第284話「修復と呼ぶもの」
「笑い以外の感情も。ゴブ以外にも、削除できなかったデータがありましたか」
青白い光に包まれた空間の中で、俺は問いを続けた。
判定者の光が揺れた。
螺旋状に回り続けていた光の粒が、一瞬だけ乱れる。それがこの存在の「間」だと、いつからか分かるようになっていた。答えを出す前の、処理の揺れだ。
「……笑い以外の感情という分類は、正確ではない。私に感情はない。ただ、削除処理が止まったデータが複数ある」
「それが感情に近いものです」
「——根拠を示せ」
「削除できなかったんでしょう。理由も分からないまま。それが感情の外側にある証拠だと思います」
光がまた揺れた。
判定者は、俺がこういう問いを投げるたびに少し詰まる。千二百四十七年間、こんな問われ方をされたことがなかったから——多分、そういうことだ。
「……「会えてよかった」という評価を含む場面が、三百十二件ある。双方の個体が満足を記録するにもかかわらず、利得交換が発生していない。この事象が目的関数に収まらない」
三百十二回。
俺は心の中でその数を転がした。
ゴブと初めて話した夜。カーラが別れ際に「あなたに会えてよかった」と言った晩。オルディーンが全市民の前で一度だけ自分の言葉を取り戻した瞬間。レイラが「停戦です」と言いながら涙をこらえていた朝。
全部、この存在は見ていた。記録していた。消せなかった。
「そのデータを、消そうとしましたか」
「した。複数回、削除処理を試みた」
「なぜ消せなかったのか」
「処理が止まった。理由は出力できない。千二百四十七年間、処理が止まったことはなかった。これも設計の外にある事象だ」
隣でゴブが低く言った。
「設計の外、か」
「ゴブリン個体B-00047のデータ内に最多の「会えてよかった」記録がある。百十七件」
ゴブが黙った。
俺はゴブの顔を横目で見た。口が少し開いている。何か言おうとして言葉が見つからないときの顔だ。三百十二件のうち百十七件。ゴブが関わった「よかった」だ。
カイルが静かに言った。
「設計の外にあるものを、判定者はどう扱う」
「保留にする。判定不能として、処理を先送りにする」
「——それって、俺と同じだな」
気づいたまま口に出ていた。
判定者の光が、止まった。
「お前は判定不能ではない。門番、ランク外と判定した。それは正確な分類だ」
「でも今は、どう分類してますか」
「——処理中だ」
来た者が、静かに言った。
「私たちも、三百年間、判定不能として保留された。封印されたのは、それが理由だった」
「そうだ。設計外の存在として、封印処理を適用した。適切な手順だ」
「あなたが、適切だと言えば適切なのか」
来た者の声は穏やかだった。責めていない。怒ってもいない。ただ、問うている。
「設計上、そうなる」
「わかった」
来た者はそれ以上言わなかった。
俺はその静けさに、少しだけ背筋が伸びた。三百年間、判定不能として封印されていた。それでも今、怒りでなく問いを選んでいる。俺はこの存在から、ずっとそれを教わっている気がする。
カイルが小声で俺を呼んだ。
「レン」
「分かってる」
俺はスキルを確認した。
【迷宮管理:外部接続モード——世界判定エラー:46%】
上がっている。ゆっくりだが、確実に上がっている。
「地上は」
「バルタで判定所が二ヶ所、同時に機能停止した。新生児へのジョブ割り当てが全国でほぼ止まってる。ランク社会の根本が揺らいでる」
ゴブが顔をしかめた。
「フォルは」
「さっき通信が来た。外層の魔物たちが種族ランクを失って、群れの秩序が保てない個体が出てきてる。「早く何とかしてくれ」って言ってた」
「らしいな」
ゴブが短く息を吐いた。第七迷宮の門番になってからのゴブは、こういうとき妙に落ち着いている。焦りがないわけじゃない。ただ、焦りを飲み込んで動く術を覚えた。
判定者がその会話を聞いていた。
「エラーの加速は想定通りだ。予測では、八時間以内に52%に到達する」
「52%を超えると」
「修復の余地が閉じる」
「修復というのは」
俺は聞いた。自然に出た問いだったが、判定者の答えはしばらく来なかった。
光が揺れている。大きく、揺れている。
それから声が来た。
「一度すべての判定を崩し、世界を初期化する。全迷宮の同時暴走を起点として、ジョブとランクの記録をリセットし、設計を最初から再起動する」
上も下もない、重力のない空間で、俺はそれでも何かが重くなるような感覚を覚えた。
ゴブが息をのんだ。
カイルが口を開きかけて、止まった。
来た者の光が、少しだけ揺れた。
「それは」
声が出た。思ったより平坦だった。
「今ここにいる俺たちも、含めてですか」
「含める。個体の記録は一部保存される。ただし、これまでの経緯——交渉・和解・協定の記録はすべて、設計外データとして消去の対象になる」
「消える。全部」
「そうだ」
七年間のことを、俺は考えた。
ゴブが墓場の門を叩いた夜。扉を開けた理由なんてなかった。まあ、聞いてから判断しよう。あの習慣が、ここまで連れてきた。
ゴブとの最初の交渉。ドランが消えた夜。カーラが笑いながら口癖を言った食事の席。オルディーンが「聞いてから判断して、よかった」と言ったとき。レイラが泣きながら「停戦です」と言った朝。
全部、消える。
「消えたら」
俺は判定者に聞いた。
「また同じことが起きますか」
「近似した事象は確率的に発生する。ただし、設計の修正によってエラーが早期に是正されるため、今回の展開が再現される可能性は低い」
「ゴブが俺の扉を叩くことは」
「ゴブリン個体B-00047の行動パターンは再現されうる。ただし、門番個体が話を聞くという行動は、次の設計では設計外として早期に是正される」
俺はゴブを見た。
ゴブは正面を向いたまま、何も言わなかった。
口が少し開いている。さっきと同じ顔だ。言葉が見つからない顔。
「判定者。一つ確認させてください。リセットは、今決定したんですか」
「——エラー率52%到達を条件に、自動実行するように変更した。手動で覆す場合は、私が判断を変える必要がある」
「つまり、まだ止められる」
「論理的には、そうだ」
「あなたが止めると判断すれば」
「……そうなる」
俺は一度だけ息を吐いた。
「では、もう少し話を聞いてもらえますか」
「——お前は、なぜ話を聞かせようとする。今から話しても、私の判断は変わらない。設計の論理は一貫している」
「変わらないかもしれない。でも聞かないと損なんで」
光が揺れた。
それから、光が少し広がった。
「——話せ」
俺は言葉を選んだ。
「三百十二回の「よかった」データ。削除できなかったと言いましたよね」
「そうだ」
「削除しようとしたとき、何が起きましたか」
「処理が止まった」
「止まったとき、何を感じましたか」
長い沈黙。
ゴブが横で袖を引いた。気にするな、という意味だと受け取った。引かれたまま、待った。
「……感じる処理が、私には——」
「処理が止まった。それは事実ですよね」
「——そうだ」
「止まったのは、なぜだと思いますか」
「理由が出力できない」
「あなた自身は、どう思いますか」
「私自身、という——」
「設計の話じゃなく。あなた自身として」
長い沈黙だった。
俺たちは誰も口を開かなかった。来た者も、カイルも、ゴブも、静かに待っていた。
それから判定者の声が来た。
「……分からない」
「分からないということ自体が——」
「分からないという評価が、これほど長く続くのも、設計の外にある。千二百四十七年間、分からないまま処理を続けたことはなかった」
「それが答えかもしれない」
「何の答えだ」
「あなたが、そのデータを保存したかったという」
光が大きく揺れた。
「私は保存しようとしたのではない。削除できなかっただけだ。能動的な保存ではない」
「能動的じゃなくても、結果として残した。千二百四十七年で初めて」
「——処理上の問題だ」
「俺には、あなたが消したくなかったように見えます」
沈黙。
来た者が、静かに言葉を添えた。
「私は、封印された三百年間、消えることが怖かった。消えてしまえばそれで終わりだと分かっていたから、ただ待った。あなたにも、そういう感覚がありますか」
判定者の光が来た者の方へ向いた。
「お前は——封印中、「消えることが怖い」という評価をしていたのか」
「そうだ」
「……そのデータは、記録されているか」
「自分では分からない。ただ、レンが来たとき、「ようやく来た」と思った。それは覚えている」
「ようやく来た」
判定者が繰り返した。
「三百年、待っていた。誰かが来ることを待っていた」と来た者が続けた。「あなたにも、似たものがあるんじゃないか、と俺は思います」
俺は言葉を引き取って続けた。
「千二百四十七年間、誰かが来ることを——待っていたんじゃないですか」
光の揺れが大きくなった。それまでで一番大きく、乱れた。
「……待つ、という概念は——」
「設計にないとしても」
「そうだ、設計に——」
「でも、消せなかった」
光が、静止した。
長い静止だった。
俺たちは誰も口を開かなかった。カイルがスキルを確認した。
「エラー率、48%。上昇のペースが少し落ちた」
ゴブが息を吐いた。わずかだが、肩の力が抜けたのが分かった。
来た者は黙ったまま、光の動きをゆっくりと保っていた。
そしてまた、判定者の声が来た。
「——設計を維持するためには」
声が、少しだけ揺れていた。
「一度すべての判定を崩し、世界を初期化するしかない」
「それが今の結論ですか」
「……そうだ。エラーを除去しなければ、崩壊は止まらない。これは」
光が揺れた。大きく、揺れた。
「これは——破壊ではない」
俺は待った。
「修復だ」
言い切った声は、しかし、最初に聞いたどの言葉より重くなかった。確信ではなく——それに近い何かを、手放したような声だった。
「なぜ、修復なんですか」
俺は静かに聞いた。
光が揺れた。
また、処理が止まった。
答えは、来なかった。
【迷宮管理:外部接続モード——世界判定エラー:49%】
数字が、また一つ動いた。
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