第285話「臨界へ」
「処理が止まったとき、何を感じましたか」
問いは、空間に溶けた。
答えはなかった。でも俺は引っ込めなかった。待つことは、俺の一番得意な行動だ。ゴブが扉を叩いてくれた夜から、七年かけて磨いてきた唯一の武器だった。
判定者の座は、相変わらず底の知れない青白さに満ちていた。格子状の光が縦横に走り、重力の感覚が曖昧で、どこが天井でどこが床かも判然としない。でも足の裏には確かに何かが触れていて、俺はここに立っていた。それだけで十分だった。
三十秒か、一分か。もっと長かったかもしれない。
「……感じた、という分類が」
声が来た。
判定者の声はいつも均等で、単調で、感情の起伏がない。でも今の声には、何か違うものが混じっていた。音のノイズのような、微細な揺らぎのような。俺は一年前には聞き分けられなかった何かを、今は確かに聞いた。
「適用できる処理が、ない」
「うん」と俺は言った。「だろうな」
「なぜ、同意する。それは設計上の欠陥ではないか」
「欠陥じゃない」
一歩前に出た。光の密度が、わずかに増した気がした。空気が冷たかった。この空間に空気があることに俺はようやく気づいた。冷たくて、薄くて、でも確かにある。肺に入るたびに、まだここにいることがわかる。
「感じたけど名前が付かないものは、欠陥とは呼ばない。まだ言葉がないだけだ」
「……言葉が、ない」
「俺も最初はそうだった」
俺は言いながら、あの夜のことを思い出していた。第七迷宮の墓場の門。ランク外の門番が、誰にも期待されていなかった夜。
「ゴブが扉をノックした夜——怖い、でも聞きたい、でも失敗したらどうしよう、でもそんなこと言ってる場合じゃない——全部が一緒くたで、分けられなかった。何を感じているのか、整理できなかった」
俺の横で、ゴブが小さく息を吸う音がした。
「でも動いた。分けられなかったけど、動いた。それで今ここにいる」
ゴブが静かに続けた。「俺も……あの夜、怖かったです。扉を叩いても、追い払われるかもしれなかった。でも行った」
カイルが短く、「第四迷宮のとき、俺も怖かった」と言った。
来た者は何も言わなかった。ただ青白い光の中でゆっくりと揺れた。三百年、封印の中で待ち続けた存在のように。
「あの三百十二件の記録」と俺は言った。「削除できなかった——その理由を、あなた自身はどう思いますか」
また沈黙。今度は短かった。
「……処理を、続けることが——できなかった」
「止まった」
「止まった」
「それを」と俺はゆっくり言った。「人間の言葉で言うと——「感じた」と呼ぶんだと思います」
判定者は答えなかった。答えないことが、今の返事だった。
「削除できない記録が残存する限り、処理ループの再開ができない設計——さっきそう言いましたよね」
「そうだ」
「百十七件のゴブの「よかった」が、あなたのループを止め続けていた」
「……そうだ」
「一件目は何でしたか」
長い沈黙。
今度は長かった。
「……一件目は」と判定者が言った。「七年前。第七迷宮、第四層——記録に、ゴブ(仮名)が「扉が開いた。よかった」と記録した。それを削除しようとして——止まった」
「なぜ止まりましたか」
「……削除処理を実行した。完了しなかった。再実行した。完了しなかった。三十七回、再実行した。完了しなかった」
三十七回。
「完了しなかった理由を、分析しましたか」
「した」
「なんだったと思いましたか」
短い沈黙。
「……分析できなかった。原因が——分類不能だった」
そのとき、カイルの声が割り込んだ。
「レン」
トーンが変わっていた。報告の声だ。
「エラー率——来た。四十八」
四十六から二ポイント動いた。
「上昇のペースは」
「速い。一時間で三から四ポイントは出る」
俺は計算した。
四十八。一時間で四ポイント。不可逆の臨界点は五十二。
一時間で届く。
「地上の状況」とゴブに確認した。ゴブが瞳を閉じた。第七迷宮の門番として、広域に感覚を広げる能力を持っている。こんな深層でも、繋がりは生きているらしかった。
「……各迷宮の核が不安定です。第七はフォルが抑えてますが——来た者がここにいるので、封印層の一部に歪みが出てます」
「フォルは持つか」
「踏ん張ってます。でも——時間の問題です」
「人里は」
「バルタで行政が止まりかけてます。判定所が機能しない。暴動も続いてる。今のところ死者の報告は来ていないですが——」
「わかった。ありがとう」
俺は判定者の方を向いた。「聞いてましたか」
「……聞いていた」
「これが今の地上です。あなたの設計の崩れが、今まさに起きている」
「……知っている」
「止められますか」
今度の沈黙は、答えを含んでいなかった。
「——止める必要が、ない。これは修復の過程だ」
「除去している、と言いたいんですね」
「そうだ」
「除去される中に」と俺は言った。「あなたが削除できなかった三百十二件が含まれています」
判定者の光のリズムが、大きく揺れた。格子状の蒼い輝きが不規則になり、またゆっくりと戻る。
「ゴブがドランに「よかった」と言ったこと。カイルが第四迷宮で初めて話を聞いたこと。レイラが泣いたこと。オルディーンが全市民の前で立ち上がったこと。ガレスが剣を収めたこと。あなたが削除できなかった七年間の記録——全部、五十二パーセントを超えたら消えます」
「……消えた場合、世界は設計通りに戻る」
「設計通りの世界に」と俺は言った。「あなたはいたかったんですか」
「俺が一番多いんですよね」
ゴブが一歩前に出た。
いつもの恐る恐るという踏み出し方ではなかった。門番になってから身についた、まっすぐな踏み出し方だった。
「百十七件。削除できなかった記録のうち、俺が一番多い」
「……そうだ」
「なんで百十七件なのか——知りたいんです」
ゴブの声は震えていなかった。泣きそうでもなかった。ただ、まっすぐだった。
「俺が何をしたのか。あなたの設計の中で、何をしたら百十七件、あなたを止めることができたのか」
判定者は答えなかった。
ゴブは続けた。
「七年前、俺は第七迷宮の小隊長でした。外の脅威から逃げてきた難民で——人間の門番に話を聞いてほしくて、怖かったけど扉を叩いた。その後、ドランに会えた。カーラさんに会えた。カイル様にも会えた。来た者とも話せた。たくさんの「よかった」があった。そのたびに、あなたは止まっていた」
光が揺れた。
「あなたが削除できなかった百十七件が——俺の「よかった」なら」
ゴブが、青白い光に向かって真正面に立った。
「あなたも——少しだけ、よかったってことじゃないですか」
判定者の空間が、静まった。
格子が崩れかけて、また戻り、また崩れた。
来た者が、判定者へ向かって何かを言った。長い言葉だった。カイルが静かに通訳してくれた。
「——「三百年前、誰かが問えばよかった。封印されたとき、なぜかと聞いてくれる者がいなかった。今なら、言葉がある」と言っています」
「……三百年前」と判定者が言った。「封印した際——来た者は、抵抗した」
「知っています」と俺は言った。
「設計上、障害だった。だから封印した」
「知っています」
「だが——今、ここで」
判定者が止まった。
「来た者が——問う。あのとき聞けばよかった、と」
「そう言っています」
長い沈黙があった。
「……その問いを。私は——どう処理すればいい」
「処理しなくていいです」と俺は言った。「受け取ればいい。それだけでいい」
「レン——四十九」
カイルの声が、一段低くなった。
「上昇、止まらない」
俺は振り返った。カイルの顔が、青白い光の中で固まっていた。いつも飄々としているカイルが——はっきりと緊張していた。
「残り時間は」
「五十二まで——四十分あるかどうか」
ゴブが俺の袖を、そっと引いた。引っ張るのではなく、ただ触れた。「レン」とだけ言って、後は何も言わなかった。
俺は深く息を吸った。
冷たかった。青白い空間の中でも、空気には温度があった。冷たくて、薄くて、でも確かにある。
「止められない」と思った。
物理的に止める手段がない。スキルはない。武器もない。地上への通信も不安定で、助けを呼べるかどうかもわからない。カイルが転送してくる数字は上がり続けていて、俺にはその数字を押し戻す方法がない。
でも——
止まっていない方法が、一つだけある。
「まあ」と俺は言った。
ゴブとカイルが俺の方を向いた。
「——聞いてから、判断しよう」
誰かに言ったわけじゃなかった。
自分に言った。あの夜から変わらない、唯一の答えだった。
足の裏に床がある。冷たい空気が肺に入る。俺はここに立っている。
「判定者」
「……」
「百十七件——ゴブの「よかった」が百十七件、削除できなかった」
俺は言葉を選んだ。
「それは、設計上のバグですか」
「……」
「それとも——あなたが、初めて、何かを感じた回数ですか」
青白い光が、止まった。
格子状のリズムが、完全に止まった。
一拍、二拍、三拍、五拍、十拍——。
判定者は答えなかった。
でも答えなかったことが、答えだった。
「レン——五十」
カイルの声が低く届いた。
俺は動かなかった。
「あと二パーセントだ。お前は——」
「わかってる、カイル」
一度だけ振り返った。カイルが何を言いかけていたか、わかった。「まだ手があるのか」と聞きたかったんだと思う。
手はなかった。
でもここにいることはできる。聞くことはできる。
カイルの目を一秒だけ見て、また前を向いた。
「判定者。もう一度だけ聞かせてください」
問いに戻った。最初の問いに。
「一件目——七年前、第四層で、ゴブが「扉が開いた。よかった」と記録した。三十七回削除を試みて、できなかった。あの瞬間——あなたの中で、何が起きましたか」
長い沈黙。
これまでで一番長かった。
来た者がゆっくりと、判定者の光の中心へと近づいていった。ゴブも一歩前に出た。カイルは——転送を止めて、ただこちらを見ていた。
「……扉が」と判定者が言った。
俺は黙って待った。
「……扉が、開いた、という記録が——」
また止まった。
「——開いた、という事象は、設計上——どちらの側にも分類されなかった。扉は閉じている状態が前提だった。開いた扉を、私は——」
「分類できなかった」
「分類できなかった」
「そのとき、何が止まりましたか」
今度は、すぐ来た。
「——私が、止まった」
ゴブが小さく声を出した。
泣いているのかと思ったが、違った。
笑っていた。
「あなたも、あの夜——驚いたんですね」とゴブは言った。
「……驚いた、という分類が——」
「使えなくていいです」と俺は言った。「止まったんでしょう。それで十分だ」
「レン——五十一」
カイルの声が、今度は静かに届いた。
「あと一パーセントだ」
俺は聞こえていた。
止まらなかった。止められなかった。
でも判定者の光は——揺れていた。さっきまでとは違う揺れ方だった。論理処理の乱れではなく、もっと細かい、繊細な揺れだった。
「削除できなかった三十七回の間」と俺は言った。「あなたはずっと、止まっていた。その三十七回の間——外では何が起きていましたか」
「……ゴブ(仮名)が」と判定者は言った。「第七迷宮の入口で、待っていた」
「そうです」
「待っていた記録が——残っている」
「残っています」
「待っている間、ゴブは——」
また止まった。
「何かを、記録している。「怖い。でも——また、来る」という記録が、十四件ある」
ゴブが息を止めた。
「その十四件も」と俺は聞いた。「削除できませんでしたか」
「……できなかった」
「それも、分類不能でしたか」
「そうだ。「怖い」は分類できる。「また来る」も分類できる。だが——「怖い。でも、また来る」は——」
「一緒くたで、分けられない」
「そうだ」
ゴブが、また笑った。今度は泣きながらだった。
「俺も、そう思ってました。怖かったけど——また来ようと思ってました。毎回」
判定者の光のリズムが、大きく、今まで見たことのない揺れ方をした。
来た者が、ゆっくりと言葉を発した。カイルが通訳した。
「——「三百年間、封印の中で私たちも、待っていた。怖かった。でも、いつか誰かが来ると思って、待っていた」と言っています」
判定者の空間が——静まった。
格子の光が消えかけて、また戻ってきた。また消えかけた。
視界に、スキルの表示が浮かんだ。
カイルが声で言わず、直接転送してきた。
【世界判定エラー:52%】
不可逆まで、あとわずか——
足の裏が、床に触れている。
冷たい空気が、肺に入る。
俺はここに立っている。
数字を受け取った。止まらなかった。止められなかった。
でも俺の口から出た言葉は——
「あなたも、待っていましたか」
だった。
判定者の光が、今まで見たことのない揺れ方をした。
答えが来るのかどうか、まだわからなかった。
でも少なくとも——
光は消えていなかった。
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