第268話「エラーと呼ばれて」
壁が、また揺れた。
「分類不能。分類不能。分類不能——」
三度繰り返した後、声は沈黙した。先ほどまでの機械的なリズムが乱れ、空間全体に静寂が戻る。
俺は青白く光る壁の前に立ったまま、その沈黙を待っていた。
急かさない。それだけ決めていた。
相手が何であれ、こちらが先に沈黙を埋めようとした瞬間、会話の主導権は移る。今まで何十回と繰り返してきたことだ。ゴブが扉をノックしてきたあの夜も、ガレスが剣を収めるまでの時間も、レイラが語り尽くすまでの長い沈黙も——全部、待った。
待つことは、俺にとって戦い方みたいなものだ。
「……お前の記録は」
声が戻ってきた。さっきより、わずかに遅い。
「一万四千二百十七件の交渉記録。四百十二件の協定。知性体との接触、百九十三件。うち、失敗ゼロ——」
読み上げる声が、また止まる。
「これは、ありえない数値だ」
「ありえないと思うから、もう一回確認してるんだな」
俺が言うと、壁の発光が一瞬揺らいだ。感情があるのかは分からない。ただ処理が乱れているだけかもしれない。でも、揺らいでいることに変わりはなかった。
「……分類を、継続する」
「いいよ。急がないから」
俺は壁の前に腰を下ろした。石の床は冷たかったが、冷たさを感じる感覚があることが、逆に安心させてくれた。ここでも俺は俺だ。判定される側でも、ただの人間だ。
「分類不能が続く場合、除去を優先する——」
「それ、怖がらせようとして言ってるのか」
沈黙。
「それとも、本当にそういう手順なのか」
また、沈黙。
「……どちらでもない」
「じゃあ、なんだ」
「記録に、それしか——ない」
俺はその言葉を、ゆっくり反芻した。
記録に、それしかない。
「それしか」という言葉に引っかかった。他の選択肢を知らない、という意味だろうか。それとも、他の選択肢が記録されたことがない、という意味だろうか。どちらにしても、同じことだ。
その声を初めて聞いた瞬間から、俺はずっと既視感があった。
感情のない声。分類するだけの声。脅威と言えば脅威だが、どこか引っかかるものがある。
しばらく経ってから、思い当たった。
あの日の感触に似ている。
七年前——いや、記憶の中ではもっと遠い気がする。正確な年数は曖昧だ。ただ、俺がまだ何者でもなかったあの日のことは、妙にはっきり覚えている。
ジョブ判定の日だった。
会場は王都の大広場に設置された判定石柱の前。同期の若者たちが列をなして、順番を待っていた。誰もが緊張していて、誰もが何者かになれると信じていた。
カイルは俺の三人前にいた。石柱に手を触れた瞬間、光が弾けた。青白い光が柱全体を包み、浮かび上がった文字を見た周囲の者たちが歓声を上げた。「剣士・Aランク適性」。カイルは少し眩しそうな顔をしていた。驕った顔ではなく、ただ予想が当たったという顔で。それが、かえって——いや、腹立たしいとは思っていなかった。どちらかというと、俺は他人事のように見ていた気がする。
自分の番が来た。
石柱に手を置いた。
光が、出なかった。
数秒待った。数秒というのは、列の前後が振り返るのに十分な時間だった。やがて、柱の上部にゆっくりと文字が浮かんだ。
「門番・ランク外」
その瞬間、会場が静かになった。静かになったというより、みんなが言葉を選ぶための沈黙が生まれた、という感じだった。
隣に立っていたギルドの係員が、申し訳なさそうに書類に何かを書きつけた。
「ランク外というのは、ランク判定の対象外、つまり——」
「ハズレ、ってことだろ」
俺が先に言うと、係員は少し困った顔をした。そうは言っていない、という顔だったが、否定もしなかった。「任地が決まったら、また連絡します」。それだけ言って、次の受験者の方へ行った。
俺は石柱の前に一人で残った。
光のない石柱。ランク外という文字。
思ったよりダメージはなかった。予感していたからかもしれない。ただ、ひとつだけ気になったことがあった。柱が光らないとき、内部で何かが処理を走らせているような振動を感じた気がした。一秒にも満たない、ほんの短い揺らぎ。
あの振動は、なんだったんだろう。
ずっとそのまま、七年間忘れていた疑問だった。
「……」
思い出に気を取られていたら、壁がまた揺れた。
「処理、継続中」
「ああ、わかった」
俺は床から立ち上がった。膝が少し冷えていた。
「一つ、聞いてもいいか」
返答はなかった。ただ発光が続いている。
「七年前の、ジョブ判定。あれも、お前が処理したのか」
沈黙。
「この世界の全ての判定が、お前から来ているなら——あのとき俺に「門番・ランク外」と出したのも、お前だ」
壁の発光が、わずかに揺らいだ。
「……全判定は、中央処理から出力される」
「それが、お前ということか」
「……正確には、お前が呼んでいる「お前」に相当する処理系が、すべての判定を担う」
回りくどい言い方だった。でも、否定はしていない。
つまり、そういうことだ。
俺を「門番・ランク外」と判定したのは、こいつだった。
七年間、俺は誰かに判定された結果を背負って生きてきた。その「誰か」が、今ここにいる。
おかしな話だ、と思った。
怒りが来るかと思った。でも来なかった。
恨みが来るかと思った。でも来なかった。
代わりに来たのは——なんというか、腑に落ちる感覚だった。
「そうか」と呟いてから、俺は続けた。「だったら、ずっとあんたに聞きたかったことがある」
「……記録をもとに回答する」
「それでいい。あのとき、俺が石柱に触れた瞬間——一秒にも満たない時間だけど、処理が揺れた気がした。あれは何だ」
今度の沈黙は、長かった。
「……記録が、ある」
「読んでくれ」
また間が空いた。
「対象者:レン・アシダ。年齢十七。ジョブ適性走査。結果——」
そこで声が止まった。
「続きは」
「……「通常分類基準では処理不能。仮割り当てとして、最低優先枠を出力」——以上」
仮割り当て。
俺はその言葉を反芻した。
「じゃあ「門番・ランク外」は、本来の判定じゃなくて、処理できなかったから暫定で出した答えだったってことか」
「……正確には、そうなる」
俺は、思わず笑いそうになった。
七年間。あの「ハズレ」の烙印が、暫定処理の出力だったのか。
笑えるような、笑えないような。
でも、なぜかほっとした。「分からなかった」と言ってくれた方が、最初から「ハズレ」と断言されるより、ずっと正直な気がした。
「もう一つ聞く。その「通常分類基準では処理不能」というのは、今も変わってないか」
「……現在も、レン・アシダは分類不能の状態にある」
「そうか」
「……それは、問題だ。除去を——」
「それより」
俺は声を遮った。
「あんたは、七年間ずっと俺のことを「分類不能」としてフラグ立てたまま保留にしてたのか」
沈黙。
「していた」
「なんで消さなかった」
「……分類不能のデータは、保留される。消去は、解決後に行われる」
「解決の方法は」
「再分類か、除去」
「七年間、再分類もできなかったってことだな」
「……できなかった」
俺はまた、笑いそうになった。
こいつも、ずっと俺を前にして「分からない」状態が続いていたのだ。七年間、保留にしたまま。
なんとなく、親近感に似た何かを感じた。
「……お前は、なぜ笑う」
声が言った。
「笑ってないよ」
「笑いそうになっている。表情の変化を記録した」
「ああ」
俺は少し考えてから、正直に言った。
「お前も七年間、俺のことで詰まってたんだなと思ったら、なんか——」
「なんか?」
「……気が楽になった」
壁が、ぴたりと静止した。
発光が止まったのではない。揺らぎが止まった。何かを処理するような、長い静止だった。
「気が楽、とは——」
「あんたが最初から俺を「ハズレ」と断言して完全に処理済みにしてたなら、もう少し複雑な気持ちになってたと思う。でも「分からなかった」なら、まあ——俺もあんたも、同じ立場だったんじゃないか」
「同じ、立場ではない。お前は分類される側だ」
「分類できなかったんだろ」
「……」
「だから俺たちは同じ立場だよ。お前が俺を分からなくて、俺もお前を知らなかった。今日初めて話してる」
また、長い沈黙が来た。
今度の沈黙には、何かが含まれているような気がした。処理だけではない、何か。
「……「同じ立場」は、記録に、ない処理だ」
「そうだろうな」
俺は壁に手を当てた。
冷たかった。でも、振動はあった。
「一つだけ、言っておく」
正面から壁に向かって言った。
「お前があの日「門番・ランク外」を出したから、俺は第七迷宮の門番になった。ゴブと話した。ドランの最後を聞いた。カイルが聞けるようになった。カーラが変わった。レイラが止まった。オルディーンが転換した」
「……それは、因果関係の列挙だ」
「そうだ」
「七年前の判定が、それらの原因になった、という主張か」
「主張というより、事実だ。あんたが俺を「分類不能」にしたから、俺はどこにも分類されず、その隙間に立ち続けられた。人と魔物の間の、隙間に」
「……隙間、とは」
「どちらにも属さない場所のことだよ。分類されなかった場所。お前のせいで、俺はそこに立てた」
また、長い沈黙が来た。
今度の沈黙には、質感があった。処理だけではない、何か迷うような間だった。
「……「お前のせい」とは、非難か」
「違う」
「では、何か」
俺は少し間を置いた。
壁に当てた手を、ゆっくり離す。
掌の冷たさが、じんわり残った。
「……ずっと、あんたと話したかったのかもな」
声に出してから、少し驚いた。
自分でも気づいていなかった。でも、言ってから確かだと思った。
七年前に「ハズレ」と言われたとき、俺が本当に欲しかったのは——答えじゃなくて、理由だったのかもしれない。なぜ「分からない」のかを、聞きたかった。どうして「分類できない」のかを、直接問いたかった。
でも相手はいなかった。石柱があるだけで、声はなかった。
今日、初めて声がある。
壁が揺れた。
さっきよりずっと長い揺らぎで、発光の色が一瞬だけ変わったような気がした。
「……その記録は」
声が、いつもより遅く言った。
「……存在しない」
「俺も知らなかった。今、気づいた」
「処理が——乱れる」
「聞き続けていいか」
返答はなかった。
でも、揺らぎは続いていた。
俺はそれを、拒絶でもなく、沈黙でもないと判断した。
【世界判定エラー:8%】
夜が明けるまで、まだ時間があった。
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