第282話「守るための格差」
沈黙が、積もっていた。
底にいる者は、何のために生きるのか。
その問いを投げてから、どれくらい経ったのかわからない。この空間に時間の感覚はない。太陽も星もなく、ただ青白い光だけが静かに揺れている。
足の裏が床に触れている感覚が薄い。重力が通常の半分ほどしかない気がして、立っているのか浮いているのかが曖昧なままだった。靴の底から伝わってくるはずの硬さが、どこかぼやけている。冷たい空気は確かにあって、それだけがここに自分がいることを教えてくれた。
カイルが俺の隣で、小さく息を整える音がした。
来た者は黙って待っていた。ゴブは腕を組み、判定者の「声」が降ってきた方向を向いたまま、動かなかった。
「……処理に、時間がかかっている」
判定者の声が、静けさの中に落ちた。
「急かしていない」と俺は言った。「返事があるなら聞く」
「返事を生成する枠が、存在しない」
「枠が存在しない?」
「底にいる者が、底について問う——その事象が、一千二百四十七年の記録に存在しない。想定外の入力だ」
「そうか」と俺は言った。「じゃあ、今から初めて考えてくれ。千年以上生きてきて、初めて考える価値のある問いだ」
沈黙がもう一度落ちた。今度は、それほど長くはなかった。
「……底の者は、秩序のために在る」
俺は返事をしなかった。続きを待った。
「格差とは、秩序の構造だ。上があれば、下がある。指示する者があれば、従う者がある。勇者がいれば、農夫がいる。強者がいれば、弱者がいる。そして底がなければ——上も、中も、成立しない」
「底がなければ、上も成立しない」と俺は繰り返した。
「その通りだ。底は欠陥ではない。設計上、必要な位置だ。ランク外とは、その最下位の位置に割り当てられたジョブ群を指す」
「必要な位置」
「そうだ」
俺はしばらく、その言葉の重さを量った。
失敗ではなく、必要な位置。欠陥ではなく、設計の一部。その言い方は——「お前は失敗作だ」と言われるよりも、どこか重かった。失敗なら、直せる。直せないとしても、誤りだと言える。でも「必要な位置」は違う。最初からそこにいなければならなかった、という話になる。
「聞いていいか」と俺は言った。
「処理する」
「その底に置かれる者が、同意していたか」
「同意の概念が、設計に含まれていなかった」
「含まれていなかった」
「秩序とは、構造として機能するものだ。石が自分の位置に同意を求めることを、建築は想定しない」
石。
その言い方は正確だった。だから余計に、返す言葉が見つからなかった。
俺は少し考えてから言った。「ではお前は、石に意志があるとは思っていなかった」
「石に、意志は設計していない」
「でも意志があった」
「……それが、エラーの発生原因だ」
ゴブが静かに口を開いた。
「判定者」
「処理する」
「魔物も——低位種族というのも、そういう設計か」
「種族ランク体系も、同一の原理による。上位種族が存在するために、下位種族が設計上、必要だった」
ゴブは黙った。
長い沈黙だった。俺はゴブのことが心配だったが、何も言わなかった。言葉をかけるより、ゴブがそれを自分で受け止める時間を作る方が大事だと思った。
来た者が低い声で言った。
「私たちも同じだ。設計の外から来たものは、即座に分類不能として封印された。設計の外は——存在してはいけなかった」
しばらくして、ゴブが言った。
「……そうか」
「ゴブ」と俺は言った。
「いい」とゴブは言った。短く、でもはっきりと。「わかっていたことだ。なんとなく、ずっと。俺がゴブリンで生まれた日から、強い奴に従え、上には逆らうな、そういう声が頭の中にあった。それが外から仕組まれていたものだとしたら——怒るより、理由がわかった、という気持ちの方が大きい」
「納得できるか」
「できるとは言っていない」とゴブは言った。「ただ、知った。それだけだ」
カイルが口を開いた。
「一つだけ確認させてくれ」
「処理する」
「レンは設計の失敗だったわけじゃない。最初から底に置くつもりで判定した——そういう理解で合っているか」
「その通りだ。レン・アシダに割り当てられたジョブは、底になるよう設計されたジョブ群の一つだ。設計の意図通りの判定だ」
カイルは黙った。
俺はカイルの横顔を見た。七年前。ギルドの判定室。「生きてはいけるんじゃないか」と言ったカイル。悪意はなかった。ただ、世界の秩序通りに物を見ていただけだった。その秩序が今、自分の論理を俺たちの前で淡々と語っている。
「カイル」と俺は言った。
「……わかってる」とカイルは言った。「怒鳴り込もうとは思っていない。ただ——腹の底に何かが積もる」
「まあ、聞いてから判断しよう」と俺は言った。「全部聞いてから、何をするかを決めても遅くはない」
カイルは俺を見て、短く「そうだな」と言った。
「一つ聞かせてくれ」と俺は判定者に向かって言った。
「処理する」
「俺が底に置かれた。設計通りだった。でも俺は底から動いた。和解が起きた。今、判定が狂っている」
「その通りだ」
「もし俺が動かなかったなら——ランク外の門番のまま、生涯その場にいたなら——世界は安定していたか」
短い間があった。
「シミュレーション結果:推計89%の確率で、現在の判定エラーは発生していなかった」
「つまり、俺が動いたことで世界が不安定になった」
「エラーの発生原因は、設計外の動きだ。その起点はレン・アシダの行動にある」
俺はしばらく、それを噛み砕いた。
来た者がかすかな声で問いかけてきた。「傷ついているか」
正直に言えば、少しは傷ついていた。
設計の失敗ではなかった。設計の成功だった。俺は正しく、正確に、底に置かれた。その底から動いた俺が、世界の設計をエラーにした。
悪意はない。怒りをぶつける相手もいない。ただ、知らなかったということの重さだけが、今になって積もってくる。七年分の積み重ねが「正しく機能した設計の中での小さなエラー」として記録されているという事実が、静かに、腹の底に沈んでいく。
「怒っていないのか」と判定者が言った。
俺は少し驚いた。判定者がこちらに感情を問うのは、初めてだった。
「そういうことを、お前が聞くのか」
「感情の評価ができない。怒りが発生するはずの状況を提示した。にもかかわらず、レン・アシダは静止している——理由が処理できない」
「怒る元気がないかもしれない」と俺は言った。「怒ってもどうにもならないとわかっているかもしれない。たぶん両方だ」
「両方が共存している」
「感情ってのはそういうものだ」と俺は言った。「一つだけで成り立つことは少ない」
「処理が、難しい」
「処理しなくていい」と俺は言った。「ただ聞いてくれればいい」
沈黙があった。
それから俺は続けた。「一つだけ言わせてくれ。俺が制度の失敗じゃなかった——制度の設計の一部だったと知って、怒る気にはなれないが、受け入れる気にもなれない。どちらの感情も本当だ。でもどちらも、今ここでお前にぶつけるものじゃない」
「なぜか」
「お前もお前で、一千年以上誰にも聞いてもらえずに動いてきた側だからだ」
判定者は答えなかった。
「一つだけ聞いていいか」とカイルが言った。
「処理する」
「お前は——千年以上動いてきて——誰かに「お前の設計は間違っている」と言われたことがあったか」
「ない」と、すぐに答えが来た。
「「お前の設計は正しかった」と言われたことは?」
少し間があった。
「……ない」
「誰にも、どちらも言われたことがなかった」
「……設計の評価を行う存在が、想定されていなかった」
カイルは俺を見た。俺はうなずいた。
正しいとも間違っているとも言われないまま、千年以上動き続けた。従う者たちは設計を疑わず、設計を知らなかった。知る必要もなかった。ただ分類して、記録して、秩序を保ち続けた。その孤独は——俺にはなんとなく、想像できた気がした。
「最後に一つ」と俺は言った。
「処理する」
「俺の行動記録——ランク外の門番として動いてきた記録——お前の中で、どういう分類になっているか」
「……未分類だ」
「未分類」
「功績記録として見れば、条約成立、七十三件の対話解決、百二十七件の交渉成立——数値上、設計の安定に寄与する側面を持つ。しかし同時に、設計の根幹を揺るがすエラーの起点でもある。功績として記録するには設計外の存在であり、エラーとして記録するには安定への寄与が大きすぎる」
「一千二百四十七年の記録の中で、初めてか」
「初めてだ」
俺は何も言わなかった。
来た者が「そうか」と呟いた。ゴブが、視線を静かに床に落とした。
青白い光の中で、俺たちは少しの間そのまま立っていた。足の裏がどこにも触れていない感覚は変わらない。冷たい空気がある。重力は薄い。ここは判定が届かない空間で、それでも俺は今、千年の判定を下してきた存在の前に立っている。
【迷宮管理Lv.9:待機状態——外部接続:不可。内部記録:継続中】
スキルの表示だけが、変わらず視界の端に浮かんでいた。
「世界判定エラーを教えてくれ」と俺は言った。
「現在——39.8%。切り上げて40%だ」
「増えているな」
「この対話中も、継続して増加している。私の処理に、通常の判定が割り込んでいるためだ」
「俺と話していると、処理が重くなる」
「設計に想定されていない対話の処理コストが、高い」
「でも止めていない」と俺は言った。
判定者は答えなかった。止める判断ができない理由を、判定者自身が言葉にできていない——そういうことなのかもしれない。俺はそれ以上は聞かなかった。
「お前は」と判定者が言った。
俺は顔を上げた。
「お前は——正しく最下層だった」
静かな声だった。責めているわけではない。ただ記録を読み上げているわけでもない。その言葉の裏に何かがある気がしたが、判定者の声からは、それが何かはわからなかった。
「設計通りに底に割り当てられた。設計は正しく機能した。しかし——」
声が、止まった。
「しかし?」と俺は問い返した。
「……処理中だ」
判定者の声が、ほんのわずか——本当にわずかだが——揺れていた。
気のせいかもしれない。でもこの空間に入ってから初めて、俺には「揺れた」と感じられる何かがあった。
【世界判定エラー:40%】
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