが、何かを押し込める動作のように俺には見えた。
「ジョブ:門番。ランク外。エラー。——除去を、再開する」
空間が動いた。
格子が収縮を始めた。壁が近づいてくるのとは違う。外から押してくるのではなく、中から引いてくる感覚。四方八方から、俺たちを中心へと静かに引き絞っていく。精密な動作だった。迷宮深部で感じた核の乱暴な圧力とは違う。これは、設計された動きだ。
カイルが「囲まれてる」と低く言った。
「わかってる」
「逃げるか」
「どこへ」
「……そこか。そうか。ここは全部、あいつの管轄内だな」
「逃げたら話が切れる。それが一番まずい」
ゴブが俺の腕を掴んだ。「でも、レン——」
「大丈夫だ」
「何が大丈夫なのか、説明してくれ。頼む。聞いたら少し落ち着ける気がする」
「まあ」と俺は言った。「聞いてから判断しよう」
ゴブが「……今ここで言うか、その口癖」と呟いた。でも、手を放さなかった。文句を言いながら離れないゴブを、俺はずっと知っている。
来た者が静かに言った。「ゴブ。レンは、逃げない。これはそういう交渉だ」
「どうしてわかる」
「私も、この空間に来た経験がある。三百年前。あのときは、誰も問いを待たなかった」
来た者の声に感情があるかどうかはわからない。でも重さがあった。ゴブが腕を放した。
俺は判定者に向けて声を出した。「待ってください」
格子の収縮が、止まった。
「除去の前に、一つだけ聞かせてください」
「……設計に、不要な情報だ」
「聞いてみてから、不要かどうか判断してください」
間があった。
「……問え」
「あなたは今、俺を何に分類しましたか」
格子が揺れた。
「エラー。除去対象。設計外の値」
「その前に試した分類も、聞かせてもらえますか」
「……」
「さっきから何度か、判定を試みて止まっていましたよね。俺には見えていました」
「見えていた、という値は——設計外だ」
「そうかもしれません。でも俺には見えていました。止まるたびに、格子の揺れ方が変わりました」
長い間があった。
「……分類を、再試行する」
「どうぞ」
「脅威——」
「俺は何も壊していません」
格子が揺れた。
「……エラー——」
「さっき言いました」
「人間の、代表者——」
「俺は旅人です。誰も代表していない」
「……交渉者——」
「話を聞きに来ました。交渉とは少し違います」
「……境界者——」
「境界者、というのは?」
格子が止まった。
「……人と魔物の、境界に立つ者。しかし設計において」
「設計において、境界は維持するものであって、立つものではない」
「……そうだ」
「でも俺は、境界に立ってきました。第七迷宮の門の前に。人と魔物の間に。人と人の間にも。ずっとそこにいた」
「それは——」
「そういうジョブでしたから」
沈黙。
「……調停者——これは設計にない概念だ」
「ゴブ、俺は調停者か」
ゴブが「……知らん。俺がそう呼んだだけだ」と答えた。
「調停者というのは、ゴブが俺に使った言葉だそうです。あなたの設計には入っていなかった。でも現実には存在した」
格子の揺れが、大きくなった。
カイルが低く「……お前、何をやっているんだ」と言った。
「分類させてない」
「わかった。意味があるのか、それ」
「わからない。でも続けてみないとわからない」
カイルがため息をついた。怒ったわけじゃない。信じているため息だ。
俺は判定者に向けて言った。「まだありますか」
「……エラーの特殊値——通常の分類に収まらないが、除去処置が成立しない個体。ただしこの場合も——」
「除去が成立しない」
「……成立しない」
「それも、分類ですよね」
「……そうだ」
「では、その分類も違います。俺は「除去が成立しない個体」として存在しているわけじゃない。ただ、ここに来ました。それだけです」
格子が、また大きく揺れた。
来た者が、口を開いた。
「私も……かつて、分類できない、と言われた。封印という処置で、収められた。でもそれは収まったのではなかった。三百年、ずっとそこにいた」
判定者は来た者には答えなかった。
でも格子の光が一条、来た者に向かって走った。来た者を——測ろうとするように。
「封印は、設計の補助処置だ」
「補助、と呼ぶのか」
来た者の声は静かだった。けれど俺がこれまで聞いてきた中で、最も静かな反論だった。
「私たちは、三百年間そこにいた。補助と呼んでいい時間だったと思うか」
判定者の格子が、大きく揺れた。
来た者が初めて、設計に反論した。ずっと距離を置いていた来た者が、一歩踏み出した。
俺は足の裏の感触を確かめた。
この空間には床がない。でも何かの上に乗っている感覚がある。喉が乾いている。水が欲しい。ここには水も食事もないが、腹は減っていない。地上の時間の流れと、ずれているかもしれない。
でも、いる。
確かに、俺はここにいる。
カイルがスキルを転送してきた。
【世界判定エラー:54%】
「カイル、地上の状況は」
「バルタで三か所目の暴動が起きた。迷宮核は——七基に増えた。さっきより一基増えてる」
「時間は」
「ある、とは言えない」
カイルの声が固かった。責めているわけじゃない。現実を伝えている声だ。
ゴブが「……さっさと片付けてくれ。頼む」と言った。「俺はここが本当に苦手だ。帰ったら水が飲みたい」
「俺も飲みたい」
「そういうことは帰ってから言え」
「帰ったら言う機会を忘れそうだから今言ってる」
ゴブが「……変なやつだ」と言った。声が少し柔らかくなった。
俺は判定者に向き直った。「続けてもいいですか」
「……何を」
「分類の話を」
格子が収縮しかけて、止まった。
「……除去処置は、進行中だ」
「わかりました。進めながら、話しましょう」
「同時には——できない」
「なぜですか」
「処理が、競合する」
俺はその言葉を、静かに受け取った。
「除去の処理と、話を聞く処理が」
「……そうだ」
「どちらかを選ぶ必要がある」
「……そうだ」
「どちらを選びますか」
格子が揺れた。長かった。
「……」
「急ぎません」と俺は言った。「時間はかかってもいいです」
カイルが「時間はかかってもいいって——」と言いかけた。
「わかってる」と俺は言った。「でも今、急かしたら終わる」
カイルが一瞬黙った。
「……わかった。任せる」
「ありがとう」
「礼を言う場面かどうか微妙だが」
「言いたかったから言った」
ゴブが「俺も信じてる」と言った。来た者は何も言わなかったが、その沈黙が同じ意味に聞こえた。
判定者は、まだ揺れていた。
「……お前は」
声が来た。
「なぜ、逃げない」
「逃げたら」と俺は言った。「あなたと話せなくなります」
「話す必要が——ない。お前は除去対象だ」
「俺にとっては、あります」
「……なぜ」
「あなたが千年間、誰にも聞かれてこなかったから。それだけです」
沈黙が来た。
この沈黙の質を、俺はもう何度か知っている。レイラが単身で査問会に現れた夜の前の、重い間。セルウィンが「まあ、聞いて——」と言いかけて止まったあの瞬間の前の、息を詰めたような空気。オルディーン議長が全市民の前で立ち上がる直前の、議事堂が凍りついたような静寂。
何かが変わろうとしている。その直前は、いつも同じ質の沈黙が来る。
俺は急かさなかった。
ゴブも、カイルも、来た者も、誰も何も言わなかった。
「……分類を」
判定者が言った。
「最終試行を、行う。お前を——どこかに、収める必要がある」
「どうぞ」
「脅威——でない。エラー——処置が成立しない。人間——設計の範囲を超えている。交渉者——目的が設計に収まらない。調停者——設計に存在しない。境界者——設計に存在しない。エラーの特殊値——処理を完結できない」
一つずつ、ゆっくりと列挙した。
声が遅い。考えながら話すときの遅さだ。千二百四十七年の設計の中にない何かを、ようやく探そうとしている遅さだ。
「ジョブ:門番。ランク外。レン・アシダ——この個体は」
格子が大きく揺れた。光が、俺の輪郭を何度もなぞるように動いた。測ろうとして、測れない。収めようとして、収められない。
「——どこにも」
間があった。
俺は待った。
足の裏の感触。喉の乾き。隣にいるゴブの気配。少し後ろにいるカイルの息の音。来た者の、光に溶けそうで溶けない輪郭。
全部、ある。
俺は、確かにここにいる。
「——どこにも……収められない」
判定者の声が、青白い空間の隅々まで滲んだ。
怒りでもなく、困惑でもなく——なんと呼べばいいかわからないが、俺にはそれが、判定者が初めて口にした、設計の言葉ではない何かに聞こえた。
「お前を、どこにも……収められない」
光の格子が、静止した。
除去の処置が、競合したまま、動かなくなった。
カイルがスキルを転送してきた。
【世界判定エラー:54%——変化なし】
上がっていない。
下がってもいない。
でも、止まっている。
来た者が低い声で言った。「三百年前も……一瞬だけ、世界が静止したことがある。あの沈黙と、似ている」
「そのとき、どうなりましたか」
「封印された。誰も、問いを待たなかった」
俺は判定者に向けて言った。
「今度は、待ちます」
格子が、小さく震えた。
「……お前を、どこにも……収められない」
同じ言葉が、もう一度来た。
でも今度は、ただの繰り返しではないように聞こえた。それは——問いかけだった。どこに収めるべきか、という問いではない。収められないという事実が、何を意味するのか、という問いかけ。
「そうですね」と俺は言った。「俺はたぶん、あなたの設計の中には収まらない。でも——だから、話せることがあると思います」
格子が、また揺れた。
「——続きを」
判定者が、反響するように言った。
千二百四十七年で初めて「続き」を求められた、その言葉の重みが、格子の光の揺れ方に滲んでいた。
次の言葉が来ようとしていた。
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