第275話「加速する崩壊」
カーラの幻が消えた。
足元に視線を落とすと、石の床が微かに揺れていた。上からではない。この層の底から来る振動だ。踊り場の壁が細かく震えて、目地の砂が粉のように落ちている。
「層を下りるほど、揺れが大きくなってる」と俺は言った。
「気づいてた」とゴブが答えた。声が抑えめだ。
来た者が先を進んでいた。音のしない歩き方をする。踏んだ石が動いても、その重さを受け流すような足の運びだ。何百年もかけて磨かれた動き方なのか、それとも最初からそういう存在なのか、俺には分からなかった。
後ろでカイルが立ち止まった気配があった。
振り返ると、片膝をついて下を向いている。受信中だ。
「どこだ」と俺は聞いた。
「バルタ、イル、ドゥレ」カイルは顔を伏せたまま言った。「三都市から同時に報告が入った」
「内容は」
「産まれた子供に、ジョブが割り当てられなかった」
ゴブが隣で息を呑んだ。
俺は少し考えた。これまでのエラーは、すでに判定を持っていた者に対するものだった。農夫が「勇者」に書き変わる。魔物の種族ランクが「不定」を繰り返す。それだけでも混乱は大きかったが、「元の判定」というものが存在した。産まれた瞬間から判定がない——というのは、根が違う。仕組みそのものが止まりかけているということだ。
「加速してる」と俺は言った。
「そう思う」とカイルが立ち上がった。「ここ数時間で伸びが急になった」
スキルが動いた。
【迷宮管理Lv.7:世界判定エラー計測——27%。上昇率:前計測比+5%/時間単位】
二十七パーセント。
前の計測が二十二だったから、五パーセント上がった。このペースが保たれるなら、不可逆の五十二パーセントまで——
「六時間かからない」と俺は口に出した。
誰も返事をしなかった。
来た者だけが「急ごう」と五層目の方向を示した。
五層目の扉は鉄製だった。
木の扉とは重さが違う。押すと鈍い軋みを上げて、ゆっくりと内側へ開いた。冷たい空気が流れ込んでくる。深層に下りてきてから体温が少しずつ奪われていて、今ではブーツ越しに石の冷たさが足の裏まで伝わるようになっていた。
中は広かった。
百人以上が座れる議場。正面の壇に向かって椅子が扇状に並んでいる。傍聴席には人影がなく、積もった埃が沈黙の長さを物語っていた。窓は高い位置にあって、鈍い光が斜めに差し込んでいる。
「査問会の議事堂だ」と俺は言った。
「知ってる」とカイルが後ろで答えた。「俺もここに立った。三年前、お前の後ろで」
「集計を転送しながら手が震えてたと言ってたな」
「覚えてたのか」
「覚えてる」
カイルが少し黙って、「そうだったな」と言った。
俺は議場の中ほどまで歩いた。足の裏から伝わる石の冷たさが一定のリズムで続く。壇上の椅子だけが埃をかぶっていなかった。あの日ここで論戦が繰り広げられた。フェンの代表が挙手した。セルウィンが苛立った。ガレスが立ち上がって処分推進側から寝返りを公言した。そういう記憶が、この空間に染み込んでいるようだった。
「ここで最初の票が動いたのか」とゴブが言った。
「フェンの代表が挙手した。魔物との交易で潤う小国の代表が、一番最初に「聞いてみたい」と言った。たったそれだけで、百七人の中に亀裂が入った」
「一人から始まったのか」
「一人からだ」
ゴブはしばらく考えていた。「俺がレンの扉を叩いたみたいに」
想像より深く刺さる言葉だった。
ゴブは意識せずに言ったのだと思う。でもその言葉は、査問会のあの日とep1の夜をひとつに繋げた。一人が扉を叩く。それだけで、何かが変わる。七年前の墓場の門と、三年前の議事堂が、今この深層で重なった。
俺は何も言わなかった。ただ議場を歩き続けて、反対側の扉から出た。
出た先の廊下でカイルが「ここを通れてよかった」と呟いた。
「何が?」
「あのとき、なぜ手が震えてたか——思い出したくなかったと思ってたけど、そうじゃなかったかもしれない。ちゃんと覚えていたかった、ということだったのかもしれない」
カイルは続きを言わなかった。
俺も聞かなかった。
六層目の扉は半開きになっていた。
押すまでもない。隙間に体を滑り込ませると、薄暗い部屋があった。細い窓から光の線が一本だけ床に引かれていて、その終端に椅子が一つある。
椅子に、誰かが座っていた。
俺は三歩で止まった。
レイラだ。
三年前の査問会の日と同じ表情をしていた。語り尽くした後の、空洞のような顔。それでもまだ消えていない何かの残り火のような目。
「さあ」と彼女は言った。「聞いてごらんなさい。聞けるものなら」
あの言葉だ。
単身で査問会に乗り込んできた日。「あなたが本当に私の痛みを聞けるのか、見に来た」と言った日。俺はあのとき、何一つしなかった。論破も慰めも、言葉による介入も何もしなかった。ただ彼女が語り終えるまで、そこにいた。それが俺にできる唯一のことだったから。
幻のレイラが立ち上がり、窓の外を見た。
「聞く、ということは」と彼女は言った。「覚えている、ということでもある。でしょう」
答えなかった。幻に答えても何も変わらない。
でも、その言葉は本物だと思った。聞いたことは忘れない。そのことをレイラは知っていて、だからこそ「聞いてごらんなさい」と言った。あの日そういう意味があったとは気づかなかったが、今なら分かる気がした。
「あの人の話は、まだ覚えているか」とゴブが小声で聞いてきた。
「覚えてる」
「辛いか」
「辛くない。辛かったのはレイラだった。俺はただ、聞いていた」
「それだけで」とゴブは言った。「あの人は、変わったのか」
「変わった。憎むのをやめた、と言ってた。和解じゃなく停戦だとも言ってたが——動き出した」
ゴブが「そうか」と言った。それ以上は何も言わなかったが、その「そうか」には色々な意味が含まれているような気がした。
「行こう」と俺は言った。
六層目を出た廊下は、下り坂になっていた。
床の振動が一段強くなっている。来た者が壁に手を当てて、しばらく感触を確かめていた。
「深部ほど揺れが激しい。座が不安定になっているから、周囲も連動している」
「どのくらい深い」と俺は聞いた。
「分からない。ただ——感覚的には、近い」
近い、ということはよかった。でも近いからといって時間があるわけではなかった。
廊下を進みながら、カイルが通信を受けた。
「バルタで騒動が起きた」
声のトーンが変わっていた。
「どんな騒動だ」
「ジョブが変わった者たちが判定所に押しかけて、判定板を壊した。人はまだ死んでいない。ただ——」カイルが奥歯を噛む。「ドゥレでも同じ報告。アルミナ東区でも同時に来てる」
複数の都市で、同時に。
判定が信頼できなくなれば、人は判定という仕組みそのものを疑い始める。七年かけて築いた和解も、この混乱の前では何の保証にもならなかった。壊れるときはいつも、少しずつではなく一気に来る。
「カーラは動いてるか」と俺は聞いた。
「動いてる。副司令として。でも人手が足りない。ガレスが連合の旧軍に頼みたいと言ってるが、軍を動かしたら鎮圧の映像が走る。どっちに転んでも悪い」
カーラがいる。ガレスがいる。セルウィンも、レイラも、オルディーンも——あの査問会を経た人間たちが、上でまだ動いている。信用できる人間が、ちゃんとそこにいる。
「まあ、聞いてから判断しよう」と俺は言った。「カーラに任せる。俺たちにできることは、ここでやるしかない」
ゴブが小さく頷いた。来た者は無言のまま、先を歩いた。
カイルだけが、迷っているような顔をしていた。
「なんだ」と俺は聞いた。
「言おうかどうか迷ってた」
「言え」
「言ったら足が止まるかもしれない」
「止まらない」
カイルが俺を見た。何かを測るような目で数秒見て、それから決めたように口を開いた。
「フォルから計測が入った。今のペースで上昇が続くなら、不可逆の五十二パーセントに達するのは——あと四時間を切っている」
四時間。
来た者が歩みを止めた。ゴブが俺の顔を見た。
俺は計算した。ここまで四層を越えるのにどれほど時間を使ったか。各層の通過は均等ではない。ドランの幻のとき、ゴブは長く立ち止まっていた。レイラの層でも俺は足を止めた。判定者の座まで何層残っているか、まだ分からない。
「急ごう」と俺は言った。「来た者、先導できるか」
「できる」
「ゴブ、遅れるな」
「遅れない」
「カイル」
カイルが俺を見た。
「上への対応はお前に任せる。通信は入れ続けてくれ。だが——倒れるなよ」
「言われなくても」とカイルが言った。顔がわずかに和らいだ。「一度も従ったことないけどな」
「知ってる」
七層目は広場だった。
上が抜けているように見えたが、天井はあるはずだった。ただ光の差し方が上からで、王都の中央広場の空気に似ていた。石畳が左右に広がって、中心を抜けるように道が伸びている。
走った。
四人で、石畳を踏みながら走った。足の裏に痛みが走る。深層に入ってからずっと熱を奪われ続けていて、今ではそれが疲労と区別がつかなくなっていた。ゴブの息が白くなっている。来た者はそういう変化を見せないが、来た者の本当の状態は俺には分からなかった。
石畳を踏むたびに、記憶の断片を踏んでいる気がした。あの日の王都。議場の緊張。セルウィンが苛立ちながら俺を見た視線。オルディーンが「弁明せよ」と言ったときの静寂。
全部、聞いた先にある。
全部、聞かなければ何も変わらなかった。
スキルが更新された。
【迷宮管理Lv.7:世界判定エラー計測——29%。継続上昇中】
二十九パーセント。
不可逆まで残り二十三パーセント。四時間を切っている。
広場の向こう側の壁に、八層目への入口が見えた。アーチ型の開口部だ。来た者が先に飛び込んだ。ゴブが続いた。
俺がアーチを潜ろうとしたとき、後ろでカイルが立ち止まった。
「待て」
立ち止まって振り返った。カイルが受信している。今度は長い。顔から表情が抜けて、ただ情報を処理している顔になっている。
俺は待った。急かさなかった。
ゴブと来た者も、アーチの内側で立ち止まっている。
十秒。
カイルの目が動く。
二十秒。
三十秒。
カイルが顔を上げた。
「レン」
「ああ」
カイルの目に、初めて見る類の色があった。焦りではない。それより一段深いもの——報告しなければならないと分かっていながら、報告した後で何かが変わってしまうと知っているときの、あの顔だ。
「カーラから直接入った。バルタの判定所が——完全に機能を停止した。判定板が砕けて、復旧の見込みがない。他の都市でも順次、判定機能が落ちていく予測が出てる」
「分かった」と俺は言った。「続きは」
カイルが奥歯を噛んだ。
それだけじゃないと分かった。カイルの顔がそう言っていた。
「上が——」
カイルが言葉を切った。
もう一度、何かを呑み込んだ。それから俺の目を見て、口を開いた。
「上が……もう、保たない」
【世界判定エラー:29%】
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
毎日昼・夜の2回更新中です。続きが気になったら、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
もしこの話が面白かったら、☆評価をいただけると本当に助かります。
なろうの評価は日間・週間ランキングに直結するので、1クリックが「次の100話」を書く燃料になります。




