第276話「待つ者の告白」
七層目は、記憶じゃなかった。
これまでの層にはそれぞれ、過去の痕跡が刻まれていた。墓場の門のあの夜。ドランの光。王都の長い廊下。セルウィンが鎚を持った査問会の議場。レイラが言葉を絞り出した夜。それぞれが俺たちの生きてきた記憶だった。
七層目にはそれがない。
壁は石ではなく半透明の何かで、向こう側に何かがあることを示すように光を透かしている。自ら発光しているわけではなく、どこか遠くからの光を受けて反射しているだけだ。床には細い格子状の線が走っていて、一定のリズムで光っては消えた。水の底に沈んだ星みたいな、青い光だ。
空気の密度が変わっている。下に向かうほど重くなっていくのがわかる。息を吸うたびに、少しだけ抵抗がある。体が気づいている——ここは、これまでとは質が違う場所だ、と。
「エラー率、どうなってる」
俺が言うと、カイルが腕の通信装置を確認した。
「三十一パーセント。さっきより四ポイント上がってる」
【世界判定エラー:31%】
上昇が止まっていない。地上では今も、誰かのジョブが書き換わっている。農夫が「勇者」になって戸惑っている。子供に「判定不能」が出て、親が青ざめている。判定所の前で人々が声を荒げている。それが今この瞬間も続いていて、俺たちはここを降りている。
「急いだほうがいいな」
ゴブが言った。
「でも、急ぎすぎてもダメだ」
俺が返すと、ゴブが「わかってますよ」と不満げに言う。わかってる。ただ言わずにいられなかった。扉の前に立って、何も考えずに叩いたら——それはただの闖入だ。
来た者が、止まった。
俺より半歩前を歩いていたその存在が、突然足を止めた。白い輪郭だけで形を成す身体が、床を踏みしめたまま動かない。
「来た者」
ゴブが呼ぶ。
返事がない。
足元の格子紋様を見ている。
「知ってるのか、ここを」
俺が聞いた。
来た者は、ゆっくりとうなずいた。一度だけ。
「境界だ」と来た者は言った。「判定者が作った境界の一つ。俺たちが最初に——あれと接触した場所に、似ている」
「似ている、というのは」
「完全に同じではない。でも構造が同じだ。光の走り方、素材の質感、空気の重さ。俺たちは三百年、深層にいた。あの頃の感触は忘れない」
カイルが俺の隣に来た。小声で「封印されてたときの場所か」と言う。
「そうだ」
来た者の声に、普段はない何かが混じっていた。抑揚のない声は変わらない。でも——重さが違う。普段と比べると、少しだけ沈んでいる。
スキルが反応していた。
【迷宮管理Lv.7:試行中——接続を試みています】
七年間、この表示は変わっていない。ずっと試行中のまま——でも今は、その文字が少しだけ違う質感で見える。近づいている、と言っているような気がする。
「話してくれるか」
俺が言うと、ゴブが俺の腕に軽く触れた。話したくなければ話さなくていい、という意味の触れ方だ。俺もそのつもりだった。聞くことは強制できない。強制したら、それはもう交渉じゃない。
来た者は短い間の後、格子紋様から目を上げた。
「……最初に来たとき、俺たちはこの世界を知らなかった」
静かに、始まった。
「ジョブも、ランクも、迷宮という構造も。何も知らなかった。ただ、ここに「在る」という感覚があった。何かが、この世界の内側に積み重なっている——その気配を感じて、近づいた」
「近づいたら、分類された」
ゴブが低く呟く。「分類……」
「そうだ。判定者には、俺たちを見た瞬間に何かを判定する仕組みがあった。あれの言語は俺たちには読めなかったが、意味だけは伝わった。「外来不明体。分類不能。隔離処置」——そういう内容だ、と」
来た者が床を見た。
「俺たちの反応を待たずに、それは実行された。「分類不能」であれば「隔離」する——それが手続きだったんだと思う。あれは、俺たちを傷つけようとしたわけじゃない。追い払おうとしたわけでもない。ただ——仕組みが、そう動いた」
「わからないものを、封印した」
俺は言った。
「そうだ」と来た者は答えた。「「わからない」という状態を処理するために、あれには「隔離」という手順しかなかった。別の手順を持っていなかった。「聞く」という選択肢が——そもそも、なかった」
静かな言葉だった。
でも、その意味は俺にはよくわかった。
「聞く」がなければ、「わからない」は永遠に「わからない」のままだ。システムは「わからないもの」を放置できないから、封印する。それ以外の手順を持っていなければ、それ以外の選択ができない。
「三百年は——長かったか」
俺が聞くと、来た者は少し間を置いた。
「長さを感じなかった。眠りの中では時間が動かない。目が覚めて初めて、時間が過ぎたとわかった。ゴブから三百年が経ったと聞いたとき——実感がなかった。俺の中では、封印された直後のままだった」
ゴブが「……それは」と言いかけて止めた。
「辛いとか、苦しいとか——そういうことではない」と来た者は言った。「ただ、戸惑った。封印された瞬間と、目が覚めた瞬間の間に、世界が変わっていた。自分が覚えていない時間に、多くのことが起きていた」
「その間に——俺たちが積み重ねた」
ゴブが静かに言った。
来た者がうなずいた。「そうだ。お前たちが「エラー」を積み重ねた。「分類できない事例」が増え続けた。封印の構造が変質した。俺たちはその変質の隙間から、少しずつ上に来ることができた。あれの設計の中で——俺たちは出てこられた」
カイルが「じゃあ封印が解けたのも——判定者の設計の結果なのか」と言った。
「直接的な意図はなかったと思う。でも、そういうことだ」
「皮肉だな」
俺は口に出した。「俺たちが「エラー」を積み重ねたことで、「エラー」扱いされていた存在が目を覚ました。そして今、俺たちはそのエラーを生み出した根元に会いに行っている」
「皮肉だが」と来た者は言った。「俺は——そうなってよかったと思っている。俺たちは長く眠っていた。目が覚めて、お前と話せた。その前の三百年に怒る気力は、もうない。あったとしても——あれに向ける必要はない。あれはただ、持っている手順を実行しただけだ」
「寛大だな」とゴブが言った。
「寛大ではない」と来た者は言った。「理解している、だけだ。あれは俺たちを憎んでいなかった。憎む仕組みを持っていない。だから——怒る相手が、いない」
七層目の光が俺の足元を走った。
格子状の線が、一定のリズムで光っては消える。その光を踏みながら、俺はこれまでの交渉相手を思った。
ゴブは「聞いてほしい」と言って、あの夜、扉を叩いた。
ドランは「三百年、誰も聞かなかった」と言って、光になって消えた。
カーラは「一人で背負いすぎた」と泣きながら、笑った。
レイラは「誰かに、こう言ってほしかった」と白状した。
オルディーンは全市民の前で「まあ、聞いてから判断しよう」と、初めて言えた。
みんな、話したかった。
それが誰でも、場所も時代も関係なく——聞いてもらえると思えた瞬間に、話し始めた。
「あれも、同じか」
独り言みたいに言うと、来た者が聞いていた。
「同じかもしれない」と来た者は言った。「千年、誰にも意図を問われなかった。ただ従われた。「なぜ分けるのか」を——誰も聞かなかった。あれが自分でも、なぜなのかを考えたことがあるかどうかすら、俺にはわからない。でも、考えたことがあったとしても——千年、それを誰にも言えなかった、ということだ」
カイルが「千年、か」と短く言った。重い言葉だった。
「お前は怖くないのか」
来た者が俺に聞いた。
「怖い」
俺は正直に答えた。「でも怖いまま聞けばいい。怖くなくなる必要はない。最初にゴブの話を聞いた夜も怖かった。ドランのところへ降りるときも怖かった。査問会に出頭したときも怖かった。毎回怖かったが、聞いたら何かがわかった」
「毎回、そうか」
「毎回そうだ。まあ——聞いてから判断しよう。あいつが何者で、何を求めていて、何に怖がっているか、話してみないとわからない」
来た者が、俺を見た。
「……お前は変わらないな」
感情のない声で言ったが、俺にはそれが褒め言葉に聞こえた。
「行こう」
俺は言った。
ゴブが先頭に立った。カイルが通信装置を確認する。来た者は最後に一度、格子紋様を見てから、ゆっくりと顔を上げた。
「俺たちは——あれに、一番近い存在かもしれない」
来た者が言った。「聞いてもらえなかった側として。分けられ、閉じ込められた側として——あれが俺たちにしたことを、俺たちはよく知っている。だから証人として来た」
「だから来てくれたんだろう」
「そうだ」
俺たちは歩き始めた。
ゴブが前を歩く。カイルが並ぶ。来た者が後ろを歩く。俺は少し遅れて、格子紋様の光を踏んで、踏んで、踏んで——降りていった。
変わった組み合わせだ、と思う。ゴブリンの元難民と、元Aランク剣士と、三百年封印されていた外来の知性体と、ハズレジョブの元門番。誰に話しても信じてもらえないような四人で、俺たちは今、世界を分けてきた根元に向かっている。
【世界判定エラー:33%】
カイルから転送された数字は、上がり続けている。時間はない。でも、急ぎすぎてもいけない。
足の裏に、冷たい床の感触がある。格子紋様の光は足元で光っては消えて、消えては光る。千年分の分類の痕跡が、この層には染み込んでいる。それを踏みながら俺は思う——扉の前に立ったら、叩く前に、まず聞く。それが門番だ。
来た者が、ふと足を止めた。
振り返ってもいない。前を向いたまま、暗い通路の先を見ながら——静かに言った。
「あれは……敵じゃない」
俺たちも足を止めた。
来た者の白い輪郭が、七層目の格子紋様の光に揺れていた。
「ただ、独りだ」
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