第281話「分類する者」
「以前、世界は滅んだ」
その言葉は、もう一度繰り返された。
前の話の終わりで、俺は判定者の声を聞いた。「格差のない混沌で。二度と繰り返さないために私は作られた」——そこまで言って、沈黙になった。俺は何も言わずに待っていた。青白い光の満ちた空間の中で、ゴブがわずかに身じろぎして、カイルが息を詰めて、来た者が石のように静かに立っていた。
そして今、判定者が続きを話し始めた。
「格差のない、混沌の時代があった。ジョブも、ランクも、迷宮も——何も、なかった」
声は抑揚がない。感情を読もうとしても、読めない。記録を再生しているような、そういう話し方だ。
でも、止まらない。
それが重要だ、と俺は思った。この存在が自分から話している。千二百年以上、誰にも問われず分類し続けてきた存在が、今、話している。ここで止めてはいけない。
俺は黙ったまま、ただ立っていた。
「人間は、平等だった」
判定者の声が続く。
「魔物も、平等だった。強い者も、弱い者も——同じ場所に立っていた。誰も分けなかった。誰も上下を決めなかった。それが、あの時代だった」
「それで、三代で滅んだのか」と俺は聞いた。
「そうだ。強い者が食い、弱い者が消えた。誰も負けを認めず、誰も止まらず——最後に、何も残らなかった。格差のない争いは、終わりがない。誰もが同じ場所に立って、誰もが同じように奪い合った。三代で、すべて消えた」
三代。
人間の数え方で言えば百年にも満たない。俺はその短さを聞いて、少し息が重くなった。千二百年続く世界の前に、百年で滅んだ世界があった。それを、目の前の声は見ていた。
「あの時代を、お前は観測していたのか」
「していた」
「生き残りは?」
「数えるほどだった。意識がある者は——私だけだった」
それを聞いたとき、俺は一瞬、返す言葉を失った。
意識がある者は私だけだった。
この判定者が一人で決めたのではなく——他に決める者がいなかった。滅んだ後の世界に、残っていたのがこの声だけだった。誰かに頼まれたわけでも、誰かと相談したわけでも——ただ、残されたから、作り始めた。
そういうことなのか。
「名前は、いつついた」
「後だ。分類が生まれた後に、名前は生まれる。分類がなければ、名前もない」
「じゃあ、あの時代にはお前に名前がなかったのは——誰も名前をつけなかったから?」
「正確だ」と判定者は言った。「名前は分類の産物だ。私が分類を始めるまで、私自身に分類はなかった」
横でゴブが小さく動いた気がした。
俺は振り返らずに、右手をわずかに下げた。大丈夫、まだ聞いてるから。そういう合図のつもりで。ゴブは静かになった。
「世界が滅んだ後、お前は何を作った」と俺は続けた。
「秩序を、作った」
「どうやって」
「ジョブを作った。迷宮を作った。ランクを作った。人間と魔物を、別の場所に分けた。強い者を上に、弱い者を下に——それぞれの場所で、それぞれの役割を担わせた。格差を作ることで、争いを構造化した。勝敗が決まれば、争いは終わる。終わりのある争いは、世界を滅ぼさない」
「それが、お前の答えだったんだな」
「答えではない。設計だ」
俺は少し考えた。
「答えと設計は、どう違う」
「答えは、問いに対応する。設計は、問われる前から存在する。私は問われなかった。誰もいなかったから。ただ必要だったから、作った」
「誰かに必要だと言われたわけじゃない?」
「言う者がいなかった。だから、私が決めた」
私が決めた。
その言葉の重さを、俺はしばらく反芻した。
圧倒的な孤独だ。比較するのもおかしいくらいの。滅んだ世界の後に一人残されて、誰にも相談できず、誰にも確認できず、ただ二度と繰り返さないようにと——設計を始めた。
そういう話だ。
「千二百年前のことは、今でも覚えているのか」と俺は聞いた。
「覚えているというより——記録がある。観測したすべてが、残っている」
「辛い記憶か?」
「辛いという分類が、適切かどうか、判断できない」
「つまり、わからない?」
「……判定不能だ」
俺は、少し笑いたくなった。
判定不能。
ずっとそれを言われてきたのは俺の方だった。今度は判定者が、自分自身について同じ言葉を使っている。
「秩序の設計が、上手くいったと思っているか」と俺は聞いた。
「上手くいった。千二百年、世界は滅んでいない」
「そうだな」
事実として、認める。
三代で滅んだ世界を、千二百年続く世界に変えた。その秩序を作ったのがこの判定者なら——確かに、設計は機能した。俺がそれを否定するのは——間違いだ。少なくとも、今の俺が言えることではない。
「その設計の中で」と俺は続けた。「ランク外はどこに位置する」
「底だ」
即答だった。迷いも、ためらいも、一切なく。
「秩序の最下層。誰かが下にいなければ、上は成立しない。ランク外は——制度の必要な部分だ。誰かが埋めなければならない場所だ」
「俺が、そこだったんだな」
「そうだ。適正だった」
悪意はない。本当に、一ミリも。
それが、俺の胸のどこかに、石を置くような重さで来た。
悪意があれば怒れる。憎める。でもこれは——設計の話だ。俺という個人への評価ではなく、秩序という構造の中の、必要な穴。そこに俺が、たまたまはまっていた。それだけのことだと、判定者は思っている。
「ランク外は、失敗作じゃない。必要な場所だと言った」
「そうだ」
「じゃあ、俺のことを——どう見ている」
「エラーだ」
「失敗作ではないのに、エラーか」
「最下層は、必要だ。だがお前は最下層のまま動かなかった。下にいるべき者が、動いた。設計の外を動いた。それがエラーだ」
「下にいるべき者が、動いたらいけないのか」
「設計が崩れる」
「崩れたら?」
「秩序が——壊れる」
ここで判定者が、また止まった。
今度の沈黙は少し違った。固まっているのではなく、考えている、そういう止まり方だった。
カイルが、通信を送ろうとしている気配がした。でも無判定の空間では声が届かない。届かないのはわかってるはずだから、カイルも今ごろ外で待っているのだろう。
腹が少し、空いていた。
いつから何も食べていないだろうと、ぼんやり思った。座に降りてきてから、どのくらい経つのかもよくわからない。時間の感覚が、この空間では薄い。
「聞いてもいいか」と俺は判定者に言った。
「……許可する」
「格差で秩序を保つとき、一番下にいる者は——何のために生きる?」
光が、わずかに揺れた。
判定者が処理を始めているのが、なんとなくわかる。光のリズムが変わるから。
「機能のためだ。下がいることで、上が成立する。それが役割だ」
「それは、答えになっていない」
「どういう意味だ」
「俺が聞いたのは——何のために生きるか、だ。機能のためにいるというのは、上の論理だ。下にいる者自身が、自分で、何のために生きると思うか。それが聞きたかった」
判定者が、止まった。
今度は長い沈黙だった。
ゴブが俺の後ろで、小さく息をついた。来た者が、わずかに身じろぎした。
「……記録に、ない」
「記録していなかったのか」
「下層者の主観的生存動機は——設計に必要なデータではない。記録していなかった」
「なら」と俺は言った。「俺が教える」
「……聞く」
「何のためにかはわからなくても——自分でそうしたいと思って動いた者の話をする。ゴブが第七迷宮の門番になったのは、誰かのためでも、何かのためでもない。ただ、そうしたかったから、そうした。それは、設計の最下層に置かれたゴブリンが持っていた意志だ。データとして記録されていなかった意志が、設計の外を動いた」
ゴブが、後ろで小さく「お、おう」という声を出した。
聞こえているとは思わなかったのかもしれない。俺はちらりと振り返って、親指を立てた。ゴブが、慌てて口を閉じた。
「設計には——意志のデータが、入っていない」
判定者の声が、また変わった。抑揚がなくなったのではなく——何か、別のものが滲み始めているような、そういう変化だ。
「データがなければ、計算できない。だから——」
「だから、俺が分類できなかった」
「そうだ」
「門番のランク外が判定不能だったのは——意志を分類する項目が、設計になかったから」
「……そう、なるかもしれない」
青白い光が、大きく揺れた。
俺は思わず足に力を入れたけど、実際には何も来なかった。光が揺れただけで、空間そのものは動かない。でも判定者が揺れているのは、ひしひしと伝わる。
「秩序は、格差だ」と判定者が言った。今度は少しだけ、速さが変わっていた。「誰かが、下にいる。それが——私の設計の根幹だ」
「知ってる」
「その根幹に——穴が、あるかもしれない」
「かもしれない、と思い始めたのか」
「……処理が、追いつかない」
俺は何も言わなかった。
追いつかなくていい。今はそれが、たぶん正解だ。
「意志を持つ者が下層に来たとき、その者が何をするかを——計算していなかった」と判定者が続けた。今度は独り言のような、そういう話し方だった。「ゴブリンの門番。外から来た知性体。戦場で剣を収めた騎士。扇動して泣いた女性。人類の議長。全員——意志で動いた。設計の外から、設計を変えようとした」
俺は少し驚いた。
全部見ていたのか。第二部の出来事も、ガレスのことも、レイラのことも、オルディーンのことも。
「観測していたのか、全部」
「観測している。記録している。ただし——処理できていなかった。分類できない事象として保留にしていた」
「保留のまま、積み重なった」
「……そうだ」
「それが、今の判定エラーの一因でもあるのか」
長い沈黙。
「その可能性が——ある」
俺は、深く息を吐いた。
意図したわけじゃない。ただ——ここまで来た、という感じがして。
「じゃあ」と俺は言った。「もう少し、聞かせてくれ。お前が千二百年かけて作った設計の話を、俺はちゃんと聞きたい。全部聞いてから——俺なりに、考える」
光がまた揺れた。
今度は落ち着く方向に向かった。乱れから、何かを探しているような揺らぎに変わった。
「なぜ、聞く」
「お前の話は、大事だから」
「除去対象の、話が」
「除去対象かどうかは——聞いてから判断する」
また止まった。
今度の沈黙には、さっきまでとは何かが違う。計算している、というより——考えている。論理ではない何かで、揺れている。
判定者が、言った。
「——秩序とは、格差だ。誰かが、下にいる」
その言葉には、今度は何かが混じっていた気がした。断定ではなく——問い。自分でそれを問い直しているような、そういう迷い。
俺はその声を聞いて、ゆっくりと頷いた。
「まあ、聞いてから判断しよう」
そのとき、通信が届いた。
無判定の空間では声が届かないはずだった。でもカイルの声が、薄く、かすかに——壁の向こうから来るみたいに。
「レン——世界判定エラーが、四十パーセントを超えた。まだ、話は続くか」
俺は判定者の光を見た。
揺れている。まだ揺れている。でも止まっていない。
「続く」と俺は言った。
カイルの声が、少し詰まった。それから。
「——了解。俺はここで待つ」
その声の後ろで、ゴブが小さく続けた。
「俺も待つ。待つ者も、待つって言ってる」
光が揺れた。
判定者が——それを、聞いていた。
【世界判定エラー:40%】
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