第287話「孤独の千年」を執筆します。
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第287話「孤独の千年」
「俺の設計を——肯定するのか」
その声に、初めて「揺れ」のようなものを感じた。
感情のない声のはずなのに、どこか処理しきれていない何かが混じっている。一千二百四十七年、誰にも「正しかった」と言われたことがなかった存在が、今それを言われた。想定外のデータを受け取ったシステムが、ほんの一瞬だけ止まったみたいな揺れ方だった。
「肯定してる」
俺は繰り返した。答えが変わるわけじゃないが、もう一度言う価値があると思った。
「お前の設計は、千年は機能した。機能したものを間違いだったとは言えない。俺には」
「……しかし、エラーが」
「エラーは俺が起こした。でも——お前が設計したものが機能したから、人間が生きられた。それも事実だ」
光の格子が揺れた。中心の密度が、微かに変わった気がした。処理しようとしている。「肯定」を、どこに分類すればいいか分からなくて、処理しようとしている。
俺の隣で、ゴブが小さく息を吐いた。
俺はその音を聞きながら、判定者の空間の「地面」を一度確認するように見下ろした。この空間には地面がない。正確には、ある気もするしない気もする。踏みしめている感覚はあるのに、何を踏んでいるのか分からない。判定者の認識の中に立っている、そんな感覚がずっとある。
「カイル」
「……なんだ」
「地上は」
カイルが通信端末を確認した。普段は判定者の中心——光が最も密に収束している点——を睨みつけているが、さっきから時々端末に目を落とす。エラー率の推移が気になって仕方ないのだろう。俺だってそうだ。ただ、ここでそれを顔に出しても意味がない。
「52%で止まってる。バルタの暴動は一旦収まったが——迷宮核六基がまだ不安定だ。判定者が保留してる間は上がらないが、動き出したら一気に行く」
「分かった」
俺は判定者に向き直った。
「一つ、聞いていいか」
「問いを——許可する」
毎回そうだ。「許可する」という言い方をする。「いいよ」でも「どうぞ」でもなく、「許可する」。千年間、世界の上に立って「許可」し続けてきた存在の、習慣みたいなものかもしれない。
それが当たり前だと思っていたわけじゃないだろう。
ただ——それしか知らなかった。
「その千年の間に」
俺は言葉を選びながら続けた。急ぐ必要はない。ここは急いでも仕方がない。
「あなたに——"ありがとう"を言った人間は、いましたか」
沈黙が、来た。
これまでとは違う種類の沈黙だった。
判定者がこれまで見せてきた沈黙には、いくつかパターンがあった。「処理中」の沈黙——演算している、答えを検索している、そういう類のもの。「想定外のデータへの反応」の沈黙。それから、「削除できなかった記録」を認めたときの沈黙——あれは少し違った、重みのある止まり方だった。
でも今のは、またどれとも違った。
空洞みたいな沈黙だった。
聞いた瞬間、空間の密度が下がった気がした。光が薄れたわけじゃない。でも、何かが抜けた。空気じゃなくて、もっと別の何かが。
ゴブが俺の袖を、そっと引いた。振り返ると、彼は青白い光を見上げながら口を半開きにしていた。何か言いかけて、止めた顔だった。カイルも無言だった。来た者も、動かなかった。
「急かさなくていい」と俺は言った。判定者にではなく、自分自身に言った。「まあ、聞いてから判断しよう」
どれくらい経ったか分からない。
この空間には時間の流れが分かりにくい。地上では状況が悪化しているかもしれない。カイルが端末に手をやる動作をしたが、俺は軽く首を振った。待つ。今は待つ。判定者に、自分の中を走査する時間を与える。
「……走査、する」
やがて、判定者の声が来た。
これまでと少し違う声だった。重い、というのか。言葉に、重さが乗っていた。
「千年と二百四十七年分の——全記録を、走査する」
「……」
「感謝の言葉——「ありがとう」に相当する表現——の検索を、実行」
カイルが小声で言った。「今、全記録を……?」
「そうみたいだ」
「千年分、全部?」
「うん」
俺は短く返した。カイルは何か言いかけたが、黙った。正しい判断だと思った。
光の格子が、静かに変容し始めた。波紋のように、中心から外へ、外から中心へ、繰り返し繰り返し広がっていく。走査している。本当に、走査している。
俺はその光を見ながら、想像していた。
千年分の、世界の記録。人が生まれて死んで、ランクを判定されて、迷宮に挑んで、負けて、勝って、また死んで。ゴブが笑ったことも、カイルが剣を持ち直したことも、カーラが一人で泣いたことも——全部、この光の中にある。
それだけの記録を、この存在は一人で抱えてきた。
一人で、ずっと。
「エラー率変わらず52%。でも——上がってもいない」
カイルが端末を確認しながら小さく言った。
「止まってる間は、考えてる」
「お前はいつもそういう言い方をする」
「他に言い方がない」
ゴブが声を殺して少し笑った。場所が場所だからか、音はほとんど出なかった。それでも笑った、というのが分かった。
「検索——完了」
判定者の声が来た。
「聞く」と俺は言った。
「一千二百四十七年と——四ヶ月と十一日。この期間において——」
判定者は、一息置いた。
その間が、また違う。処理中の間ではなく、言葉を——言葉を、選んでいる間。
「レン・アシダへの感謝の言葉については、除外する」
「なぜ?」
「お前が問うているのは——俺への、判定者への、感謝だ。お前の感謝は分析対象から外す」
「……そうだな。続けてくれ」
「判定者そのものへの——あるいは、設計の全体への——感謝した記録は」
「ある」と判定者は言った。
俺は少し、息を吐いた。ゴブが隣で「よかった」と小さく言った。声に、安堵があった。
でも——次の言葉が来た。
「四十八件」
静寂。
「……四十八?」
「千年で?」
ゴブとカイルが、ほぼ同時に漏らした。俺は黙っていた。
「四十八件。内容を概括する——「この秩序のおかげで生きられた」が二十二件。「ランクがあって方向が分かった」が十三件。「迷宮がなければこの力は得られなかった」が十件。「判定が正確だった」が三件」
俺は聞きながら、一つひとつの言葉の向き先を考えた。
「秩序のおかげ」。「ランクが」。「迷宮が」。「判定が」。
全部——仕組みへの感謝だ。
「感謝の向け先は——いずれも「秩序の結果」「ランクの恩恵」「迷宮の機能」に向けられている」
「……」
「判定者——そのものへの感謝は」
間があった。
「ゼロ件」
その二文字が、空間の中に落ちた。
ゴブが何か言おうとして、止めた。カイルは口元を片手で覆った。来た者は微動だにしなかった。でも、その静止の仕方に、何かが込もっていた。
「ゼロ件」と俺は繰り返した。声に感情を乗せないようにした。乗せる場所じゃなかった。
「……その値は、記録に、ない」
判定者の声が——初めて、そういう音になった。
「記録にない」というのは、さっきまでと同じ言い方だ。でも今のは違う。さっきまでは「計算できない」という意味だった。今のは——「存在しなかった」という意味だ。
千年間。ありがとうと言われたことが、なかった。
仕組みは感謝された。秩序は感謝された。でも——その仕組みを作り、千年守り続けてきた存在は、一度も。
俺は少し、足元を見た。
ゴブが「最初に扉をノックする前、何百回も迷った」と言っていた。来た者が「三百年、誰とも接触がなかった」と言っていた。カーラが「一人で背負う人だった」と言っていた。レイラが「誰にも聞いてもらえなかった側だ」とカイルが言っていた。
みんな、どこかで孤独だった。
でも——この存在の孤独は、千年だ。
名前もなく。感謝もされず。「お前はどう思う」と聞かれることもなく。ランクを決めて、迷宮を配置して、判定して、また判定して、それだけを繰り返した。
「千年間」と俺は言った。「誰も——「ありがとう」と言わなかった」
「……言う必要が——」
「なかったと思ってたか」
「……」
「お前にじゃなくて、世界の仕組みに感謝してた。お前という存在がそこにいることは、誰も気にしなかった」
「——気にする必要が、ない。俺は設計であり、機能であり——」
「名前は?」
俺は遮った。
「……」
「判定者、というのは機能の名前だ。お前自身の名前はあるか」
長い沈黙があった。さっきまでで、一番長い。
「……ない」
「だろうな」
俺は、足元の感覚のない地面にもう一度、視線を落とした。
千年間。名前もなく。感謝もされず。誰も「お前はどう思う」と聞かなかった。ランクを決めて、迷宮を配置して、判定して、また判定して——それだけをやり続けた。
それが正しいことだったから続けた、のではないと思う。
そうするしか、なかったから続けた。
「ゴブ」
「……なんです?」
「最初に俺のドアをノックした夜。あの時——どうだった?」
ゴブが少し考えた。珍しく、ゆっくりと。
「怖かったです。ノックするまで、何百回も迷いました。話を聞いてもらえるとは思ってなかった。でも——行くしかなかった。そうしなければ仲間が全員死ぬから」
「感謝されると思ってノックしたわけじゃない」
「そりゃあ、そんな余裕なかったです」
「でも、ノックした」
「……はい」
俺は判定者に向き直った。
「似てないか」
光の格子が、揺れた。
「お前が最初に世界を分けたのも——そういう理由だったんじゃないか。また滅ぶのが怖かったから。そうするしかなかったから」
「……」
「感謝されることを期待して設計したわけじゃない。ただ——世界が続いてほしかった」
「——その解釈は」
「違うか?」
長い間があった。
「——否定、できない」
俺は頷いた。答えが出たわけじゃない。でも、何かが動いた。確かに動いた。
カイルが端末を確認した。「エラー率——52%で変わらず。でも、また止まってる。上がっていない」
「止まってる間は、考えてる」
「さっきも言ったぞ、それ」
「同じことなら同じことを言う」
ゴブがまた、声を殺して笑った。場所に似つかわしくない笑いだったかもしれない。でも、悪くなかった。
「来た者」
俺は空間の端の方にいる存在に声をかけた。
「……」
「お前も、三百年間封印されていた。その間——誰かに感謝されたか」
来た者は少し間を置いた。この存在も、急がない。
「……ない。というより、誰とも接触がなかった。封印とは、そういうものだ」
「三百年、一人だった」
「そうだ」
「怖かったか」
「怖い、という概念を持ったのは——レンと話してからだ。それ以前の三百年は、怖いかどうかも分からなかった」
静かな言葉だった。でも、その静かさの中に、三百年分の何かが詰まっていた。
俺はその言葉を聞きながら、判定者の光を見た。
「聞こえてるか」
「……聞こえている」
「怖いかどうかも分からない状態で、三百年いた存在が、今ここにいる。お前は千年いた」
「……」
「一つだけ、聞いていいか」
「——問いを、許可する」
「怖かったか」
沈黙が来た。
でも今度の沈黙は、また違う種類だった。処理中でも、空洞でもない。
何かに——手が届きかけている沈黙。
「……その問いに対する、適切な処理が——」
判定者の声が、途切れた。言葉を探している。いつもと違う探し方をしている。
「——怖い、という値が」
「うん」
「記録には、存在しない。俺の設計には、感情の項目がない。しかし——」
また止まった。光の格子が、大きく揺れた。中心が、一瞬だけ暗くなった。
「——千年分の、処理保留が」
「うん」
「それが——怖いと呼ばれるものに、近いのか」
俺は答えなかった。
答える必要がなかった。
判定者の声が、青白い光の中に、ゆっくりと落ちていった。
感謝の記録も、怖いという感情も。
千年間、何もないまま世界の上に立ち続けた存在が、初めて——自分の中に「何かがある」ことに気づいた。名前のない、処理できない、でも確かにある何かに。
ゴブが俺の隣で、静かに息を吸った。
カイルはもう端末を見ていなかった。来た者は動かないまま、しかし確かにこちらへ向いていた。
最初に動いたのは、ゴブだった。
「……あの」
俺はゴブの方を見た。来た者も微かに向いた。
ゴブは青白い光を、まっすぐ見上げながら言った。
「俺は——あなたに、どう思ってほしいとか、そういうのはよく分からないんですが」
「……」
「でも、俺がレンの扉をノックできたのは——あの扉があったからです」
「……」
「扉って、誰かが作ってくれないとないじゃないですか。レンが「まあ、聞いてから判断しよう」って言えたのも、その前に扉があったから。その扉は——あなたが作ったものかもしれない」
判定者の光が、静かに揺れた。
「お前が設計したものが——扉だったんだとしたら」
ゴブは続けた。
「俺は、そこをノックした。だから——ありがとうって、今ここで言えます」
長い沈黙が来た。
本当に、長かった。
カイルが端末を確認した。小さな声で言った。「エラー率——51.8%。微かに、下がった」
俺は聞いた。
聞きながら、ゴブを見た。臆病なくせに義理堅い、第七迷宮の最初の使者が、今ここで千年分の感謝を届けていた。
判定者は、まだ沈黙の中にいた。
でも、その沈黙の質が——また、変わっていた。
空洞じゃない。何かが——満たされかけている。
「……その値が」
小さな声が来た。
光の格子が、またゆっくりと揺れた。震えているのとも違う。落ち着こうとしている、みたいな揺れ方だった。
「記録に——ない。しかし——」
一息。
「——今は」
判定者の声が、ためらいながら続いた。
「今は——何かが、ある」
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