第269話「生まれた瞬間から」
エルガ山脈の南側の道は、晴れた日でも石畳が湿っている。
三日かけて歩いてきた。革靴の右の踵がいつの間にか少し浮き始めていて、歩くたびにかすかな音を立てた。街を出るときに修理屋に寄るつもりが、出発を急いだまま忘れていた。大したことではない。ただ、静かな道ではよく聞こえる。
今日は出発前から何も食べていない。腹が鳴った。まあ後でいい。
木々の切れ間から石造りの門が見えてきたとき、俺は思わず足を止めた。
第七迷宮。
久しぶりに見ると、思ったより小さかった。いや、迷宮が縮んだわけじゃない。俺の記憶が大きく作り上げていただけだ。最初にゴブと話したあの夜を思い出すと、もっと巨大な場所のような気がしていた。世界が変わる直前、という感じのする場所として。
実際、変わったのかもしれないが。
俺は少し遠くから眺めた。
頭の中にはまだ、あの声が残っていた。三日前、バルタの新しい迷宮の奥で聞いた、感情のない声。
「門番。ランク外。廃止対象」
そして——「当初の判定記録を確認。「門番・ランク外」——これは処理不能による仮割り当てである」
仮割り当て。
七年間、俺はハズレだと思って生きていた。ハズレのジョブを引いた人間として、それが俺だと思っていた。ギルド長が判定の台の前で「門番。ランク外」と言ったあの朝から、ずっと。でも本当は違った。あのシステムが俺をどこにも分類できなかっただけだ。俺の行動記録が、処理できる枠の外にあっただけだ。
怒る気にはなれなかった。
腑に落ちた、という感覚の方が先に来た。そうか。最初から俺はどこにも収まらなかったのか、と。
まあ、今もそうだが。
踵が音を立てた。俺は歩き出した。
門の前に、一体の小さなゴブリンが立っていた。
緑がかった肌、大きな丸い目、小柄な体躯。見た目はいつものゴブだった。だが立ち姿が違った。背筋がきれいに伸びている。両手を体の脇に揃えて、視線は正面の遠い一点を見ている。まるで衛兵教本から抜け出してきたような姿勢だった。
俺が近づくと、そのゴブリンが動いた。
「ご来訪者様」
声には聞き覚えがある。だが口調が違った。
「こちらは第七迷宮です。立ち入りには目的の申告が必要になります。お名前と、訪問の目的をお聞かせいただけますか」
俺は立ち止まった。
「……ゴブ」
「はい、第七迷宮の門番が——」
「ゴブ」
「はい」
「久しぶりだな」
一拍、間があった。
ゴブの大きな目がゆっくりと俺を見た。また一拍。衛兵の顔が崩れるまでに、もう少しだけかかった。
「……レン」
「そうだよ」
「来るなら連絡してください」
「急に思い立って来た」
「衛兵の仕事をしていたところだったんです」
「してたな。上手かった」
「練習しました」
「誰に」
「カイル様に。一週間、みっちりと」
笑いそうになったが、こらえた。ゴブは真剣な顔をしていた。こういうときに笑うと傷つく。俺はそれを知っていた。
「入っていいか」
「……どうぞ。ただし荷物検査があります」
「旅人の荷物だ、たいしたものはない」
「規則なので。カイル様に言われました。「誰が来ても、規則は規則だ」と」
「あいつらしいな」
ゴブはちゃんと確認した。着替えと食料と、バルタの新迷宮で拾った灰色の石が一個。
「この石は」
「珍しい色だったから拾った」
「第七迷宮の素材ではないんですよね」
「ない。バルタで拾ったものだ」
「記録します」とゴブは言って、板の上に張られた紙に几帳面な字で何かを書き込んだ。
俺はその字を眺めながら、ゴブが変わったんだな、とあらためて思った。変わったけど、ゴブのままだった。
小屋の中は変わっていなかった。
テーブルが一つ、椅子が二つ、棚の上に石造りの水差し。窓から見える木々がわずかに大きくなっていた。右の壁に、前はなかった小さな棚が一つ増えていた。道具か記録か、ゴブが自分で取り付けたのだろう。
椅子に座ると、革がわずかに音を立てた。三日歩いた体に、椅子の固さが心地よかった。
ゴブが水差しから水を注いで差し出した。俺は受け取って一口飲んだ。冷たい水が喉を落ちていった。
「バルタで何がありましたか」
向かいに座ったゴブが聞いた。衛兵の口調は消えていた。いつものゴブの声だった。
俺はかいつまんで話した。世界中で判定の狂いが出ていること。カイルが確認しただけで百二十三箇所以上の石柱異変があること。バルタの平野に三百年ぶりの新迷宮が突然出現したこと。単独で踏み込んだこと。奥で聞いた感情のない声のこと。「分類不能」という評価。そして七年前の「門番・ランク外」が、処理不能による仮割り当てだったという事実。
ゴブは最後まで口を挟まなかった。
話し終えると、小屋の中が静かになった。窓の外で遠くに鳥の声がした。
ゴブは少しの間、カップを見つめていた。
「……七年間」と、ゴブは言った。「ずっとハズレだと思っていたんですか」
「そう思っていた」
「怒らなかったんですか」
俺は少し考えた。「怒り方が分からなかった」
ゴブは黙って俺を見た。
「俺も」と、静かに言った。「俺は弱小種で生まれて——怒っていいと思っていなかった。そういうものだから、しかたがない、と。怒り方じゃなくて、怒る権利がないと思っていた」
俺は何も言わなかった。
ゴブも何も言わなかった。
「それで」と、ゴブがようやく顔を上げた。「第七迷宮に来た」
「ゴブに確認したいことがあった」
「俺に、ですか」
「魔物の側でも、判定の狂いは出てるか」
ゴブの大きな目が、わずかに揺れた。
ゴブは少しの間、黙っていた。
窓の外で風が林を鳴らした。午後の光が傾いてきていた。空の色がすでに雨の色をしていた。
「……出てます」と、ゴブは言った。「十日ほど前からです」
「どんなことが起きてる」
「まず、説明があります」
ゴブは両手をテーブルの上で組んだ。少し考えてから、話し始めた。
「魔物にも、種族のランクがあります。人間のジョブランクと似たようなものです。強い種族が上位種で、弱い種族が弱小種。ゴブリンは弱小種の中でも下の方です。だからオークやトロルには逆らえない。上位種が先に食事をして、弱小種はその後。上位種が通る道は弱小種には使えない。細かい決まりがたくさんある。何百年も前から、ずっとそういうものでした」
俺は黙って聞いた。
「十日前の朝、第四層のオーク二頭が突然「弱小種」に再分類されていました。逆に、第二層のコボルドの一群が「上位種」に。誰も何もしていないのに」
「混乱した」
「大変でした」ゴブは少しだけ苦い顔をした。「そのオークの一頭が「俺はなぜ弱小種になってるんだ、おかしい」と俺のところに怒鳴り込んできて。権限がないのでフォル様に回しました」
「フォルはなんと」
「「私にも分からない。ただ、これは石柱の異変と繋がっているかもしれない」と言っていました」
俺は立ち上がった。小屋の中を一歩動いて、また止まった。
「その「種族のランク」は、誰が決めてるんだ」
「……わかりません」とゴブは言った。「昔からそうだから」
昔からそうだから。
俺はその言葉を静かに飲み込んだ。
昔からそうだから、そういうものだと思っていた。俺も七年間、「門番・ランク外はハズレだ」と思って生きていた。疑わなかった。疑い方を知らなかった。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「ゴブは——「弱小種」に生まれたことを、変だと思ったことはあるか」
ゴブはすぐには答えなかった。カップを両手で持ったまま、少し下を向いた。
「……ありました」と、静かに言った。「昔、仲間の一人が言っていたんです。なんでゴブリンは弱小種なんだって。なんで生まれた瞬間から下に決まってるんだって」
「その仲間は今」
「溢出のとき、逃げ切れませんでした」
俺は黙った。
ゴブも黙った。
「でも」とゴブは続けた。「誰もその疑問を本気で考えなかった。そういうものだから。変わらないものだから。俺も——仲間が言ったとき、そうだなと思っただけで、次の日には忘れていました」
「その仲間が聞きたかったのは、上と下を入れ替える話じゃなかったと思う」
ゴブは顔を上げた。
「なんで下にいる奴がいなきゃいけないのか、という話だったんじゃないか」
ゴブはしばらく俺を見ていた。
「……そうだと思います」と、ゆっくり言った。「でも俺には、その答えが分からなかった」
「俺にも分からなかった。ずっと」
「今も」
「今も分からない。でも——誰かが決めた話なら、聞きに行けるかもしれない」
ゴブはまた少し黙った。
「分けられていたのは、人だけじゃなかったんだな」
俺は自分でそう言いながら、あらためて実感した。石柱の異変が人間の世界で起きているのと同じことが、迷宮の中でも起きている。仕組みは一つだ。判定しているのも、上下を決めているのも、全部同じところから来ている。
「そうです」とゴブが言った。「俺たちもずっと、誰かが決めた「上下」の中に生きてきました。気づかないまま」
「気づかないまま」と俺は繰り返した。
「同じだ」と俺は言った。「俺と、ゴブと——もっとたくさんの連中が」
ゴブは小さくうなずいた。その顔に、複雑な何かが浮かんでいた。言葉にできなかったが、怒りでも悲しみでもないことは分かった。
「まあ」と、ゴブが言った。少し間があって、続ける。「聞いてから判断しましょう。その「上下」を決めた存在に、直接」
俺はゴブを見た。
ゴブはいつものゴブの顔をしていた。真剣で、少し不安で、それでも踏み込もうとしている顔。
「そうだな」と俺は言った。
【迷宮管理Lv.8:周辺迷宮の判定信号を検出——第七迷宮・第三迷宮・第十二迷宮において同一波形を確認中】
スキルの表示が視界の端に浮かんだ。同一波形。人間の石柱からの信号と、迷宮内部からの信号が、同じ振動のパターンを持っている。
つまり——全部、同じところから来てる。
【世界判定エラー:12%】
「フォルに繋いでもらえるか、今日中に」
「もう呼んでます」とゴブが言った。「レンが来るのが分かったら呼んでおくように、とカイル様から言われていました」
「あいつ、こういうところだけ仕事が早い」
「二代目調停者ですから」
俺は苦笑した。
ゴブが立ち上がって扉に向かった。一度止まり、振り返った。
午後の光の中で、ゴブの緑がかった顔が静かに俺を見ていた。その目の奥に何があるかは、うまく言葉にできなかった。怒りじゃない。悲しみでもない。俺が持っている言葉の中に、ぴったりくるものがなかった。
「レン」
「なんだ」
「俺は今も弱小種です。ランクは変わっていません」
「うん」
「でも——いつか、それが「誰かが決めた話」だったと分かるかもしれない」
「そうかもしれない」
ゴブは一度だけうなずいた。扉に手をかけて、最後に小さく鼻を鳴らした。
「外の調停者。また……厄介事の匂いだ」
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