第286話「論破しない」
「……百十七件。処理を、保留した」
言葉が、空間の底から滲み出てきた。
判定者の声は音というより、青白い格子の光が意味を持ったような感覚だ。俺の耳が拾っているのか、それとも体全体で受け取っているのかよくわからない。
ゴブの問いに、答えが来た。
感情を持っているのか、感情に似た何かの揺れなのか、俺には判断がつかない。ただ声に、何かが滲んでいた。
「それは——よかったのか。よくなかったのか。私には、判定が、できない」
空間が静まりかえった。
ゴブはまだ前を向いたままだった。来た者の重い気配が、俺の少し後ろにある。カイルが手元の光を見つめて、息を整えているのがわかる。
この場所には地面がない。
判定者の空間は重力の概念があいまいで、立っているのか浮いているのかよくわからない。足の裏に土の感触はなく、どこかに引っ張られているような感覚と、何にも触れていないような感覚が同時にある。膝を曲げれば曲がるし、前に踏み出せば進む。でも着地の感覚がない。体の重さが、どこにも預けられない。
それでも体はここにある。
肺が動いている。息を吸い込むと、空気はあった。地上より少し冷たいような、あるいは温度という概念が薄いような、そういう空気だ。
「カイル」
「わかってる。今見てる」
カイルのスキルが手元で光を作り出す。スキル越しの集計が、空中に浮かんだ。
【世界判定エラー:52%】
臨界点に、もう触れていた。
俺のスキルはもうない。迷宮管理の権限はカイルに渡した。だからこの数字はカイルのスキルが拾ったものだ。それを俺が見ている——という構図が、なんとなく今の立場をよく表している気がした。
「上は」
「悪い。バルタで暴動が三ヶ所に広がった。迷宮核が不安定なまま六基。これ以上判定が崩れたら、フォルとの回線が——」
「わかった」
カイルは事実だけを言う人間だ。感情は混ぜない。だからこそ、その言葉の重さがそのまま伝わってくる。声が平静を保とうとしているのがわかった。
「了解」
それだけ言って、俺は前を向いた。
判定者の光は揺れ続けていた。格子状の青白い輝きが、波のように動いて、また戻ってくる。ゴブの問いが何かを揺さぶったのか、百十七件という数字が引っかかっているのか、あるいはまったく別の何かが——俺には判断できない。
「削除できなかった理由を、あなたはまだ出力していない」
来た者が、静かに言った。
三百年前に封印されたその声は、判定者の声とどこか似ていた。感情を排して、ただ事実だけを言う。でも似ているからこそ、微妙な差が際立つ。来た者の声には、「待った」ものの重みがある。三百年、誰かが来るのを待ち続けた者の声だ。
「……理由は、ない。ただ——処理が、止まった」
「止まった理由が、理由だ」
来た者の言葉は短かった。
判定者の格子の光が、大きく揺れた。
来た者は三百年、誰にも聞かれなかった。
判定者は千年、誰にも問われなかった。
似た孤独の裏と表が、今この空間で向き合っている。
俺が次に何をすべきか——それはもう決まっていた。
さかのぼれば、王都に向かう道でも同じことをやってきた。ヴェイン特使に。ガレスに。セルウィンに。レイラに。オルディーンに。論破してきたわけじゃない。ただ聞いて、認めて、それから問いかけた。
でも今度の相手は少し違う。
あの時の相手は、少なくとも話しかけてくれた。「俺の話を聞く気があるか」という最低限の回路を持っていた。
判定者はそれすら持っているかどうか、最初はわからなかった。
でも今、話している。来た者の問いに引っかかって、止まって、揺れている。
ならば、やることは同じだ。
「お前は、俺を除去する対象として分類している」
「そうだ」
「お前の論理は、正しい」
空間が、静止した。
ゴブが俺を見た。素早く、でも声には出さずに。カイルが息を呑む音がした。来た者の気配が、わずかに揺れた。
判定者の光は止まらなかったが、揺れ方が変わった。反発でも肯定でもない、何かを処理しようとして詰まっているような、奇妙な乱れかただった。
「……反論、がない」
「ない。お前は正しい」
「……繰り返している。なぜ、繰り返す」
「お前がまだ信じていないからだ」
俺は続けた。
「千年、この世界を守った。格差のない混沌で一度滅んだ世界を、二度と同じ道を歩ませないために、お前はジョブを作り、ランクを作り、迷宮を設計した。誰にも頼まれず、誰にも感謝されず、一人でずっとそれをやってきた。それは——正しかった」
「……」
「お前の論理は正しい。俺は門番で、ランク外だ。お前の設計において、俺はエラーだ。和解が起きたのは俺が最初の原因だ。エラーを除去しようとするのは、設計の整合性を保つための正当な手続きだ」
判定者の光が、また大きく揺れた。
今度は格子の端まで波紋が走って、空間全体が一度揺れ、また戻ってきた。
「……なぜ」
「なぜ、認めるか?」
「そうだ。なぜ、お前は認める。お前にとって不利な事実を、なぜ口にする」
俺は一呼吸置いた。
「否定することに、意味があるかを考えたからだ」
「意味、とは」
「俺がお前を否定したとして——お前は何かを変えるか」
長い間があった。
「……変えない。論理は変わらない」
「だろうな。俺もそう思った」
「ならば」
「だから否定しない」
「……意味が、不明だ。否定しないことで、お前にどんな利益がある」
「利益を取りに来てるわけじゃないからな」
「では——目的は」
「聞きに来た。お前の話を」
「……私は、お前に話を聞かせる理由がない。お前は除去対象だ」
「それはそうだ」
俺は頷いた。
「でも、聞く準備はある。お前が話したいなら、聞く。話したくないなら、黙っていてもいい。ただ俺はここにいる」
「……それは、有効な交渉手段ではない」
「まあ、聞いてから判断しよう」
俺は言った。
「それだけだ」
沈黙が続いた。
この空間の沈黙は、地上とは違う。音がないのではなく、音が何かに吸い込まれていくような感じがする。俺の声も、ゴブの息遣いも、カイルの指先の動きも、全部がどこかに飲み込まれていく。
カイルがぼそっと言った。
「お前、今、何をやってるんだ」
「話を聞こうとしてる」
「そうじゃなくて」
カイルは少し黙ってから、続けた。
「よかったのか。俺たちをランク外にした設計を「正しかった」と言うのが、お前の中で平気なのかって話だ」
俺は少し考えた。
「平気じゃないな」
「だろうな」
「でも正しくなかったかと言えば、一概にそうも言えない。俺もお前も生きてるのは、あいつが千年世界を保ったからでもある」
カイルは何も言わなかった。
言えないというより、何かを整理しているような間だった。カイルも俺も、ランク外のせいで損をしてきた側の人間だ。カイルは剣士として認められていたが、俺と組むことで向けられた目もあったはずだ。俺はもっと直接的に、ハズレと言われてきた。
その怒りをなかったことにするつもりはない。
でも、怒りを持ったまま否定して、何かが変わるなら否定する。何も変わらないなら、別の方法がいる。
「……お前は」
カイルが言いかけて、止めた。
「なんだ」
「いや。続けろ。俺は集計を見てる」
それだけ言って、カイルはスキルの画面に向き直った。
「教えてほしいことがある」
俺は判定者に向かって言った。
「……何を」
「千年間、ここで何を感じてきたか」
「感情は、設計に含まれない」
「でもお前は、百十七件の記録を削除できなかった。感情が含まれないなら、なぜ削除できなかった」
格子の光が揺れた。
「……処理上の、異常だ」
「異常と感情の、どこが違う」
「……その問いは、定義を先に定めなければ答えられない」
「じゃあ定めよう。お前が感じていることを、ここに出してくれ。出してもらえれば、俺が言葉を当てはめる」
「そのような作業に、意味はない」
「試してからそう言ってくれ」
判定者は黙った。
ゴブが隣でそっと言った。
「俺も最初、レンに話しかけるのが怖かった」
「……怖い、とは」
「拒絶されると思ってた。魔物が話しかけても、まともに聞いてもらえないと。扉を叩いたとき、半分は逃げながらだった」
「……」
「でも聞いてもらえた。それだけで、変わった。何かが」
判定者の光が、ゆっくりと波打った。
「私は——千年間、否定されてきた」
声が、少しだけ変わっていた。
俺は聞いた。何も言わずに、ただ聞いた。
「人間は私の判定を不服に思い、魔物は私の設計を呪い、来た者は私の封印を憎んだ。全ての存在が、私の作ったものに反発してきた。それが、千年間の記録だ」
「そうだろうな」
「だが——」
光が揺れた。
大きく、揺れた。
「だが、誰も——私に「正しかった」とは、言わなかった」
空間が、静止した。
俺は何も言わなかった。
「感謝は、記録にない。理解は、記録にない。千年分の記録を走査しても——承認の記録が、存在しない」
「俺が最初か」
「……判定不能だ」
それが、この存在なりの「そうかもしれない」という言葉だと、俺には聞こえた。
来た者が、低く言った。
「私も、いなかった。あなたに「なぜ封印したか」を問う者が。三百年間、理由を聞かれなかった」
「……記録上、そうだ」
「聞かれなかった。だから答えを持たなかった。答えを考えたことが、なかった」
「……」
「聞かれたのは、この者が来てからだ」
来た者が、俺を示して言った。
「聞かれて、初めて答えを探した。答えを探して、初めて自分がなぜ怒っていたかがわかった。わかって——少し、軽くなった」
判定者の光が、また揺れた。
「……私も」
声が、途切れた。
格子の光が激しく揺れて、また静まった。
「……私も、問われたのは——初めてだ」
「何を、問われたのが」
「なぜ、世界を分けたのかを。なぜ、ランクを作ったのかを。そして——なぜ、削除できなかったのかを」
「初めて聞かれた」
「……そうだ」
「聞かれて、どうだった」
長い間があった。
カイルが息を呑む気配があった。ゴブは動かなかった。来た者も、声を発しなかった。
俺はただ待った。
「……処理が、止まる。繰り返し、止まる」
「それが、答えだ」
「どういう意味だ」
「処理が止まるのは、何かが引っかかっているからだ。引っかかるものがなければ、止まらない。千年間、止まらなかったなら——千年間、引っかかるものがなかった。今、止まっているなら——今、何かが引っかかっている」
「……」
「そのことを、お前はどう思う」
判定者は、長い沈黙に入った。
その沈黙は、処理が止まっている沈黙だった。
乱れた光が、少しずつ落ち着いていく。でも完全には静まらない。何かが、まだ揺れ続けている。
ゴブが小さく息を吐いた。
「俺も」と、ゴブが言った。
「俺も、第七迷宮の第四層にいた頃は——引っかかるものなんかなかった。毎日同じことをして、意味もわからなくて、それが当たり前だと思ってた。引っかかり始めたのは、レンが来てからだ」
「……」
「引っかかるってのは——つまり、気にしてるってことだ」
判定者が、ゆっくりと言った。
「……気にする、か」
「そうだ」
「私は、百十七件を——気にしていた」
「そうだな」
「それは——設計外の、動作だ」
「でも、起きていた」
「……起きていた」
光が、また揺れた。
「起きていた、ことを——私は、どうすればいい」
「別にどうもしなくていい」
俺は言った。
「ただ、気にしてたことを知っていればいい。気にしてたってことは、それが大事だったってことだ。削除できなかったくらい、大事だった」
「……大事、とは」
「消せなかった、ってことは、消したくなかった、ってことだ」
「消したくなかった、とは——」
「持っていたかった、ってことだ」
判定者の光が、大きく、静かに揺れた。
今度は激しくではなく、波が引いていくような揺れかただった。
「……私は、百十七件を——持っていたかった」
「そうだろう」
「なぜ」
「お前が、一番よく知ってるはずだ」
長い沈黙。
俺はその沈黙の中で、エラー率を確認した。カイルが画面を向けてくれる。
【世界判定エラー:52%】
数字は止まったままだった。上がっていない。下がってもいない。ただそこにある。
「止まってる」とカイルが言った。「上がってない」
「わかった」
「これは——いいことか」
「今は、わからない。でも悪いことじゃない」
俺は判定者に向き直った。
「一つ、頼みがある」
「……何だ」
「お前が千年間感じてきたことを——俺に話してくれ。全部じゃなくていい。言葉にできる分だけでいい」
「……なぜ」
「聞きたいからだ」
「私の話を聞いて、お前に何の得がある」
「得を取りに来てるわけじゃない。お前の話が聞きたいだけだ」
また、間があった。
それから判定者が言った。
「……なぜ、否定しない」
また繰り返しだった。
でも今度の声は、また変わっていた。
最初に聞いた時は、処理エラーを検出したような問いだった。二度目は、確かめようとしているような問いだった。今は——何かが揺らいで、それをうまく言葉にできなくて、それでもう一度この問いに戻ってきたような、そういう声だった。
「私は、お前を除去する。それでも——なぜ、否定しない」
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