第272話「置いていく者たち」
フォルが最短ルートを算出し終えたのは、翌朝の早い時間だった。
第七迷宮の第十七層は、夜になると気温が下がる。石床から冷気が這い上がってきて、毛布一枚では追いつかない。それを知っていたはずなのに、レンは昨夜、半分しか眠れなかった。
眠れなかった理由を、正確には説明できない。
怖い、ということではないと思う。少なくとも、それだけではない。
判定者の声を聞いた。「門番・ランク外・廃止対象」という言葉を聞いた。それが怒りや恐怖ではなく、ある種の「腑に落ちる感覚」として降りてきたことが、まだ尾を引いていた。
七年間、ハズレだと思っていた。
それが本当の判定でさえなかったと知って、自分がどう感じるべきなのか、まだわかっていない。
レンは立ち上がり、背嚢に手を伸ばした。持っていくものは少ない。食料と水、それからフォルとの連絡に使う薄い石板、あとは革手袋。迷宮の深部は手が悴む。昨日の時点でそれだけわかっていた。
「出発前に確認です」
フォルの声が、石壁全体から滲み出るように響いた。第十七層の核に近い場所なので、声が近い。
「三ルートのうち最短は北東の道筋です。ただしそこは、私が五十メートルまでしか追えていないルートでもあります。第十七層を超えると感知範囲外になります」
「五十メートルより先の情報は」
「ありません。到達した存在の記録が、一件もない」
「つまり、何が起きるかわからない」
「そうです」
レンは背嚢を肩にかけた。腰の鈍痛が戻ってきた。昨日も一昨日も石床で寝ていたので、これはしばらく続きそうだ。
「案内を頼む。一人で行く」
少し間があった。
「——ゴブに、話しましたか」
「まだだ」
「話した方がいいと思います」
フォルが「思う」という言葉を使うのは珍しい。いつもは「一つの選択肢として」とか「有効かもしれません」とか、断定を避ける言い方をする。今日はそれがない。
「話しに行く」とレンは言った。
ゴブは第十七層の入口近くの通路に座っていた。
壁にもたれて膝を立て、両腕でそれを抱えている。眠っているのかと思ったが、レンの足音に顔を上げた。緑色の目が暗がりの中でひらいた。
「もう出るんですか」
「うん」
「一人で」
「うん」
返事が速かったのは、ゴブがもう知っていたからだろうとレンは思った。
ゴブは何も言わなかった。しばらく、ただレンを見ていた。その視線が少し重くて、レンは背嚢の肩紐を握り直した。
「行かせたくない、って言ったら、どうしますか」
「言ってから判断する」
「——俺も行きます」
「ダメだ」
「なんで」
レンは少し考えた。正直に言おうと決めた。
「お前が来ると、相手の反応が変わるかもしれない。俺が一人で行く方が、聞いてもらいやすい」
「聞いてもらいやすい」とゴブは繰り返した。それから少し考え込むような顔をした。「レン。それって——」
「なんだ」
「あなたが「ランク外の門番」だったから、最初は誰も気にしなかった。気にされなかったから、話を聞いてもらいやすかった——そういう話と、同じですか」
レンは止まった。
正確だ、と思った。ゴブは時々、こうやって核心を真っ直ぐついてくる。
「……まあ、そうかもしれない」
「なら」
ゴブが立ち上がった。小さな体が、薄明かりの中に伸びた。三年前と比べると、少しだけ大きくなった気がする。あるいは気のせいかもしれない。
「俺も今、同じです」
「何が」
「種族ランクが狂い始めた。俺はもう「弱い魔物」として分類されていない。「分類不能」になってます。あなたが七年間そうだったように」
それは昨日、ゴブ自身が言っていたことだ。レンはその言葉を覚えていた。
「変数じゃないです」とゴブは続けた。「あなたと同じ側の存在です。分類できない側の」
「……」
「俺が行くのは、戦うためじゃない。聞くためです。判定者が——魔物のことをどう見ているのか、俺自身で聞きたい。あなたに代わりに聞いてもらうのじゃなく」
レンはゴブの目を見た。
揺れていなかった。
七年前、初めて扉をノックしに来た夜のゴブは、怖かったはずだ。声が震えていたし、目が揺れていた。それでも来た。
今は違う。
怖いかもしれないが、揺れていない。
「まあ」とレンは言った。「聞いてから判断しよう」
「それは——」ゴブが少し笑った。「受け入れてもらえたってことですか」
「まだ判断中だ」
「その顔は、もう受け入れてます」
「黙れ」
「聞こえてたぞ」
通路の奥から声がした。
振り返ると、カイルが歩いてきた。首に連絡用の水晶を提げたまま、少し急いだ様子で息が乱れている。第十七層に泊まったにしては、靴が妙に綺麗だった。走ってきたのかと思った。
「いつからいた」
「ゴブが「俺も行きます」って言い出したあたりから」
「どこに隠れてた」
「偶然通りがかった」
「通路に物陰はない」
「俺の話はいい」とカイルは言って、レンの前に立った。そのまままっすぐ目を合わせてくる。昔から、この男の目は逸れない。それが傲慢に見えたときもあったが、今はただ正直さに見える。
「俺も行く」
「断る」
「二代目調停者として、正当な理由がある」
「聞こう」
「地上との連絡を確保する役割が必要だ。フォルが五十メートルで届かなくなるなら、その手前で俺が待機する。お前が戻ってこられなくなったとき、外に知らせられるのは俺だけだ」
レンは少し黙った。
「……戻ってこられなくなる前提で来るな」
「お前が戻ってくると言っても、俺が安心できるとは限らない」
「お前の安心のために来るのか」
「半分は、そうだ」
カイルが少しだけ目を細めた。
「もう半分は」
「俺がいた方が、うまくいく可能性がある。判定者が人間に怒りを持つなら——連合で交渉してきた俺がいる方が、その場を押さえられる場合がある」
それも正しい。
レンは一度目を伏せて、考えた。
本当は全員置いていきたかった。何かが起きたとき、誰かに何かが及ぶのが嫌だった。でも、それを諦める段階かもしれない。
「わかった」とレンは言った。「待機という約束を守れ。踏み込もうとしたら、戻って止める前にフォルが弾く」
「弾かれる前に自分で止まる」
「当てにしない」
「信用されてない」
「している。だから言っておく」
ゴブが「仲がいいですね」と言った。カイルが「黙れ」と言った。ゴブが「俺も来るんですが」と言った。カイルが「知ってる」と言った。
三人が出発の準備を整えたとき、第十七層の入口に何かがいた。
最初は霧だと思った。
石床の上に薄い白い揺らぎがある。でも霧にしては密度がある。重心のようなものがある。
レンのスキルが、静かに反応した。
【迷宮管理Lv.7:既知の知性体——接触可能状態】
「来た者」だった。
封印の外から来た知性体。第二部の査問会でゴブとともに人類の前に立ち、詫びた存在。三年前に「来た者」と名乗ったもの。
「いつ来たんですか」とゴブが言った。
「さっきから、待っていた」と「来た者」は答えた。低い、というより深い声だ。どこか遠くから響いてくるような声。
「なぜここに」とレンは言った。
「伝わった」と「来た者」は言った。「判定者の座へ降りると。全迷宮の繋がりを通じて——感じた」
「感じた?」
「感じる、という表現が正確かどうかは分からない。でも——知った。お前が向かうと」
レンは「来た者」の輪郭を見た。霧のように見えるが、その内側に何かがある。
【世界判定エラー:18%】
フォルからの通信に、その数字が混じった。三日前より三ポイント上がっている。時間がそんなに多くないことを、改めて確認した。
「来た者、お前も来るのか」とゴブが問うた。
「来る」
「俺みたいに?」
「お前みたいにとは、少し違う」
「来た者」は、わずかに間を置いた。
「俺たちは——判定者に分類された。「外から来た者」という括りに押し込められ、封印の向こうに隔離された。三百年間、その分類の中にいた。でも——話したことがない。理由を聞いたことがない。なぜ封印されたのか、なぜそこに入れられたのか、誰も説明してくれなかった」
レンは少し黙った。
それは、レン自身と同じだと思った。
七年前のジョブ判定で「ランク外」と言われた。理由は教えてもらえなかった。ただそう決まった。それを受け入れるしかなかった。
「判定者のところへ行って、相手の処理が変わる可能性がある」とレンは言った。「封印した存在が来たら、何が起きるかわからない」
「それは、俺も知らない」と「来た者」は答えた。「でも——自分の言葉で届けたい。お前に代わりに言ってもらうのではなく。俺が行く。それだけのことだ」
レンはしばらく「来た者」の輪郭を見ていた。
霧が揺れている。
感情とは少し違うかもしれないが、それに近い何かが揺れている。三百年間封印されていた存在が、今、「行きたい」と言っている。
「一つ約束してくれ」とレンは言った。
「来た者」が「何を」と返した。
「判定者がお前たちのことを話したとき——謝罪でも、説明でも、それ以外でも——まず、聞いてくれ。反応するのはそれからにしてくれ」
長い間があった。
「来た者」の輪郭がゆっくりと揺れた。
「約束する」と「来た者」は言った。「でも——レン」
「なんだ」
「その約束は——俺がお前に頼むことじゃないか。お前から俺に頼むことではなく」
レンは少し止まった。
「来た者」は続けた。「判定者が俺たちに何かを言ったとき、俺が聞けるかどうか——自信がない。俺はまだ、うまく聞けない。だから——俺が暴走しそうになったとき、止めてくれるか。それを頼みたかった」
「……止めるより、聞かせた方がいい」
「そうかもしれない。でも、保証がない」
「保証なんて、俺も最初はなかった」
「来た者」が少し黙った。
「まあ」とレンは言った。「聞いてから判断しよう。何が起きるか、降りてみないとわからない」
「来た者」の霧の輪郭が、わずかに揺れた。それが笑いなのか、それ以外のものなのか、レンにはまだわからない。でも、明らかに何かが変わった。
「では、行こう」と「来た者」は言った。
「案内を始めます」
フォルの声が、石壁全体から響いた。
四人と一体が、通路の入口に立っている。
レンが先頭で、その後ろにゴブ、カイル、「来た者」の順番になった。自然にそうなった。誰も決めていないのに、そうなった。
「フォル」とレンは言った。「戻ってくる」
「わかっています」
「何がわかってる」
「お前がそう言うということが、わかっています。信じながら、心配している。その両方が、できるようになりました」
それはいつからだろう、とレンは思った。フォルが心配するという感情を持つようになったのは。
「戻ったら話を聞かせてください」とフォルは言った。「向こうで何があったか」
「ああ」
「必ず」
「必ず、な」
一歩踏み出すと、足の裏に石の固さが返ってきた。
通路は下へ向かっている。明かりは薄い。フォルが導く淡い光だけが、道を照らしている。
後ろでゴブの小さな足音が続いてきた。それからカイルの革靴の音が。「来た者」の音はない。霧のように動くから、足音をたてない。でも、いる。気配がある。
降りながら、レンは昨夜眠れなかった理由を少し整理した。
置いていくつもりだった。
全員、置いていくつもりだった。
でも置いていかれなかった。
いつも、そうだ。
ゴブが最初に扉をノックした夜から、ずっとそうだった。俺が一人で動こうとするたびに、誰かがついてきた。カーラがついてきた。カイルがついてきた。セルディンが、最後には署名した。
それを「動かした」と思っていたけれど、本当は違うかもしれない。
俺が動こうとするのを見て、向こうも動いた。
同じ方向に向かいたかったから、ついてきた。
「交渉」というより「一緒に歩く」ということだったのかもしれない。
「レン」
カイルの声だった。
「なんだ」
「判定者と話すとき、最初に何を聞くつもりだ」
「決めてない」
カイルが少し黙った。それから「まあ、そうだな」と言った。
ゴブが「カイル様が「まあ」と言った」と言った。
「うるさい」とカイルが言った。
「来た者」は何も言わなかった。
霧の輪郭が、通路の暗がりの中をゆっくりと進んでいた。
その後ろをレンは歩いた。
足の裏に石の感触がある。腰がまだ痛い。空気が少し冷たい。全部が、確かにある。
そして通路の奥が、少しずつ深くなっていった。
「来た者」の輪郭が、ふと止まるように揺れた。それから、前を向いたまま静かに言葉を発した。
「分けられた側の——証人として」
誰に向けて言ったのか、わからなかった。
でも、レンはその言葉を聞いた。
聞こえていた。
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