第273話「第一の門」
「——待っていた」
第十七層の入口に、それはいた。
輪郭がはっきりしない。霧のようでいて、でも確かにそこに在る重さがある。来た者——封印の向こうから来て、自らの名前にそう名付けた知性体。三年前の第七迷宮の接続点で再会して以来、不意に現れることには慣れていた。それでも心臓が跳ねた。深層でこういう登場をされると、さすがに面食らう。
ゴブが一歩前に出た。
「来た者。なぜここにいる」
「証人として、一緒に行く」
短かった。それ以上の説明はなかった。
俺はゴブとカイルを見た。ゴブが小さく頷く。カイルが「……まあ、断る理由もないな」と独り言のように言った。
同感だった。
四人——正確には三人と一存在。人間の俺、ゴブリンのゴブ、二代目調停者のカイル、そして封印の向こうから来た何か。
こんな組み合わせで世界の底に向かうのか、と思ったが、考えてみればいつもそんなものだった。墓場の門から始まって、王都の議会、人類連合の査問会——毎回、予想外の顔ぶれで向かっていた。
「フォルに経路を確認してから出発する」
カイルが通信具を操作した。フォルの声が流れた。
〈北東の傾斜路を三百メートル。その先は私も観測できていない。——急いでほしい〉
「何かあったか」
〈エラーが加速しています。下に降りるほど、影響範囲が広がっている〉
カイルが腕の通信具を操作し、数値を表示した。
【世界判定エラー:19%】
「上の状況は」
〈農村部で「判定なし」が続出しています。ジョブが付与されない子が増えている。人々は怯えています〉
ジョブのない者は、ランク社会では「何者でもない」に等しい。
七年前の俺は違った。判定は出た——ただ「ハズレ」だっただけで。でも「判定なし」は別だ。肩書きすら持てない。最初の一歩を踏み出せない。それがどういうことか、俺には分かる気がした。ハズレより、もっと怖い。
「急ごう」
傾斜路の入口は、第十七層の壁の継ぎ目に隠れていた。
フォルの指示通りに手を当てると、石が音もなく動いた。重さを感じなかった。まるで最初からそこだけ空いていたような感触で、細い通路が現れた。
中は暗かった。
ゴブが掌に微かな光を灯した。迷宮知性体との接続を経由した魔力調整——カイルが迷宮管理を引き継いでから使えるようになった技術だ。小さい光だが、壁を照らすには十分だった。
最初の五十メートルは、普通の石通路だった。
湿った空気。苔の匂い。靴底から伝わる固い感触。通路の幅は大人二人が並べるくらいで、天井は低い。こういう場所は第七迷宮の下層でも歩いてきた。見慣れたつもりでいた。
それが変わり始めたのは、百メートルを越えたあたりだ。
壁の質感が変わった。石造りのざらついた手触りから、なめらかな何かへ。触れると硬い。でも石の冷たさがない。温かくもない。圧力だけがある。手を離しても、触れていた感触がどこかへ消える。
「なんだこれ」カイルが指先で壁を叩いた。「固いのに、手に伝わってこない」
「感触がない」
「気持ち悪い」と正直に言った。
カイルが素直なのは、こういうときだけだ。
俺のスキルが反応した。
【迷宮管理Lv.7:現在位置——分類外領域。通常管理の範囲外。位置記録を開始します】
分類外。七年間ずっと俺に付いて回っていた言葉が、今度は場所の名前になった。
来た者が後ろから言った。「これは、分類の素材だ。あちら側にも、これと同じものがある」
「あちら側というのは」
「私たちがいた場所。封印の向こう」
外から来た知性体が封じられていた場所と、世界の判定を下す座を構成する素材が同じ。
繋がっている。判定者と外の脅威と呼ばれていた存在は、最初から同じ構造の中に在ったのかもしれない。
「判定者は——来た者たちも分類したのか」
「した」来た者は短く答えた。「外の脅威、と。それが分類だった」
「今も、その分類のままか」
「……わからない」
少しの間があった。来た者が「わからない」を使うのは珍しい。それだけ、判定者との関係は複雑ということかもしれない。
まあ、聞いてから判断しよう——と俺は思った。直接聞けばいい。
さらに下ると、空気が変わった。
感触のない「分類外の空気」から、ちゃんとした冷たさへ。
石の匂い。土の匂い。どこか遠くに水がある匂い。
ゴブが足を止めた。
「……この匂い」
俺も同じことを感じていた。
「知っているか」
「知っています」ゴブが前を向いたまま言った。「第七迷宮の入口の匂いです。石と土と水が混ざった——あの、扉の前の匂い」
壁が、また変わっていた。
なめらかな分類外の素材から、粗い石造りへ。でも第七迷宮の石ではない。もっと古い。もっと——どこかで嗅いだことがある感触。
「ここは」とカイルが言いかけて、止まった。
俺が代わりに言った。
「墓場の門だ」
七年前。ジョブ判定で「門番・ランク外」が出て、その日の夕方に王都を出た。馬車で半日、石畳から土道に変わって、草も生えない荒れた丘の上に辿り着いた。案内の係員が「お気をつけて」と言って帰っていった。取り残された俺は、古ぼけた迷宮の入口を前に「ここが仕事場か」と思った。
使えない奴が最後に行く場所、とカイルは言っていた。
その場所と同じ造りの壁が——判定者への道の最初の層に、再現されていた。
「なんで」カイルが周囲を見渡した。「なんでお前の左遷先が——こんな場所に」
「座への道は、過去の交渉の記憶を模した層になっていると、フォルは言っていた」
俺が最初に交渉したのは、あの門だ。あの夜、ゴブが扉を叩いた。「話を聞いてほしい」という、命がけの訴えを持って。
判定者はその記憶を写し取り、道の最初の層に置いた。
来た者が後ろで言った。「判定者は、始まりから記録している。最初に交渉が起きた場所を、道の最初の層に置いた」
「試されているのか、学ぼうとしているのか」
「どちらでも」来た者は言った。「お前たちには、ここを通る理由がある。始まりの場所を通る理由が」
ゴブが壁に手を当てていた。
石の感触を確かめるように。ゆっくりと。壁を見ているのではなく、壁の向こうの何かを感じるような目で。
「……あの夜」ゴブがぽつりと言った。「俺は、反対側にいました」
「そうだったな」
「扉を叩く前に、一回止まったんです」
俺は黙って聞いた。七年間一緒にいて、この話は一度も出たことがなかった。
「怖くて」ゴブは続けた。声は静かだった。「部下たちが後ろにいて、みんな怯えてて、俺が行かなければいけなくて。でも——扉の隙間から、灯りが漏れていた。ろうそくの、弱い光。それで、叩けました」
知らなかった。
あの夜。俺は眠れなくて、暗いのが嫌でろうそくをつけていた。特に意味はなかった。ただそれだけだった。他にすることがなかっただけだった。
「それが、あったから叩けたのか」
「はい。あれがなかったら——もう一晩、待ったかもしれない。翌朝には、別の判断をしていたかもしれない」
俺は少しの間、その言葉を手の中で持て余した。
七年前の夜。眠れなくて、暗いのが嫌で、ろうそくをつけた。それだけの行動が、ゴブに最初の一歩を踏ませた。交渉の始まりを作った。世界が今ここに至る、最初の火口を作った。
「……俺は何もしてなかったな」
「してくれてたんですよ」ゴブが俺を見た。「灯りを、つけてくれてた」
その目に感情があった。責めてもない。感謝でもない。ただ確認するような、「それだけでよかった」という目だった。
カイルが何も言わなかった。
いつものカイルなら何か言う。茶化すとか、少し大げさに反応するとか。でも今日は黙っていた。壁を見ていた。口が一度動きかけて、止まった。それ以上は覗かなかった。
来た者も黙っていた。
静かな通路に、その会話だけが残った。俺も何も言えなかった。言う必要もなかった。
しばらくして、俺は前を向いた。
「このまま行けば、扉があるはずだ」
「ありますよ」
ゴブが前を指した。
通路の先に、扉があった。
木製の、古い扉。金属の金具が錆びていて、蝶番が傾いでいる。ペンキが半分剥げた木目が——七年前に俺が「これが仕事場か」と思ったのと同じ扉が、そこにあった。
俺は一歩、また一歩と近づいた。
足が自然と慎重になる。あの夜を思い出しているのかもしれない。あの扉を初めて開けたときの感触。夜中に誰かが来るとは思っていなかったのに、叩かれたときの、心臓の音。
扉の前に立った。
手を伸ばしかけた。
そのとき。
音が響いた。
コン、コン、コン。
三回。
扉の——向こうから。
体が固まった。
ゴブが息を飲んだ気配が伝わってきた。カイルが「——は?」と声を漏らした。
その音を、俺は知っていた。
七年前の夜中に、心臓を跳ね上げさせた、あのノックの音。恐る恐るではなく、でも静かに。「聞いてほしい」という意志だけが込められた、三回。
「……俺の」ゴブが呟いた。
声が、少し震えていた。
「俺のノックの音です。でも——俺は、叩いていない」
そうだった。ゴブはここにいる。俺の隣に。カイルも来た者も、全員この側にいる。
扉の向こうに、誰かがいる。
あの日、ゴブが扉を叩いたとき、俺が中にいたように——今度は、扉の向こうに誰かが待っている。
「まあ」と俺は言った。
扉に手を置きながら。
「聞いてから、判断しよう」
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