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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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第283話「和解というエラー」

青白い光の中に、音がなかった。


重力もなく、床もなく、ただ光だけがある。それでも俺は立っているような感覚があった。どういう仕組みなのかはわからない。ここはそういう場所だ。


「どちらの感情も」と俺は言った。「今ここでお前に向けるのは——違う気がする」


上手い言い方ではなかった。でも正直なところだった。


怒りは確かにある。底に置かれていたことへの怒り。俺だけじゃない、ゴブも、低位に分類された魔物全員が、同意なく「秩序の下」に設計されていた。その事実を聞いたとき、腹の底に石が落ちるような感覚があった。


でも怒りを今ここで使っても、何も変わらない。


相手が怒りを受け取れる状態かどうか、まず見なければならない。それは七年前にゴブと話したときから、俺がやってきたことだ。


「聞きたいことが先にある」と俺は続けた。「怒りは後でも使える」


「……後でも使える」と判定者が繰り返した。


単純な復唱ではない。確認するような間合いだった。


「怒りを——保存するのか」


「保存、という表現は少し違うが……感情に優先順位をつける必要があるときは、後回しにすることがある」


「後回しにした感情は、どこに記録されるのか」


「どこに記録されるかは、わからない」と俺は正直に言った。「でも消えない」


「消えない、という記録が——存在しない。感情は消去可能なデータだ」


「そうかもしれない。俺には証明できない。でも俺の怒りは、今もある」


青白い光が、微妙に揺れた。


俺の半歩後ろでゴブが静かに息をしているのがわかった。来た者は声を出さなかったが、その気配は一歩前にある。カイルは横で手の中の記録板を静かに持ち直して、光の中心を見ていた。


「お前という存在は」と判定者が言った。「処理の停止を繰り返させる」


「そうらしい」


「記録できない事象が積み上がることは、不安定な状態を意味する」


「今、不安定なのか」と俺は聞いた。


「……そうだ」


一千二百四十七年間動いてきた何かが、不安定だと言った。


俺は顔に出さなかったが、それは大きなことのように感じた。



 



「少し整理させてくれ」と俺は言った。


「お前は前の話で、エラーの89%が俺の行動に起因すると言った」


「そうだ」


「残りの11%は何だ」


「設計の経年劣化だ。0.3%が一千二百四十七年で11%に積算した」


「つまり、俺たちがいなくても、いつかは崩れていた」


「四千年後の推定だが、そうだ」


ゴブが「四千年」と小声で繰り返した。体感の単位ではない数字が、空間に浮いた。


「エラーの根本的な原因を聞かせてくれ」と俺は続けた。「具体的に、何が崩れたんだ」


判定者が、少しの間を置いてから答えた。


「ジョブ・ランク・迷宮による秩序は、三つの前提の上に成り立っている」


「聞かせてくれ」


「一。人間と魔物は、異なる種族として分類される。二。ランクは固定されるものとして設計される。三。迷宮は人間と魔物を隔てる障壁として機能する」


「この三つが崩れると、設計全体が整合性を失う」


「崩れた順番は」と俺は聞いた。


「最初に崩れたのは前提一だ」


「いつ」


「七年前。この迷宮で、ゴブリンを外の待機エリアに受け入れた時点」


俺の横でゴブが「あ」とかすかな声を出した。


「俺か」とゴブが小声で言った。「俺が、最初ですか」


「そうだ。第7迷宮第4層所属の知性体。その接触が最初の前提崩壊だ」


ゴブは何も言わなかった。でも肩が少し固くなったのが見えた。


「次は」と俺は促した。


「前提二は、ゴブリンが王国公認門番として登録された時点だ。魔物が公式な役割を持つ先例となり、ランクが可変になった」


「三番目は」


「共存協定と通路設計の成立。迷宮が障壁でなく通路として機能し始め、三つの前提が全て崩れた」


俺は聞きながら、頭の中で時系列を整理した。


七年前のゴブとの夜から始まって、議会へのゴブの証言、署名、通路の設計、協定の成立。その全部が、一つずつ判定者の前提を崩してきたのだ。


「つまり」と俺は言った。「俺たちが和解するたびに、世界判定エラーが増えた」


「正確だ。和解が一つ成立するたびに、設計前提との乖離が拡大した」


来た者が、静かに口を開いた。


「三百年前、私たちが封印されたとき——それも前提の一つだったか」


「そうだ。外界からの侵入者は分類不能として封印する。それも設計の一部だった」


来た者は何も言わなかった。


俺はその横顔を見た。表情を読むのは難しい相手だが、今は何かを聞いて受け止めた顔をしていた。



 



カイルが俺の横に来た。


「一つ確認させてくれ」とカイルは判定者に向かって言った。


「何を」


「削除できないデータの話だ。エラーが出るたびに、削除できないデータも積み上がった。そうじゃないのか」


「……正確だ」


「じゃあ、エラーと削除できないデータはセットで増えてきた」


「そうだ」


「俺はそれを全部聞いてから決める」とカイルは言った。それだけ言って、また元の位置に戻った。


俺はカイルの横顔を見た。


あいつが「聞いてから決める」と言うようになったのは、いつからだったろうか。第四迷宮に一人で行って戻ってきた夜か、それともスキルを引き継いだ日か。どこかの時点で、それがカイルの言葉になっていた。


「ゴブリンが笑ったデータ」と判定者が突然言った。


「何?」と俺は聞き返した。


「最初にエラーとして記録されたとき——削除できなかったデータがある。ゴブリンが最初に待機エリアに受け入れられた翌朝、笑った。人間に受け入れられたことへの反応として。そのデータが記録に残っている」


俺はゴブを見た。


ゴブは口元を手で押さえていた。目が少し赤くなっていた。


「削除できなかった理由は」と俺は聞いた。


「わからない。エラーデータとセットになっていたため、エラーを保持する限り削除が完了しない」


「エラーを消せば、笑いのデータも消えるのか」


「理論上は、そうだ」


「でも、お前はエラーをまだ消していない」


「……そうだ」


「一千二百四十七年間、設計外のデータを全て削除してきた。でもゴブが笑ったデータは、今もある」


「……そうだ」


「なぜ消さなかった」


判定者が、また沈黙した。


これまで「処理できない」と言ってきたような沈黙ではなかった。今度のは——迷いに近い沈黙だった。俺はそう感じた。確かめる術はないが、そう感じた。


「……消去の処理を開始したが」と判定者がようやく言った。「完了しなかった」


「なぜ」


「……理由が、記録にない」


「記録にない理由があった」


「……そうだ」


「一千二百四十七年で、初めてか」


「……そうだ」


ゴブが「レン」と低い声で呼んだ。俺は「聞いてる」と返した。


来た者が「……そうか」とだけ呟いた。


三百年前に封印されたとき、来た者の誰も笑っていなかっただろうと俺は思った。恐怖と混乱と痛みだけがあって、それは削除された。でもゴブの笑いは削除できなかった。


「七年前から」と俺は言った。「笑いだけじゃなくて、涙も、沈黙も、手紙も——全部削除できていないか」


「……そうだ。全部残っている」


「どれも記録の中にある」


「そうだ」


「全部積み上がってる」


「……計測単位がないため、総量は把握できない。ただ、削除を試みるたびに処理への影響が大きくなっている」


影響が大きくなっている、と判定者は言った。


俺は頭の中で、積み上がってきたものを一つずつ思い返した。


カーラが初めて泣いた夜。ゴブが議会で「ただ、生きたかっただけです」と証言した朝。レイラが慟哭してから、翌日手紙を書いてきた。オルディーンが全市民の前で「まあ、聞いてから判断しよう」と言ったとき、傍聴席が一瞬静まりかえった、あの沈黙。


全部が、今もどこかに残っている。



 



【迷宮管理Lv.9:接続中——世界判定エラー:46%】


カイルが数字を確認した。「変わってない」と小声で言った。


「停止している理由は」と来た者が判定者に向かって問うた。


「計測中のため、更新を保留している」


「何を計測している」


「……エラーと、削除できないデータの——比較だ」


俺は聞き返した。「比較?」


「エラーは46%だ。削除できないデータは計測単位が存在しないため数値化できない。しかし——比較しなければ、次の処理が決定できない」


「次の処理とは何だ」


「……世界のリセットを実行するかどうか、だ」


「お前はリセットをするかしないか、まだ決めていなかったのか」


「……一千二百四十七年で初めて、決定に時間がかかっている」


俺は、その言葉を聞いた。


一千二百四十七年、即決できた存在が——今、決定に時間がかかっている。


それは何かが変わっているということだ。確かに変わっている。


「原因、という言葉の話をさせてくれ」と俺は言った。


「……どういうことか」


「俺たちの和解が、エラーの原因だとお前は言った」


「そうだ」


「でも削除できないデータの原因でもある」


「……そうだ」


「エラーと、削除できないデータ——どっちがお前の処理に強く影響してる」


「……削除できないデータの方が、影響が大きい」


ゴブが、俺の袖をそっと握った。


「レン」とゴブが小声で言った。「これって……」


「聞いてる」と俺は返した。


削除できないデータの方が、影響が大きい。判定者の処理に対して。


笑いや涙や手紙が積み上がってきたことの方が——設計前提の崩壊より、今の判定者に強く作用している。


俺はしばらく、その事実を頭の中に置いた。


無重力の空間で、足の裏に感触はない。でも重力みたいな何かを感じた。空気が重いわけでも、体が重いわけでもない。でも何かが——押してくる感じがした。


「一つだけ確認させてくれ」とカイルが、また静かに言った。


「何を」


「削除できないデータの方が影響が大きいと今言ったな」


「……そうだ」


「それはつまり——俺たちが積み上げてきたものが、エラーより強くお前の中に残ってる、ということか」


「……現状では、そうだ」


カイルが、俺を見た。俺もカイルを見た。


「全部聞いてから決める」とカイルがもう一度言った。今度は俺に向かって。



 



俺は深く息を吸った。空気があるかどうかもわからない空間で、でも習慣で息を吸った。


「じゃあ」と俺は言った。


「……じゃあ——俺たちの和解が、原因なのか」


同じ問いを、今度は違う重さで問うた。


設計前提を崩した原因としての和解。削除できないデータを積み上げた原因としての和解。どちらも事実として存在している今——「原因」という言葉はどっちを向いているのか。


和解してきたことを、間違いだとは思っていない。ゴブが笑ったことも、カーラが泣いた夜も、レイラが慟哭した日も——全部あってよかったと、今も思っている。


でもそれが世界を壊しているとするなら。


ゴブが笑ったことが「エラー」と記録されているなら。


怒りが来た。腹の底から、静かに、でも確実に。


「……」と判定者が沈黙した。


その沈黙は長かった。今まで何かを問われるたびに「処理できない」「記録にない」と答えてきた判定者が、今回は何も言わなかった。


光の揺れが、また不規則になった。規則的だったリズムが何度も乱れて、また整いかけて、また乱れる。


「処理が」と判定者がようやく言った。


「……処理が、できない。どちらの原因として答えれば正確かを算出しようとしたが——」


「どうした」


「——原因という言葉の定義が、今この場では機能しない。エラーを生んだ原因でもあり、削除できないデータを生んだ原因でもある。同じ行為が、二つの相反する結果を同時に生んでいる。これは設計の論理では——」


「処理できないか」


「……そうだ」


「まあ」と俺は言った。


声が、思ったより低かった。


「まあ、聞いてから判断しよう」


その言葉を言い慣れすぎて、もう考えなくても出てくる。でも今は——その言葉を自分に向かって言っていた。怒りを後回しにして、先を聞くために。


ゴブが袖を離した。来た者は動かなかった。カイルは記録板を胸の前に持ったまま、光の揺れを見ていた。


【迷宮管理Lv.9:接続中——世界判定エラー:46%】


数字は、まだ止まっていた。


46%のまま、動いていない。


「まだ、聞いていない話がある」と俺は判定者に言った。「お前がリセットを選ぶ論理だ。聞かせてくれ」


判定者の光が、一度大きく揺れた。


そして——答えるより先に、光の中で何かが動いた。


カイルが記録板を確認した。数字が、はじめて動いた。


「レン」とカイルが呼んだ。「数字が——」


俺は見た。


【世界判定エラー:47%——上昇再開】


「……修復を、開始する必要がある」と判定者が言った。


声が、また機械的な平坦さに戻っていた。さっきまでの揺れが、消えていた。


「待て」と俺は言った。


「修復とは何だ」


「設計の維持だ。乖離が拡大する前に、補正を入れる」


「補正とは何をする」


「前提の一つを——再適用する」


「どの前提を」


「人間と魔物の接触区域を、閉鎖する」


ゴブが、息を呑んだ。


「閉鎖」と俺は繰り返した。「今の通路を、閉じるということか」


「前提の修復に必要な処置だ。設計に戻るための最小限の補正として——」


「それは」と俺は言った。


静かに、でも確実に言った。


「七年分を、消すということか」


判定者は、答えなかった。


光が揺れていた。


エラー率の数字が、少しずつ上がっていた。


「じゃあ……俺たちの和解が、原因なのか」


俺はもう一度、同じ言葉を言った。


今度は、はっきりと——判定者に向かって。答えを求めて。


この問いに答えてもらわなければ、次に進めない。


怒りは、ある。


でも先に——聞かなければならない。

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