第277話「無判定の空間」
「来た者、あとどのくらいだ」
問いかけると、先頭を歩いていた来た者が振り返らずに足を止めた。
七層目を抜けてから、来た者の歩き方が変わっていた。迷いのない、まっすぐな歩みから、一歩ごとにわずかに確かめるような動きへ。床の質感を足の裏で感じ取ろうとするような、慎重さだった。
「近い」
短い答えだった。
「どのくらいかわかるか、とは聞いていない」
来た者がゆっくり振り返った。
「同じではないか」
「違う。お前が感覚として近いと知っているかどうかを聞いている」
後ろからゴブが「ですね」と小さく相槌を打った。正確な距離が知りたかったわけじゃない。来た者が地上の切迫感を共有できているかを確認したかっただけだ。
来た者はしばらく考える素振りを見せた。
「あとひとつ、層を超える。その先に——座がある」
「ありがとう。それだけわかれば十分だ」
礼を言うと、来た者はまた黙った。礼を言われることへの反応は、いつもこうだった。拒絶でも困惑でもない。ただ——処理に時間がかかる、という感じ。何百年もの間、感謝される立場ではなかったのだから、当然といえば当然だと思った。
カイルから通信が入ったのは、それから十分ほど後のことだった。
「エラー率、また上がった」
声質がざらついていた。通信の状態が悪いというより、カイル自身の疲労が声に滲んでいるように聞こえた。
「今いくつだ」
「三十六パーセント。さっき確認したとき三十一だったから、五ポイント上がってる」
【世界判定エラー:36%】
数字を聞いてから歩速をわずかに上げた。壁の素材が変わってきたことは歩きながらでも気づいていた。七層目の格子状の青い光がいつの間にか消えて、今は何もない白に近い色の通路を進んでいた。
「臨界の五十二パーセントまであとどのくらいだ」
「三時間か四時間か——その辺り。でも「このペース」で収まる保証がない。さっきから加速傾向にある」
「わかった。こっちはあとひとつ層がある」
「ひとつってどのくらいかかる」
「さっきより早い、で頼む」
「……そういうことだよな」
カイルは何か言いかけてやめた。心配しているのは声でわかった。でも今は心配より情報だ。俺がここで「大丈夫だ」と言ったとして、それが何の役に立つかといえば何の役にも立たない。
「地上の状況を教えてくれ」
「ジョブ判定が出ない子供が今朝から三十人を超えた。バルタ、イル、ドゥレの三都市では判定所の前に群衆が集まってる。一部は機能停止してる」
「暴動は」
「昨日よりはマシだ。でもそれは運がいいだけだと思う」
「フォルは」
「第十七層で状況を監視してる。さっきから連絡がほとんどない。集中してるんだと思う」
「他に何かあるか」
「……フォルから伝言がある」
俺は一瞬だけ足を止めて、また歩き出した。
「言ってくれ」
カイルがひと呼吸おいた。
「「焦るな。焦ったときのレンは、聞き方が変わる」」
俺は短く笑った。笑い声ではなかったかもしれないが、体の力が少し抜けた。
「伝えておいてくれ。わかってる、と」
「伝える。——気をつけろよ」
通信が切れた。
ゴブが「フォルさんらしい」と言った。
「そうだな」
「でも正しいです。レンが焦り始めると——眉間に皺が増える」
「増えてるか今」
「……少し」
「お前が言わなくてもわかってる」
「じゃあ言わなければよかったですか」
「いや、言ってくれ」
「わかりました」
ゴブの声が少しだけ柔らかくなった。深い場所にいても、こういうやりとりができる。それが、七年かけて積み上げてきたものだと思った。
しばらく進んだところで、来た者が立ち止まった。
「ここから先は——私も、久しぶりだ」
「久しぶり?ここに来たことがあるのか」
「一度だけ。封印の前に」
封印の前。三百年以上前のことだ。来た者がここを歩いたのは、まだ「待つ者」でも「来た者」でもなく、ただ名前のない何かとして存在していた時代になる。
「そのとき——何があったんだ」
来た者はすぐには答えなかった。少し時間をかけて、慎重に言葉を選ぶ気配があった。
「分類された」
「分類された」
「外から来た者、として。その瞬間を——今でも覚えている。感覚として。「処理不能」と言われた気がした。言葉ではなかったが——そういう意味だと、わかった」
俺はバルタの新しい迷宮に入ったときを思い出した。遠い声が聞こえた。「ジョブ:門番。ランク外。エラー」という声。
「俺も同じことを言われた」
「知っている」
「知ってたのか」
「あの声はいつも同じことを言う。分類できないものに対して、同じ反応をする。ずっとそうだった」
来た者の言い方は淡々としていた。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ事実として述べている。何百年分もの馴染みから来る静けさだと思った。
「怖くなかったか。最初に分類されたとき」
「怖かった。今は——」
「今は?」
来た者はそこで止まった。
「……まあ、聞いてから判断しよう、と思う」
俺は足を止めた。
来た者が口癖を使った。
感情を言い表す言葉として、自分のものとして。
「……お前、それ自分の言葉として使ってるじゃないか」
「そうではないか」
「最初に誰から聞いた」
「お前からだ」
「使いすぎだ」
「聞きすぎたのか。だが——一番意味があると思った言葉だった」
俺は返事をしなかった。ゴブが「レン、後で泣かないでくださいよ」と言った。
「泣かない」
「目が少し、光ってますよ」
「明かりのせいだ」
「ここ、特定の光源がないですよね」
「……うるさい」
カイルが通信越しに「何があった」と聞いてきたので、「何もない」と返した。「絶対何かあった」と言われたので通信を一度切った。
さらに進むと、壁の性質が変わり始めた。
白、という言葉では正確じゃない。白には光がある。でも今俺たちが歩いている通路は——光も色も、そういうものが全部「ない」という質感だった。何もない、ではなくて、何もないことが確かにある、という感じだった。
「壁が……違う」
ゴブが言った。
「素材じゃないですよ。なんか——性質が、変わった気がします」
ゴブの言い方は正確だった。壁は壁として存在している。でも何かが違う。七層目の格子の青い光が「分類の網」だとすれば、今俺たちが入りかけているのは——その網が届かない場所だ。
来た者が静かに言った。
「感じるか。体に」
俺は足の裏に意識を集中させた。
確かに何かがあった。軽さ、というより——何かが「ない」という感覚。ずっと肩にかかっていた重さが、少しずつ薄れていくような。
「……感じる」
「それが、無判定の空間の入口だ」
一歩踏み込んだ瞬間に、何かが消えた。
感覚として、はっきりと。
体の外にあって俺を取り囲んでいた何かが——スッと抜けた。
【迷宮管理Lv.MAX:判定領域外——スキル待機状態】
スキルの表示が一瞬だけ浮かび上がって、それから薄くなって、消えた。完全に消えたわけではない。遠い場所に行ってしまった、という感じだった。電燈が暗くなったときの室内みたいに、あることはわかるけど機能していない、という状態。
「スキルが——」
「俺もだ」
カイルの通信が繋がっていた。
「こっちでも数値が消えた。エラー率も、さっきの三十六で止まったまま出てこない。接続が不安定なんじゃなくて、判定そのものが届いていない」
「ここは判定者が判定を「保留」している空間だ」
来た者が言った。
「保留」
「何も分類しない。何も決めない。ただ——在る。それだけの場所だ」
「意図的に作ったのか」
「作ったのか——あるいは、判定できないものが集まって、できてしまったのか。私にもわからない」
ゴブが周囲を見回していた。
「ジョブが——見えない」
「どういうことだ」
「俺、人と話すとき、何となく相手のランクがわかるんです。種族ランクとか、強さとか。迷宮の中でも、外でも。でも——今は何も見えない。来た者のことも、カイルさんのことも、なんなら——レンのことも」
ゴブの声は静かだった。困惑というより、不思議がっているような声だった。初めてのものを前にしているときの声だった。
「不便か」
「……わからないです。ずっとあったから」
そうだよな、と思った。ゴブは生まれたときから種族ランクの中で生きてきた。俺は七年前のあの日から、ずっと「門番・ランク外」という括りの中にいた。どちらも、分類されることが当たり前の世界にいた。
でも——
今の俺は。
落ち着いていた。
なぜか、不思議なほど、落ち着いていた。
「レン」
ゴブが俺を呼んだ。
「どうした」
「顔が——穏やかです。こんな状況なのに」
「そうか」
「怖くないんですか、ここ」
俺は少し考えた。
「怖くないわけじゃない。でも——落ち着く」
「なぜですか」
「わからん」
正直な答えだった。でも言葉にしながら、少しずつ輪郭が見えてきた気がした。
七年前のことを思い出した。判定の台に立って、光が当たって、頭の上に「門番・ランク外」という文字が浮かんだ。周りの空気が変わるのを感じた。ギルド長の困ったような顔を覚えている。カイルの「生きてはいけるんじゃないか」という言葉も。
「ランク外」は烙印だった。
その後の七年間、俺はずっとそれを背負っていた。意識していないつもりでいた。戦ったつもりもなかった。ただ、常にそこにあった。「ハズレジョブが」という目線が。「ランク外のくせに」という空気が。言葉にならないまま俺の周りに漂い続けていた何かが。
でもここは、違う。
「ランク外がない。ハズレもない」
俺は言った。
「Aランクも、勇者も、剣士も、調停者も、門番も——全部ない」
ゴブが「……そうですね」と小さく言った。
「ここには何もない。だから落ち着く。それだけ俺は——ずっとそのどれかに縛られてたんだと思う」
来た者が、歩みを止めずに言った。
「この空間は——分ける前の場所だ。全てが混ざっている。違いがない。良いも悪いも、上も下も、優れているも劣っているも——ここでは意味をなさない」
「ただ、在る、だけか」
「そうだ。ただ、在る、だけだ」
カイルが通信越しに静かに言った。
「……羨ましいな、少し」
「お前も来いよ」
「俺は地上で集計係してる。来られない」
「そうだったな」
「でも——聞けてよかった。それだけ言いたかった」
カイルが通信を切った。
俺は少しの間、何もない白い広がりを眺めた。
どこまでが床でどこからが壁か、境界がはっきりしない。でも足元は確かにあった。立っていられた。それで十分だった。
来た者が前方で立ち止まった。
「ここから先が——座への入口だ」
「わかった」
「怖いか」
来た者に聞かれた。珍しかった。来た者が俺の感情を聞いてくることは、それほど多くない。
「少し」と答えた。「でも——」
「でも?」
「まあ、聞いてから判断しよう」
思わず出た。
ゴブが「出た」と言った。
「うるさい」
「でも、それが聞きたかったんですよ。ずっと」
ゴブの声が笑っていた。暗い空間の中で、表情の細かいところまでは見えなかった。でも七年かけて覚えた笑い方だから、わかった。
来た者が「それを言うのを、待っていた」と言った。
「お前も待ってたのか」
「あの言葉を聞くと——進める気がする。この三年、ずっとそうだった」
俺は少し動けなかった。三百年以上封印されていた存在が、俺の口癖に「進める気がする」と言っている。言葉を継ぐべきか、継がないべきか——いや、ここは継がないのが正しかった。
「……行くか」
「行こう」
来た者が先を歩き出した。ゴブが隣に並んだ。カイルの通信が弱くなりながらも繋がっていた。「まだいるか」と確認したら「まだいる」と返ってきた。
白い空間の先に、何かが見えた気がした。
見えたというより、感じた。重さのようなもの。千年分の、分類の重さのようなもの。でもそれはもう少し先の話だ。
今はただ、歩く。
スキルなしで。ランクなしで。ハズレでも当たりでもなく、ただのレン・アシダとして。
ここには、ハズレも当たりも、ない。
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