第274話「なぞる過去」
「足が、重い」
ゴブが言った。
抗議しているわけではない。ただ事実を述べているだけだ。こういうことを素直に言えるようになったのは、ゴブが門番になってからだ。
「まだ大丈夫か」
「大丈夫。疲れとは違う。なんか——ここを歩くと、何かが溜まっていく感じがする」
俺も感じていた。
墓場の門の再現が、後ろで静かに消えた。振り返っても、もう何もない。廃れた石の門も、あの夜の気配も、ろうそくの灯りの記憶も、全部消えている。七年前、ゴブが初めて扉をノックした夜の再現は、俺たちが通り抜けた瞬間に霧散した。
「記憶の層を通り抜けると、こうなるのか」
誰に向けて言ったわけでもなかったが、来た者が応じた。
「通り抜けるたびに、重さが残る」
「残る?」
「覚えている者は、重い。覚えていない者には、ただの通路だ」
それが来た者なりの説明だった。
カイルが最後尾で通信機器を構えながら言った。「フォルから報告が来てる。地上では判定の乱れが続いている。農村で「ジョブなし」の子供が三人出た。保護者たちが連合の窓口に問い合わせを始めている」
「わかった」
急がなければならない。でも急げない。
一歩ずつ、壁の質感が変わっていく。廃れた石から、磨かれた岩盤へ。天井が高くなる。足音が広い空間に反響し始めた。
【迷宮管理Lv.7:深層記憶層——第2層突入確認】
光が見えた。
柱の向こうから、やわらかい光が漏れている。
第十七層だ、と思ったのは俺だけではなかった。ゴブが立ち止まった。足が地面に縫いつけられたみたいに止まって、そのまま動かなくなった。
「……ここは」
「第十七層の再現だ」
「ドランが、いたところ」
「そうだ」
俺は急かさなかった。来た者とカイルも自然に足を止めた。四人で、柱の間から漏れる光を見ていた。
本物の第十七層より天井が高い。あるいは、俺の記憶の中の第十七層がこういう広さで保存されているのかもしれない。記憶というものは、実際より少し大きくなる傾向がある。
誰も何も言わなかった。
一分ほどが経った。
ゴブが、大きく息を吐いた。
「行こう」
「ああ」
柱の列に足を踏み入れる。光が近づいてくる。冷えた空気の中に、かすかな暖かさが混じり始めた。
光の中に、形がある。
人の形ではない。魔物の形でもない。密度のある光が、柱の奥にある。それが「ドラン」と俺たちが呼んでいたものの気配だと、すぐにわかった。
ゴブが前に出た。
「……ドラン」
幻は動かない。
でも光がわずかに揺れた。確かに揺れた。
声は出ない。でも何かが伝わってくる。スキルが拾っているのか、俺の記憶が勝手に再生しているのか、もうどちらでもよかった。
「ゴブを、頼む」
あの言葉が、頭の中で鳴った。
第十七層が崩れていく中で、ドランが最後に言ったこと。俺はそのとき何をしたか。
「わかった」と答えた。それだけだ。頼みを聞いて、ゴブのそばにいた。それだけ。
ゴブが光の中に踏み込んだ。
幻が揺れた。消えなかった。ゴブが通り過ぎると、光がわずかに後を追うように動いた——まるで、見送るみたいに。
「……苦しくなかったって、言ってたな」
ゴブが小声で言った。
「ドランが?」
「第十七層の後で、俺がレンに聞いたとき。「最後に、話せた。三百年で初めて」って教えてくれた」
覚えている。
「だから——よかったんだ、って思ってた。ずっと、それが俺の中にある。ドランのことを考えるとき、まず「よかった」が来る」
「そうか」
「うん」
ゴブは幻から目を離して、前を向いた。
俺も続いた。光の中は暖かかった。本物の第十七層はもっと冷えていたが、光の感触だけは似ている気がした。
カイルが「第2層、通過」と通信に向けて短く言った。来た者は光の中を怯まずに歩きながら、「長く独りでいた者の気配がした」とだけ言った。
三層目は重たい空気だった。
光が消えて、暗さが戻ってきた。
壁から何かが滲み出るような圧力がある。第23層に初めて降りたとき——あの感触だ。体が覚えていた。
「声が低くなってるぞ」とゴブが言った。
「そうか」
「緊張してる」
「……してるな」
本物の第23層は怖かった。「怖い。でも聞かないと損だ」と口では言いながら、足が震えていた。今は震えていない。でも体の奥で、あの感覚が戻ってくる。
【迷宮管理Lv.7:深層記憶層——第3層突入確認】
通路の途中に、影がある。
人型ではない。でも意志を持つ形をしている。密度のある影が、こちらを待っていた。
ヴォルトだと思った。第23層の知性体の中で、一番よく話した個体。名前をつけるなら、ヴォルト。
影が動いた。
近づいてくる。俺は止まった。逃げなかった。
「なぜ下りてきた」
意味が伝わってくる。音ではない。でもはっきり聞こえる気がした。
「話を聞きに来た」
「怖くないのか」
「怖い。でも聞かないと損だ」
あの日と同じだ。
言葉が出てくる前から、もう決まっていた。体が覚えていた。恐怖も、答えも、両方。
影が一瞬だけ揺れた。
「……三百年、誰も聞きに来なかった」
あのときヴォルトが言ったこと。ドランも同じことを言っていた。三百年、誰も聞かなかった。
俺が聞いた。
それだけのことだ。だから何かが変わった。あのときは信じていなかったが、今はそう思う。聞いてから、変わった。聞く前に答えを決めていたら、変わらなかった。
影が薄くなる。
消える前に、もう一度意味が伝わってきた。「上に行きたかったのではなく——」
「外の瘴気から逃げていた」
俺が先に言った。
影が揺れた。答えるみたいに。
「聞いてよかった」
影が消えた。
ゴブが「ヴォルトたちは今も——」と言いかけて止まった。
「今もいると思う。封印のそばで」
「そうか。よかった」
来た者が、足を止めて影の消えた場所を見た。「あれも、俺たちと同じ側だった。分けられた側だ」
「そうだな」
「分けられた側が、分けた側の前に立てた」
「立てた」
来た者は少し沈黙した。「俺たちも——同じことをしに行く」
「同じことをしに行く」
四層目に入ったとき、空気が変わった。
冷たさではなく、暖かさがある。石の廊下ではなく、建物の中のような感触だ。壁の素材が変わっている。かすかに木の匂いがした——たぶん記憶の中の匂いだ。
カイルが最初に気づいた。「王都だ」
「そうだな」
俺も感じていた。
王国の建物の廊下。補償案が通った後、カーラと二人で歩いた場所の気配がある。あのとき、カーラは「ありがとう」と言いかけて「ゴブのおかげです」と俺が返した。そういう場所の感触だ。
【迷宮管理Lv.7:深層記憶層——第4層突入確認】
【世界判定エラー:22%】
エラー率が上がっていた。
カイルが表示を見て「急がないと」と言った。
「急いでも通れなければ、意味がない」
「それはそうだが」
俺も同じことを感じていた。焦りがある。でも焦っても層は開かない。ただ歩くしかない。
喉が渇いていた。いつ水を飲んだか思い出せない。
廊下を歩く。足音が建物の中のように響いた。
廊下の途中に、人の影がある。
背筋が伸びた立ち姿。軍の制服に、整った佇まい。
カーラだと、すぐにわかった。
幻が、俺のほうを向いた。
「あなたは、変わっていないのね」
声があった。
今まで、ドランの幻は光が揺れるだけで声はなかった。ヴォルトの影は意味を伝えるだけで音ではなかった。でも今は違う。はっきりと、音として聞こえた。
カーラの声だ。
俺は立ち止まった。
後ろでゴブとカイルが止まる気配があった。来た者が、通路の端で静かに待ち始めた。
「変わっていないのか」
「変わっていないわ。初めて会ったときから——あなたはずっと、ただ聞くだけだった」
「それしかできないからな」
「違うと思う」
カーラの幻が、一歩近づいた。
「あなたには他のこともできた。でも、聞くことを選んだ。それは「しかできない」とは違う」
俺は何も言えなかった。
そういうことを、カーラは言う。俺が自分を小さく言うと、丁寧に訂正する。本物のカーラもそうだった。
幻が微笑んだ。カーラが笑うのはいつも少しぎこちない。この幻もそうだった。まったく同じぎこちなさで、笑っている。
「あなたが来てから——私は変わったと思っている。一人で背負っていたものを、少しだけ手放す方法を覚えた」
「俺が何かしたわけじゃない」
「あなたが聞いたのよ。それが、全部だった」
しばらく、どちらも話さなかった。
廊下の奥から、次の層への光が射している。でも幻は消えない。
「一つだけ、聞いていいか」
俺が言った。
「どうぞ」
「お前は今から、俺が何をしに行くか——わかるか」
「わかるわ」
幻が少しだけ目を細めた。
「世界の仕組みに、話を聞きに行く」
「そうだ」
「怖い相手?」
「怖いかどうか、まだわからない。聞いてみないとわからないことが多い」
「じゃあ——もし怖かったら?」
俺は少し間を置いた。
「まあ」
「……聞いてから判断しよう」
幻が笑った。
今度は、ぎこちなくなかった。
「そうよ。それが、あなたね。「変わっていない」って言ったでしょう」
「言ってたな」
幻の輪郭が薄くなる。光に溶けていくように、輪郭が曖昧になっていった。消える前に、カーラの幻がもう一度俺を見た。表情は笑ったままだった。
「聞いてもらえてよかった、と——本物の私が言っていたわ」
「知ってる」
「ちゃんと、覚えてるのね」
「忘れない」
幻が消えた。
廊下に残ったのは、静かな空気と、先への道だけだ。
しばらく、俺は動けなかった。
足の裏に体重をかけて、ただ立っていた。
ゴブが隣に来て、腕に手を置いた。何も言わない。ただそこにいる。
それで十分だった。
「行くか」
少ししてから、俺が言った。
カイルが通信に向かって「第4層、通過」と報告する声がした。「……レンは大丈夫だ」と付け加えた。
俺は前を向いた。
ドランの光を通り過ぎた。ヴォルトの影を通り過ぎた。カーラの声を通り過ぎた。
どれも、俺が「聞いた」相手だ。
聞く前から答えを決めていたら——ゴブを追い返していたら、ヴォルトを脅威のままにしていたら、カーラの「助けてほしい」を断っていたら。たぶん、俺はここにいない。
判定者も、たぶん同じだ。
聞いてみないことには、わからない。
「行こう」
ゴブが言った。俺ではなく、ゴブが言い出した。
「ああ」
五層目への道が、前に伸びている。俺はスキルで構造を読もうとして——止まった。
【迷宮管理Lv.7:深層記憶層——第5層構造、読み取り不能——記憶の外に、続いている】
「次は何の層だ」とカイルが聞いた。
「読めない」
「読めない?」
「記憶の層じゃないのかもしれない」
来た者が、俺の後ろで静かに言った。
「そこから先は——俺たちの誰も、知らない場所だ」
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