第280話「聞かれたことのない存在」
「なぜ、世界を分けたんですか」
問いを投げた後、俺はただ待った。
急がない。
交渉の席で一番してはいけないのは、沈黙を怖がって先を埋めることだ。それは七年かけて学んだ、ほぼ唯一のルールだった。
青白い光の中で、どれくらい経っただろうか。
この空間には重力がないから、時間の感覚も曖昧になる。カイルとゴブが後ろで息を詰めているのが、気配だけで伝わってくる。来た者は俺の右側に、静かに浮かんでいた。
俺の問いは、まだ空気の中に漂っているような気がした。
千年かけて誰にも問われなかった問いは、着地するのに時間がかかるらしい。
——そして、声が来た。
「なぜ。お前は。聞く」
答えではなかった。
問い返しだった。
「聞けば、意図がわかる。俺にとってそれが一番先だから」
「違う」
短く、はっきりと否定された。
「意図がわかれば、分類できる。分類してから。判断する。それが正しい順序だ」
「俺は分類しない」
「なぜ」
「力がないからかな」
少し考えてから、付け加えた。
「正確に言うと——分類した結果を使う手段が、俺にはない。だから聞く。聞けば、相手が自分で動いてくれる。俺の力じゃなく、相手の力で」
判定者の声が止まった。
「……処理不能」
データが足りない、という意味に聞こえた。否定ではなく、保留だ。
「つまり。お前は。力がないから。聞くのか」
「そうとも言える」
「それは。欠陥だ」
「かもしれない」
否定しないでいると、判定者の声がまた止まった。
光が規則的なリズムを乱し、不規則に揺れた。
「レン」
ゴブが小声で言った。
「答えてないんじゃないか、それ」
「答えてる。欠陥かどうか聞かれたから、かもしれないって答えた」
「……俺には意味がわからない」
「正直に言ってくれてありがとう」
カイルが静かに割り込んだ。
「こっちに入る前、地上は三十六パーセントだった。今どうなってるかは——まだ通信が届かない」
「今は判定者だけ気にしよう」
「本当に場所を選ばないな、お前は」
来た者が言った。
「私たちは。三百年前。ここで。止まった」
その声に、俺は少し振り向いた。
「止まった、というのは」
「分類不能と。判定された。そのまま。封印された。理由を。誰も問わなかった」
判定者の空間に、その言葉が静かに染み込んでいくような感覚があった。
「あれが来たとき」
判定者が言った。
「未知の構造体。分類不能。判定。封印。それが正しかった」
「正しかった、と思ってる?」
「設計通りに機能した」
「分類して封印して——三百年経った。その間に判定者は、何を得ましたか」
「……得るという概念が。設計外だ」
「設計外だと」
「判定する。次の質問を」
「待ってください」
俺は遮った。
「得るという概念が設計外、ということは——何かが変わることを、あなたは設計に含めていないってことですか。三百年前も今も、同じ設計のまま動き続けている?」
沈黙。
「分類して封印して、三百年後も設計は同じで、得るものもない。それが——正しいんですか」
長い間があった。
ゴブが俺の袖を引いた。
「怒らせてるんじゃないか」
「怒れるなら、まだいい」
「どういう意味だ」
「怒れるってことは、感情があるってことだ。困ってるのは——怒る前に処理が止まってる場合だ」
来た者が静かに言った。
「判定者は。今。止まっている」
確かに声が来ない。
空間の光が、さっきと違う揺れ方をしていた。
規則的なリズムが崩れている。乱れ方が、さっきより大きい。
カイルが言った。
「あるいは——初めての問いに詰まってるか」
「どちらにしても、待つしかない」
ゴブが腕を組んだ。
「こういうとき、レンはどうするんだ」
「待つ」
「それだけか」
「急いで埋めると、相手の考える時間を奪う。欲しいのは相手の言葉だから、奪ったら意味がない」
ゴブはしばらく考えてから、静かに言った。
「……レンはずっとそうやってきたんだな」
「そうかどうかはわからないけど、そうしてきた」
「違いがあるか」
「ある。俺はたまに急かして失敗してる」
来た者が小さく声を出した。
笑っているのかもしれなかった。
判定者の空間でそういう声を聞いたのは初めてで、俺は少しだけほっとした。
それから判定者の声が来た。
低く、これまでより遅く。
「……聞く、という行為の定義を。求める」
「相手が言いたいことを。最後まで聞くこと」
「目的は」
「ない場合もある」
「目的のない行為は。設計外だ」
「じゃあ、目的がある場合もある、に直します。目的はさまざまで——相手を理解したい、判断材料がほしい、ただ聞きたい、いろいろある」
「それは。多変数だ。収束しない」
「しなくていいと思ってる」
「なぜ」
「収束させると、聞けなくなるから」
「……」
「あなたは分類して収束させる。俺は聞いて広げる。どっちが正しいかじゃなくて——広げたほうが、相手から出てくるものが増える。そっちのほうが俺には使いやすい」
「使いやすい。という評価基準が。分からない」
「何かを分かろうとするときに、どっちがより多くの情報を得られるか、ってことです」
「分類のほうが。情報の整理が速い」
「でも分類で捨てる情報がある」
「捨てる情報は。不要な情報だ」
「誰が決めますか、不要かどうかを」
沈黙。
「……私が。決める」
「分類する前に、決まってる?」
「……」
「分類する前から、どの情報を捨てるか決まってるとしたら——分類してるのは情報じゃなくて、設計の都合じゃないですか」
判定者の光が大きく揺れた。
ゴブが思わず一歩引いた。
「レン——」
「まだ大丈夫」
「まだ、ってどういう意味だ」
「攻撃じゃない。考えてる」
来た者が静かに言った。
「私たちも。初めてレンに会ったとき。こうなった」
「こう、って?」
「止まった。言葉を返せなかった。聞く、という行為に。対応の方法がなかった」
その言葉に、俺は少し胸が詰まる感覚を覚えた。
来た者が初めてレンに会ったとき——あれは、まだ二人が封印の内と外にいた頃の話だ。分類された側と、分類できない側が、初めて対話しようとした夜のことだ。
判定者の声が来た。
「設計より先に。情報があるとしたら。設計が機能しない」
「そうですね」
「設計が機能しなければ。秩序が崩れる」
「崩れてみてから考えることもできる」
「それは——」
声が途切れた。
詰まり方が、いつもと違った。
言葉が出てこないような、探しているような止まり方だった。
「……受け入れられない」
「なぜ」
「崩れると。また。滅ぶ」
そこに、初めて何かが混じっていた。
論理とは違う何かが——機能の外にある何かが、声に滲んでいた。
「以前。世界は。滅んだ。格差のない混沌で。二度と繰り返さないために。私は作られた」
俺は聞いた。
ゴブも、カイルも、来た者も、口を挟まなかった。
「だから分けた。上と下を。強いものと弱いものを。知性体と非知性体を。人と魔物を。秩序とは格差だ。誰かが下にいることで、秩序は機能する。それが正しかった」
「あなたが、その設計を一人で担ってきた」
「そうだ」
「千二百四十七年間」
「そうだ」
「誰にも——聞かれなかった?」
沈黙が来た。
今日一番長い沈黙だった。
光が揺れ続けた。波のようなリズムで、絶え間なく。
「……聞かれたことが。ない」
その声は、最初の声と少し違った。
何が違うかは言葉にしにくい。
でも確かに違った。
論理的な処理ではなく、もっと奥から来るような——そういう違い方だった。
胸の中で、何かが静かに揺れた。
七年前、俺が初めて「まあ、聞いてから判断しよう」と思ったのは、ゴブが扉を叩いたときだった。
誰にも聞いてもらえなかった者が、扉を叩いた。
俺が開けた。
今、俺は別の扉の前に立っている。
「千二百四十七年間」
俺は繰り返した。
「その間、あなたはただ分類し続けた。誰にも意図を問われず、誰にも理由を尋ねられず、ただ機能し続けた。誰かが「なぜそうするのか」と聞いた夜は——一度もなかった」
「……そうだ」
「今、俺に問い返したのは——なぜですか」
「……」
「「なぜ、お前は聞く」と聞いたのは——俺の行動の意図を知りたかったからじゃないですか」
判定者の声が来なかった。
光が揺れる。
カイルが息を詰めるのが聞こえた。
ゴブが「レン」と小声で呼んだ。
「意図を知りたいなら——それを聞く、というのが」
俺は言った。
「聞くことの、始まりじゃないですか」
光が大きく揺れた。
ゴブが俺の腕をつかんだ。
「レン——」
「来る」
声が来た。
「……なぜ、お前は聞く。分類し返せばいい」
答えではなかった。
問いだった。
でも最初の問いとは、少し質感が違った。
最初の問いは機能的な確認だった。
今の問いは——困惑に近かった。
「分類し返せばいい」
俺は繰り返した。
「それをしないのは、なぜか。理解できない。お前には力がないと言った。欠陥だと言った。お前はそれを認めた。なぜ欠陥のある方法を続ける」
「欠陥があっても、機能するから」
「機能するなら。より優れた機能で代替できる」
「でも、相手が変わる」
「……」
「俺が分類したら、相手は分類された側になる。俺が聞いたら、相手は話した側になる。同じ情報でも、相手の中で違う意味になる。その違いが——俺には大事なんです」
「意味は。情報ではない。不確定要素だ」
「そうです」
「不確定要素は。排除する」
「でも、その不確定要素が——あなたの理解できないことを動かしてきた」
「……理解できないことを。動かす」
声が止まった。
「……意味が、分からない」
その言葉が、空間に広がった。
千二百四十七年間、何でも分類してきた存在が——分からないと言った。
カイルが動いた。
「レン」
「ああ」
「通信が——少し戻ってきた」
「何パーセントだ」
「……三十四だ」
俺は数字を聞いてから、判定者の光を見た。
三十六から三十四へ。
中に入ってから、二パーセント下がっている。
「処理が止まったから、か」
カイルが静かに言った。
「問いに詰まっている間、崩壊も止まったか。あるいは——少し、戻ってる」
ゴブが息を吐いた。
俺は何も言わなかった。
判定者が問い返してきたのは——分類できなかったからだ。
分類できなかったから、機能を止めた。
機能を止めたから、世界のエラーも止まった。
「まあ」
俺は言った。
「まあ——聞いてから、判断しよう」
来た者が静かに言った。
「その言葉を。三百年前に。聞きたかった」
「三百年後に届いてよかった」
「……届いた」
光が揺れた。
大きく、ゆっくりと。
「……意味が、分からない」
【世界判定エラー:34%】
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