第278話「声の正体」
無判定の空間に踏み込んだ瞬間、足の裏の感触が変わった。
地面がある。確かにある。だが、それがどんな素材で、どんな色で、どれくらいの硬さなのかが、なぜかわからない。知覚はしている。踏んでいる。でも分類できない。
「……変な感じだ」
ゴブが小声で呟いた。
俺も同感だった。
ここ数日、深層を降りるにつれて壁の素材が変わり、光の質が変わり、空気の重みが変わってきた。それでも一応、「壁」「光」「空気」という言葉でくくれた。だが今ここは違う。名前を当てはめようとすると、何かが滑る。
俺の右隣で、来た者が静かに言った。
「ここは……判定者が、自分の外に作った場所だ」
「外に?」
「あれの内側は、全部が分類されている。名前があり、ランクがある。でも外は——分類できない」
来た者の声には、聞いたことのない色があった。懐かしさとも怖さとも違う、もっと古い何かだった。
「三百年前、俺たちが来たときと同じだ」
それだけ言って、来た者は黙った。
スキルの表示が、待機状態のまま動かない。
【迷宮管理Lv.9:接続——待機中(判定域外につき、通常機能停止)】
Lv.9まで上がったこのスキルが止まるのは初めてのことだった。ドランのときも、ヴォルトのときも、外から来た者との交渉のときも、何かしら表示が出ていた。それが今は、止まっている。
「カイル」
「わかってる。転送できない。エラー域だ」
カイルが苦い顔で手首の通信石を見た。
「地上は?」
「繋がらない。入る前に確認した数字しかわからない」
入る前。それはつまり、三十六パーセントという数字だった。それからどれだけ上がったのか、あるいは下がったのか、今の俺には知る手段がない。
「急いだほうがいい、ということか」
「だな」
カイルが短く言った。
ゴブが前を見た。
「……奥、何か、見えますか」
俺も目を細める。
あった。
光というより、輪郭だった。この空間の中に、一点だけ濃いものがある。遠くはない。百歩も歩けば届くかもしれない。
「行こう」
歩くたびに、何かが変わった。
周囲の気配が変わるのではなく、俺の内側が変わる感覚だった。七年間身に染みついたものが、一枚一枚剥がれていくような気がした。
「剣士」「門番」「調停者」——そういう言葉が、ここでは意味を失っていく。カイルもゴブも来た者も、ただ「誰か」として俺の隣にいる。
悪くなかった。
「……これが、ただの人間か」
思わず声に出た。
ゴブが横目で俺を見る。
「レンは、ずっとただの人間でしたよ」
「そうだな」
俺は苦笑した。それはそうだ。スキルが止まっているだけで、俺は何も変わっていない。七年前、墓場の門の前で夜明けを待っていたあのときから、俺はただの人間だった。
だから来れた。
そういう気もした。
五十歩。七十歩。
輪郭が、近づくにつれて形を持ち始めた。
丸くも四角くもない。建物のようでも、生物のようでもない。強いて言えば、巨大な「静寂」が一点に集まったような、そういうものだった。
「……デカい」
ゴブが呟いた。
確かに、大きかった。大きいというより、密度がある。この空間のどこにも素材がなく、名前がなく、重さが感じられない中で、その一点だけが全てを持っていた。ありとあらゆる「分類」が、そこに集まっている。
俺の胸が、じわりと重くなった。
「……こんなところに、ずっといたのか」
声に出すつもりはなかった。
百歩。
止まった。
俺たちは、座の前に立っていた。
正確には、「座」という言葉が正しいのかわからない。王都の議事堂のような椅子があるわけでも、神殿のような台座があるわけでもない。ただ、「中心」があった。この空間の、全ての情報が収束していく一点が。
足の裏が冷えている。靴越しでもわかる。それだけが、確かな現実だった。
俺は三歩、前に出た。
ゴブが腕を伸ばしかけて、止まった。カイルが小声で「行け」と言ったのを聞いた。来た者は何も言わなかった。
もう一歩。
「——来た」
声がした。
場所がなかった。上でも下でも左でも右でもない。俺の耳に届いたというより、俺の認識の中に直接入ってきた、という感じだった。
低くもなく高くもない。男でも女でもない。温かくもなく冷たくもなく——ただ、古い。それだけがわかった。
千年分の「古さ」が、声に乗っていた。
「……来た」
俺は繰り返した。
それ以外に何を言えばいいのかわからなくて、ただ事実を言い返した。
沈黙。
それが長いのか短いのか、この空間では計れなかった。一分かもしれないし、一秒かもしれない。
やがて声が戻ってきた。
「分類する。ジョブ——門番。ランク——外」
俺は眉を上げた。
「知ってる」
「記録済みだ。七年前、ギルドを通じて判定した。スキル種別——迷宮管理。習熟度——現在Lv.9。——エラー」
「エラー?」
「Lv.9は、存在しない規格だ。設計外の進化を確認した。よって——除去対象として記録済みだ」
事務的だった。
感情がない。いや、感情という概念そのものがない、という感じだった。ゴブが扉をノックしたあの夜の俺は、少なくとも「怖い」があった。だがこの声には、怖いも怖くないもない。ただ「判定する」があるだけだった。
俺はその声を聞きながら、奇妙に落ち着いている自分に気づいた。
怒りもなかった。怖くもなかった。
なぜかというと——この声は、これまで俺が話してきた誰とも似ていなかった。ゴブは怖がっていた。ドランは寂しかった。ヴォルトは焦っていた。ガレスは傷ついていた。レイラは燃えていた。オルディーンは重さを背負っていた。
でもこの声には、何もない。
何もないように見える何かが、一番難しい。
「千年、ずっとここにいたのか」
「……質問の形式は、受け付けない」
「俺が質問してるんだ。受け付けてほしい」
また沈黙。
今度は短かった。
「……千年と二百四十七年、この座に存在している。正確な計算だ」
「一人で?」
「単独稼動だ。設計がそうなっている」
一人で。
千年と二百四十七年。
その言葉を聞いた瞬間、後ろでゴブが息を詰めるのが聞こえた。俺は振り返らなかった。視線を声の方向——「中心」に向けたまま、次の言葉を探した。
ゴブが三百年間ドランと話せなかったと知ったときの、あの重さに似ていた。いや、もっと長い。三倍以上長い。
「……誰かと話したことは?」
「人間もしくは知性体が接触を試みた記録は、十七件ある。全件、判定して除去した」
「除去」
「そうだ。接触可能圏に入ったが最後、全員を適切なランクに分類し返した。それが俺の機能だ」
俺は少し考えた。
「じゃあなんで俺は除去されていない」
声が止まった。
長い止まり方だった。今度こそ、一分以上あった気がした。
「……処理中だ」
「まだ処理中なのか」
「お前は分類できない」
その言葉に、俺は思わず噴き出しかけた。
七年前にも言われたことがあった。「門番、ランク外」。あのときは腹の底が静かに沈んだ。だが今は違った。同じ言葉が、別の響きを持っていた。
「分類できないものは、どうするんだ」
「……設計上、想定外だ。保留項目に置いている」
「つまり、俺は保留されてる」
「現時点でそうだ」
俺はゆっくり息を吐いた。
保留。七年前の「ランク外」と同じ扱いだった。あのころは追い出された気分になったが、今は思う——保留ということは、まだ聞いてもらえる余地があるということだ。
「一つ聞いていいか」
「質問は——」
「受け付けてほしい。それだけ頼む」
「……」
沈黙。
やがて、声は答えた。
「一件のみ、許可する」
俺は一呼吸置いた。
後ろのゴブが、息を飲む気配がした。カイルが身じろぎした気配がした。来た者が静かに待っている気配がした。
「あなたは、なんのために世界を分けたんですか」
声が止まった。
今度の止まり方は、これまでとは違った。処理中でも保留でもなく——何かが、揺らいでいる感じがした。
この「中心」が、今まで一度も受けたことのない種類の問いに、どう対処すればいいか、わからなくなっている。
俺にはそう見えた。
「……その問いは——」
声が、途切れた。
「……設計外だ」
それだけ言って、声は止まった。
沈黙が続いた。
俺は待った。急かさなかった。急かす理由がなかった。世界判定エラーは上がり続けているかもしれないし、地上では混乱が続いているかもしれない。だが今この場で俺にできることは、待つことだけだった。
それが門番の仕事だと、七年かけて覚えた。
そのとき、カイルの通信石が振動した。
繋がった。
「レン——聞こえるか」
カイルが受けた。
「フォルから転送だ。世界判定エラー、三十四パーセント。——少し、下がっている」
俺は振り返らずに呟いた。
「到達した、と思ったんだろうな」
「え?」
「俺たちが座に着いた。だからエラーが一時的に落ち着いた。判定者が——こっちを見ているから」
「……そういうことか」
カイルが低く言った。
俺は前を向いた。
中心は、まだそこにある。今も「除去対象」と判定しているはずの俺を、処理できないまま保留にしている。千年の仕組みが、初めて迷っている。
「なぜ来たか聞いたな」
俺は声を出した。
返事はなかった。
「もう一度だけ言う。あなたの話を、聞きに来た」
沈黙。
しばらくして、声が返ってきた。
さっきより、わずかに遅い。
「——お前は、除去対象だ」
「知ってる」
声が止まった。
止まって、また動いた。
「なぜ、来た」
【世界判定エラー:34%】
その表示が、カイルの通信石の端に映っていた。
下がっている。でも、まだここからだった。
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