第270話「分けられた理由」
「種族ランクが狂い始めたのは、いつからだ」
俺が聞くと、ゴブは少し考えてから答えた。
「十一日前の朝からです。正確には、第四層のオーク族の隊長から問い合わせが来た日の早朝が最初でした」
第七迷宮の詰め所。石造りの小さな部屋で、秋の光が窓から斜めに差し込んでいる。ゴブが門番として使っているこの場所に、俺たちは向かい合って座っていた。窓の外では落ち葉が一枚、風に乗って広場を横切るのが見えた。平和な景色だ。あのエラー率が毎日上がっていることが、嘘みたいな午後だった。
「狂い方は、どんなパターンだ」
「ランクが「不定」に書き換わって、翌朝には戻って、また翌日には別のランクに変わる。一定しない。だから余計に混乱を招く」
ゴブが眉を寄せた。その表情ができるようになったのは、ここ一年のことだ。三年前、初めて会ったころのゴブは「怖い」か「安堵した」かのどちらかしか顔に出せなかった。今は「困惑」と「疲労」と「苛立ち」が混じった複雑な表情ができる。門番の三年が、ゴブを変えた。
「魔物にとって、種族ランクはどういう意味を持つ」
「群れの序列です。ランクが高いほど群れを率いる権限がある。そのランクが「不定」になると、誰の指示を聞けばいいかわからなくなる。今は口論の段階ですが、長引けば」
「長引けば争いになる」
「はい」
短く言ってから、ゴブが続けた。
「レン。俺が一番引っかかっているのは——種族ランクを、誰が決めていたのか、ということです。人間のジョブ判定は王国の仕組みとして説明できる。でも魔物の種族ランクを誰が決めていたのか、俺には最初からわからなかった」
「考えたことがなかったか」
「ありませんでした。あって当然のものとして受け入れていた」
ゴブが窓の外に視線を向けた。
「バルタの新迷宮で、何かわかりましたか」
「少しだけ」
俺はバルタで聞いた声のことを話した。感情を持たない分類の声。俺の七年間の交渉記録を「分類不能」と処理したこと。「門番・ランク外・廃止対象」という評価を繰り返したこと。
ゴブは黙って聞いていた。
「フォルが「待っている」と言ったのは、ドランのとき以来だ、とお前は言っていたな」
「はい」
「行ってみる」
俺は立ち上がった。
「付き合うか」
「……俺はここで待ちます。旅人の案内が途中なので」
ゴブが答えた。
「でも——重要なことがわかったら、必ず教えてください」
「当然だ」
第十七層への道は、もう迷わない。
第七迷宮に初めて踏み入れたのは七年前だ。当時の俺はスキルの使い方も知らず、ゴブの後をついていくだけで精一杯だった。今はスキルを開かなくても、深部に降りていく感覚がわかる。温度ではない。空気の「密度」が変わる。言葉が届きやすい場所というものが、確かにある。
各層を降りながら、バルタで感じたことを反芻した。
あの声は感情を持たなかった。怒りも侮蔑もなく、ただ「分類する」という処理として俺を評価した。七年間の交渉記録を「分類不能」と告げたとき、声に当惑があった気がした。機械に当惑があるとしたら、それは処理できないものに遭遇したときだけだ。
俺が「分類不能」だということは——俺という事例が、設計の想定外だということになる。
第十七層の接続点に着いた。
ドランが消えてから三年が経つ。この場所の岩盤の質は変わっていない。光の届き方も同じだ。変わったのは「誰がいるか」だけで、今はフォルがいる。
「来た」
フォルの声が、床と壁の境目から染み出すように現れた。
体は見えない。声もどこから来るとは言えない。でも確かに、そこにいる。
「待たせた」
「二日と十八時間だ」
「訂正する。二日と十八時間、待たせた」
「……いい」
拗ねているような語気だったが、許してくれた。フォルは怒りを長く保てない。ドランからそう聞いたことがある。「フォルはすぐ怒るが、長くは続かない」と。今もそうだった。
「バルタで声に会ったはずだ」
「会った。俺のことを「分類不能」と呼んでいた」
「そうだろう。お前は、あれの処理体系の外にいる」
「「処理体系」という言い方をするんだな」
「俺も最初からその内側にいたからだ」
俺は一度スキルを確認した。
【迷宮管理Lv.7:深部接続——知性体交渉モード・待機中】
「フォルが俺に話したかったことを、聞かせてもらえるか」
「……そのために待った」
「迷宮は、自然に生まれたものだと人間は思っている」
フォルが語り始めた。
「俺もそう思っていた。少なくとも最初は」
「違う。設計されている。最初から、目的を持って作られた構造物だ」
俺の中で何かが静かに動いた。
迷宮管理スキルで内部を見てきた七年間、常に感じていた「整然さ」の感覚。層ごとの明確な区分け。知性体の存在。封印の構造。どれも「偶然できた自然物」には整いすぎていた。感じていたのに、問わなかった。問う相手が、いなかった。
「目的は何だ」
「分けること」
フォルが言った。声は穏やかだった。穏やかだからこそ、重かった。
「人間と魔物を、物理的に分離する。迷宮は境界線として設計されている。人間が内部に踏み込めば脅威と対峙することになり、深く進もうとは思わなくなる。魔物は層ごとに区分けされ、人間と直接接触しない。互いが近づきすぎないための——構造そのものだ」
「ジョブシステムも、同じ設計者か」
「そうだ」
フォルの声が少し低くなった。
「人間が何者かを規定する仕組み。勇者か、農夫か、門番か。Aランクかランク外か——それを決めているのも、同じ意志だ。人間の社会に秩序を与え、魔物の社会に秩序を与え、それぞれを自分の「枠」の中に収める」
「全部が、一つの意志から来ている」
「源は同じだ。俺たちは別々の場所で別々の秩序に従っていると信じていたが、設計図は一枚しかない」
俺は黙った。
頭の中で七年間が高速で動いていく。ゴブがノックをした夜。カイルとの確執。ヴォルトとの交渉。封印維持協定。人類連合の査問。「来た者」との接触。全部を繋いできた。分けられたものを、一つずつ繋いできた。
「三百年前の封印も、そうか」
「——そうだ」
フォルは答えるまでに少し時間をかけた。
「俺たちは、封印を「外からの脅威を遮断するための壁」だと信じていた。でも判定者が封印を作ったのは、それだけが理由じゃない」
「じゃあ——」
「外から来るものが、この世界の分類体系に影響を与えないため、だ」
俺の中で、点と点がゆっくりと繋がっていく。
第一部でヴォルトたちと対話したとき、彼らは言った。「上に行きたかったのではなく、外の瘴気から逃げていた」。その言葉を信じて、共存の道を開いた。だが今のフォルの話を聞けば——外から来るものが人と接触すること自体が、判定者にとっての「エラー」だったということになる。
「外から来るものは分類体系の外にいる。枠に収まらない。あれたちが人と言葉を交わせば——分けた意味が崩れる。だから隔離した」
「……俺が交渉を積み重ねてきたことが」
「設計者には「エラーの累積」として記録されている」
俺は少し笑いたい気持ちになった。笑えないが。
七年間で積み上げてきた交渉の全てが、誰かの設計図では修正対象として記録されていた。ゴブと話した。ヴォルトと話した。「来た者」と話した。人類連合と話した。分けられたものを繋ぐたびに、誰かの設計が一枚ずつ剥がれていた。
そして今、世界判定エラーが毎日上昇している。
「フォル」
俺は言った。
「フォルは、それをいつから知っていた」
長い間があった。
岩盤の奥から、微かな振動が届く気がした。ドランが消えた夜に感じたのと、似た質の振動だった。
「……ずっと前から、薄々は気づいていた」
フォルが言った。
「俺たちは設計の中にいる、ということは。誰かの意志によってここに配置されているということは」
「なぜ言わなかった」
「——怖かった」
短い言葉だった。でも俺には、その短さの重みがわかった。フォルが「怖い」と口にするのはめったにない。
「自分が道具として作られたと認めることが、怖かった。設計の一部だと知れば、自分の意志で動いているという感覚が失われる気がして。ドランも、ヴォルトも——みんな、そこから目を逸らしてきた。俺もそうだった」
「今は」
「今は——お前に話しているから、怖くない。少なくとも今この瞬間は」
俺は何も言わなかった。
言わずに、ただそこにいた。それがこういう場合の正しい応じ方だと、七年間で学んだ。聞いてほしいときに言葉は要らない。ただ、聞いている者がそこにいることだけが必要だ。
しばらくして、フォルが続けた。
「ドランも知っていたと思う。俺より深く気づいていたはずだ。でも話さなかった」
「レンに話せと、お前に言い残したのかもしれないな」
「……そうかもしれない」
俺はドランのことを思った。三百年間、一人でこの場所にいた。知っていて、それを一人で背負い続けた。最後の夜、「話せてよかった」と言って消えた。
「フォル、最後に一つ聞かせてくれ」
「なんだ」
「判定者は——悪いやつだと思うか」
これが一番聞きたかったことだ。交渉に行く前に、まずそこを確認したかった。
フォルはしばらく考えた。
「悪意は、感じない」
やがてフォルが言った。
「あの声には「憎む」という感情がない。ただ「分類する」という目的がある。目的のためだけに動いている。そして——その目的には、根があると俺は思っている」
「根は何だと思う」
「……それは、まだわからない。でも一つだけ確かなことがある」
第十七層の空気が、静止した気がした。
岩盤の振動が止んだ。フォルの気配が、わずかに凝縮された。言葉を選んでいる間だと、俺にはわかった。
「あれは、世界を守るために……分けた」
第十七層を出て外の空気を吸ったとき、俺はしばらく立ったまま動けなかった。
秋の夕暮れが、迷宮の外壁を染め始めていた。
世界を守るために、分けた。
守りたいものがあった、ということだ。守りたいものがある者とは、話ができる。俺はずっとそうやってきた。ガレスも、セルウィンも、レイラも、オルディーンも——誰もが守りたいものを持っていた。それを聞いたところから、全部が始まった。
だとすれば——判定者に聞くべき最初の問いは、決まっている。
「あなたは、何を守りたかったんですか」
それだけでいい。
「また難しい顔をしてる」
ゴブが声をかけてきた。旅人の対応を終えたのか、入口の脇に立っていた。
「そうか」
「でも——決まった顔にも見えます」
俺はゴブを見た。三年前から変わらないゴブの目が、夕暮れの中で落ち着いて俺を見返していた。
「フォルから、いろいろ聞いた」
「俺にも話してもらえますか」
「今夜、時間を作ってくれ」
「空けます」
ゴブが短く答えた。そのとき、カイルとの通信石が熱を持った。
開くと、短いデータが来ていた。カイルが今日集計した計測値だった。
【世界判定エラー:15%——計測地点231・全地点で上昇継続確認済み】
末尾にカイルの言葉が一行添えられていた。
「レン。フォルから同じ通信が俺にも来た。全迷宮が一つに繋がっているとしたら——判定者の座は、その先にある。俺はその先へ向かう道を調べ始める」
俺は通信石を握ったまま、数値をもう一度見た。
十五パーセント。昨日より三ポイント増えた。このまま上がり続ければ、いつかどこかで不可逆の閾値を超える。
「まあ」
俺は一人で呟いた。
「聞いてから判断しよう」
まずゴブに話す。明日カイルと方針を確認する。
その先に——判定者がいる。
千年間、誰にも意図を聞かれたことのない存在が。
フォルの言葉が、もう一度頭の中で鳴った。
「あれは、世界を守るために……分けた」
【世界判定エラー:15%——上昇継続中】
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