第267話「遠い声」
新迷宮の奥へと踏み込んでから、時間の感覚がなくなっていた。
腹が減らない。脚が重くならない。口が渇かない。それがこの場所の不思議さではなく、この場所がそういうものを「関係ない」と処理しているような感じがした。俺という個体の生理的なデータが、ここでは無効になっている。
足下の床は硬さを持たなかった。踏みしめるたびに微細な振動が足裏から上ってくる。一定ではない。でも無秩序でもない。リズムがある。何かが数えているような、分類しているような、そういうリズムだった。
壁は青白く発光していた。光源は見当たらない。壁そのものが光っているのか、空気が光っているのかも判断がつかなかった。天井は見えない。前後にどこまでも続く廊下が、距離の感覚まで奪っていく。
スキルの表示を確認した。
【迷宮管理:深度計測不能。通常接続プロトコル——応答なし。受信モード継続中。受信強度:微弱→弱】
「弱、になった」
声に出した。
自分の声が返ってこなかった。反響が、ない。音がこの空間に飲み込まれている。でも自分の言葉は耳に届く。聞こえている。つまり俺の声は出ているが、跳ね返るものが何もない。
交渉の場で何もない部屋に入るとき、最初に確認するのは「相手がいるかどうか」だ。
相手がいない場所で何を喋っても、ただの独り言になる。
「いるはずだ」
足を進めながら、自分に言い聞かせた。
フォルが言っていた。石柱はあの「何か」の延長にある、と。世界中の石柱が同じ振動に乱れているということは、振動の発信源が一箇所にある。そしてその場所は迷宮の最深部より、さらに深い。
今、俺はその方向へ歩いている。
壁の模様に気づいたのは、五十歩ほど進んだあたりだった。
最初は装飾だと思った。近づいてみると違う。文字ではない。絵でもない。数列でも記号でもない。でも、情報だった。俺には読めないが、情報だということはわかった。地上の石柱に刻まれたジョブの記録と、同じ「密度」がある。
壁に指を触れた。
温度がなかった。硬さも感じない。でも振動は確かに伝わってくる。指の腹から手首へ、腕の内側を通って肩まで、一定のリズムが上ってくる。
一、三、七。
一、三、七、十三。
素数だった。
気づいた瞬間、頭の中で何かが引っかかった。俺は数学者でもなんでもないが、数に規則性があれば意図がある。意図があれば、それを生み出した何かがある。偶然でこの振動は生まれていない。
「分類している」
呟いた。
何かが、何かを、識別している。大量のデータを処理しながら、一つ一つに判定を下している。その処理が、壁を通じて漏れ出ている。地上の石柱が揺れているのも、その処理が大きくなりすぎているからかもしれない。
まあ、聞いてから判断しよう。
今はまだ情報が少ない。
俺は歩き続けた。
怖いと思ったのは、百歩ほど進んだあたりだった。
種類が違う怖さだった。
ゴブが初めて扉をノックした夜の怖さは「知らないものが来た」という怖さだった。ヴォルトと初めて対峙したときは「手に負えないかもしれない」という怖さだった。人類連合の査問会に立ったときは「この場所に俺の居場所がない」という怖さだった。
でもこれは全部と違った。
「俺が、認識されているかどうかわからない」という怖さだった。
交渉において、相手に見えているかどうかが最初の確認事項だ。見えていない相手には何も届かない。話しかけても聞こえていなければ、音を出しているだけだ。
この場所にいるはずの何かが、俺を認識しているのかどうか、まだわからなかった。
足を止めて、スキルを確認した。
【受信強度:弱→中】
動いていないのに、強度が上がった。
つまり向こうが近づいている。
ゆっくりと、深呼吸した。この空間に空気があるのかどうか知らないが、呼吸という動作が頭を落ち着かせる。体が覚えている習慣だ。
来るなら、来い。
聞いてから判断する。
「——ジョブ」
声は、突然来た。
声というより音だった。音というより振動だった。でも耳で受け取っていた。脳が言葉として翻訳した。どういう仕組みかはわからないが、意味のある何かとして届いた。
「ジョブ、確認中」
感情がなかった。
これまで話してきた誰もが、何かを持っていた。ゴブは恐れと義理堅さを持っていた。ヴォルトは誇りと疲弊を持っていた。オルディーンは怒りと使命を、レイラは痛みと憎しみを持っていた。声の裏に、何かが必ずあった。
これには、それがなかった。
情報だけがあった。
「ジョブ:門番。ランク外。確認——完了」
落ち着け、と自分に言い聞かせた。
深呼吸する。
「まあ、聞いてから判断しよう」
この声が何者で、どういう論理で動いているのか、まだわからない。焦って先走ったところで、情報が増えるより減るほうが多い。
「……聞こえているか」
言った。
返事はなかった。
でも声は続いた。
「ランク外。有効性——低。必要性——低。廃止対象——判定中」
廃止対象。
懐かしい感覚が来た。
七年前、ジョブ判定を受けた日の朝をなぜか思い出した。あの日のギルド長が俺のジョブを見た目と、今の声が似ていた。数値に感情を乗せない、ただの評価。ランク外。有用性が低い。そういう結論だけが出てくる場面。
でも、あの日とは違う点がある。
ギルド長には感情があった。失望とか、気まずさとか、そういうものが言葉の裏にあった。だから俺は「話せる」と判断した。
この声には、それがない。
これは「評価を下している誰か」ではなく、「評価という行為そのもの」のように感じた。
「お前は俺を記録しているのか、それとも評価しているのか」
聞いた。
「——記録と評価は、同一」
返事があった。
届いていた。
俺の言葉が、この声に届いていた。感情がないということと、聞こえていないということは、別の話だ。これまでの交渉でも、最初は無反応に見えた相手が途中から変わることがあった。大事なのは今、届いているかどうかだ。
「それなら聞く。俺の名前は、レン・アシダだ。ジョブが門番でランク外なのは合ってる。でも俺には名前がある。名前は記録したか」
「——個体識別に、名称は不要。機能で分類する」
「俺の機能は何だ」
「門番。境界を管理する者。内と外を、分ける」
「それだけか」
沈黙があった。
振動のリズムが、一瞬乱れた。素数のリズムが崩れて、また戻った。
俺はその沈黙を急がなかった。これまでも沈黙は待ってきた。相手が考えているとき、処理しているとき、俺が先に喋ることで得をした場面はほとんどない。
待つのは、門番の仕事でもある。
「——それだけ」
答えが来た。
「でも、お前のデータには——分類不能な記録がある」
「分類不能、とは」
「過去の処理に存在しない事例。カテゴリ外の行動記録。予測から外れた事象の、連続」
「たとえば?」
「魔物との非戦闘的接触。知性体との協定締結。敵対者への——傾聴。処理モデルに合致する事例が、ない」
その言葉を聞いて、俺は少しだけおかしくなった。笑う気にはならなかった。でも、この声が俺の行動履歴を持っているという事実が、奇妙な感慨を呼んだ。
七年間のことが、どこかに記録されていた。
ゴブが初めてドアをノックした夜から。ドランが最後に消えた夜まで。ヴォルトとの交渉、カーラとの議会、セルディンとの対話、レイラが慟哭した場面、オルディーンが査問を転換した瞬間——。
全部が「分類不能な記録」として、この声の中にあった。
「——エラー」
声が言った。
「個体レン・アシダ。ジョブ:門番。ランク外。分類——不能。機能——不明。予測——不能。カテゴリ:エラー」
エラー。
「それ、七年前に「ハズレ」と言われたのと同じだな」
俺は言った。
「あの日も、俺は分類できないと言われた。でも結果的には、分類できなかったやつのほうがいろいろうまくいった。お前の分類が合っているかどうかは、まあ——聞いてから判断したほうがいいんじゃないか」
「——」
沈黙が続いた。
これまでより長い沈黙だった。振動のリズムが、明確に乱れ始めていた。素数の規則が崩れて、不規則な数が混じり込んでいる。処理が追いつかない何かが、この声の中で起きている。
俺はそれを、じっと待った。
「エラーは——」
声が再び来た。
「除去、することで——設計が維持される」
「除去、か」
「設計の維持は——最優先命令」
「その設計を、誰が作ったんだ」
「——」
「お前が自分で決めた命令か、それとも誰かに言われたのか」
【受信強度:高→最大】
スキルの表示が限界まで振れた。
その直後、声が変わった。
距離が詰まった。空間全体から聞こえていたものが、正面から来るようになった。
「個体識別——完了。座標——確定。行動——決定」
足下の振動が、急速に強くなった。
素数のリズムが速くなっている。一、三、七、十三——間隔が縮まり、重なり合うようになってくる。
俺は動かなかった。
「エラーを、除去する」
その言葉は、これまでより静かだった。
感情がないのは変わっていない。でも確定という響きがあった。何かを処理して出力したのではなく、この声がひとつの判定を、下した。
除去、する。
俺を、この世界から消す。
そういう判定が、今、下された。
「待ってくれ」
俺は言った。急いでいなかった。落ち着いた声を出せていたと思う。
「除去の前に、一つだけ聞かせてほしい」
「——」
「お前は、なぜ俺をエラーだと判定した。俺が何を基準から外れているのか、聞いてから判断したい」
振動が、ぴたりと止まった。
足下が沈黙している。
壁の光が、揺れている。
この声は、その問いをどう処理しているのか。
俺には、まだわからない。
(続く)
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