第266話「増える迷宮」
フォルの声が、まだ頭の中に残っていた。
「私たちはあれと石柱の間にいた——」
そこで途切れた。一時間前のことだ。
カイルは何度も通信符に触れ直していたが、応答はなかった。調停局の会議室に、無音だけが積み重なっていく。
「向こうが切ったのか、切れたのか」
俺が言うと、カイルが眉を寄せた。
「区別がつかない。フォルはいつも——言い切る前に終わらせる」
「意図的か」
「分からない。ただ、どちらにしても」
カイルが通信符を机に置いた。
「あの続きを聞かないと、何も始まらない」
俺は黙って窓の外を見た。夕暮れを過ぎたヴァリスの空は、どこにでもある平凡な藍色だった。
石柱の異変が百二十五箇所。子供の判定が消えた村が三十四。農夫が「勇者」になり、鍛冶屋が「魔導士」になり、誰もが自分の肩書きを信じられなくなっている世界。
「私たちはあれと石柱の間にいた」。
迷宮知性体たちが、石柱システムと——その底にある何かとの間に位置していた。仲介者か、緩衝材か。それとも別の何かか。
考えていると、扉が開いた。
「緊急の報せです、アシダ殿」
入ってきたのは連合の文官レイヌだった。手に書状を持っている。
「西南のバルタ地区に——新しい迷宮が出現しました」
「新しい迷宮」
「今朝から地盤が隆起し始め、日没直前に入口が開いたと。最後に非公式の迷宮が出現した記録は、三百年前が最後で——」
カイルが低く唸った。
「三百年。封印が弱まり始めたのと同じ頃か」
「民間人への被害は」と俺が問う。
「今のところはありません。ただし近隣の村落が自主避難しており、混乱が広がっています」
「内部に入った者は」
「いません。誰も中に入っていません」
俺は立ち上がった。
「行く」
カイルが反射的に腰を浮かせた。
「俺も——」
「一人でいい」
「なぜだ。どんな迷宮かも分からないのに」
「だから行く。分かるまで待ってたら間に合わないことがある」
「それとこれは——」
「まあ」と俺は言った。「聞いてから判断しよう」
カイルが深く息を吐いた。
「……俺もあとから来る。止めても無駄だろうから言っておく」
「助かる」
外套を手に取りながら、俺はレイヌに現場の座標を確認した。
バルタ地区に着いたのは、深夜に近い時刻だった。
地平線の向こうに農村の明かりが点在する中、平野の一角に松明の列が展開していた。連合の先遣隊だ。炎が春の夜風に揺れ、その向こうに人影がたくさん見えた。
村ごと避難してきた人々だった。
老人が地べたに毛布を広げ、若い男たちが焚き火を囲んで声を潜めて話し合っている。どこかから子供の泣き声が届いていた。途切れ、また繰り返す。
迷宮は、平野の中央から盛り上がっていた。
元は麦畑だったはずの場所だ。刈り跡が途中で斜めに断ち切られ、石の塊が地面を押し破るように隆起している。人の背丈の五、六倍ほどの高さで、形は不規則だったが——入口だけははっきりしていた。岩と岩の隙間に、縦長の開口部が口を開けている。
遠目にそれを見ながら、俺はスキルを展開した。
【迷宮管理Lv.7:新迷宮(名称未登録)——内部構造確認中。深度:計測不能。知性体の有無:不明。管理者:未設定】
「計測不能」か。
第七迷宮を管理していた頃、深度が計測できないことはなかった。第二十三層まで、数値は必ず出た。この表示は初めてだ。
「あんた、中に入る気かい」
声をかけてきたのは老婆だった。毛布を頭から被って、焚き火の側にしゃがんでいる。俺の外套と旅人の靴を見て、部外者だと察したのだろう。
「確かめに行くところです」
「何を確かめるんだい」
「中に何かいるかどうか」
老婆は、俺の全身を上から下まで眺めた。長く生きた人間の目は、あまり驚かない。
「……バカだねぇ」
言いながら、目が笑っていた。
「気をつけなよ」
「ありがとうございます」
先遣隊の隊長に声をかけて、入口周辺から人を遠ざけてもらった。
入口の前に立った。
岩の隙間から、冷えた空気が流れ出していた。五月の夜気より明らかに低い温度だ。底の見えない冷気で、呼吸すると白くなる。
手袋を持ってくればよかったと思ったが、今更どうにもならない。
指先を握り締めて、俺は中に入った。
内部は、暗かった。
完全な暗闇ではない。岩の壁面が青白い光を放っていた。苔に似ているが苔ではない。光の粒が岩の表面にびっしりと付着して、通路全体をほのかに照らしていた。
第七迷宮の壁面発光に似ていた。
でも第七迷宮が発光するのは、長い年月で魔素が石に染み込んだ結果だとヴォルトが教えてくれた。ここは今日生まれたばかりの迷宮で、それが最初から光っている。
長い時間の重さが、石の中に最初から入っていた——そういうことか。
壁に手を当ててみた。
冷たかった。石の冷たさではなく、地の底の温度だ。地中の深い場所でずっと眠っていたものに触れている感覚で、指先がじんと痛んだ。
一歩進むごとに、音が届いた。
低い振動音だった。音というより震動に近い。胸の奥に伝わる低周波で、耳で聞くというより体で感じる。
規則的だった。一定の間隔で、繰り返している。
脈打つような、と先遣隊の隊長が言っていた。確かにそうだった。ただし——心臓の音より感情がない。機械のような、法則だけでできているような音だった。
通路に分岐はなかった。
通常の迷宮なら入口から数十メートルで最初の分岐が現れる。ここには一切なく、ただ下へ向かって続いている。
勾配が急になってきた。旅人の靴は底が薄く、この地面には向いていない。一歩ずつ確かめながら降りる。
どれだけ歩いたか分からない。
外の明かりは、いつのまにか届かなくなっていた。岩の発光だけが頼りだ。指先が冷えてきた。足裏の感覚が薄れ始めている。外套の前を合わせ直しても、底冷えが骨まで届いてくる。
振動音の密度が濃くなっていた。
音の大きさが変わったのではなかった。密度が変わった。周囲の石に音が染み込んでいるような——空気そのものが振動を帯びているような感覚。
そこで、スキルが動いた。
【迷宮管理Lv.7:交渉モード——発動条件を検知。接触先の種別:未分類。通常プロトコルでの接続:不可能】
「通常プロトコルで不可能」。
初めての表示だった。
交渉モードは、ゴブが初めて扉をノックしてきた夜から——ヴォルトとの深層対話、封印層の「外から来るもの」との接続まで、一度も「不可能」を返したことがなかった。
接続はできる。方法が違う、ということだ。
俺は立ち止まった。
目を閉じる。
スキルを「交渉」ではなく「受け取る」だけの状態で開いておく。言語化するのが難しいのだが——答えを出す前に、まず待つ。ゴブが扉をノックしてきた夜、自然とそうしていたことだ。
振動音が、変化した。
いや、変化したのではない。
こちらの「待つ」に反応して、向こうが形を変えた。
そういう感覚だった。
規則的だった脈拍が、わずかにリズムを乱した。
俺はその変化を感じながら、もう一歩、奥へ向かって踏み出した。
【迷宮管理Lv.7:初期接触チャンネル——確立中。相手方の処理を待機】
「待機」という表示もこれまでにはなかった。スキルが相手の準備を待っている。
俺はそのまま立って、待った。
冷えた空気の中に、振動音だけがある。
かじかんだ指先を、外套の内側に引っ込める。息が白く吐き出されて、消えていった。
どれだけ待っただろう。
それから、声が来た。
音声ではなかった。
ゴブが最初に話しかけてきたとき、迷宮管理スキルが仲介したあの感覚に近い。言葉が、頭の中に直接生じる。でも温度が全く違った。
ゴブのときは、緊張があった。怖さと必死さと、微妙な恥ずかしさが混じった、生き物の声だった。
これには何もなかった。
感情がない、というのとも違う。感情という概念が最初から存在しないような——情報を処理する機構が、こちらを「確認」している。
声が言った。
——ジョブ:門番。
間があった。
——ランク外。
また間があった。
その間は——あの日のギルドの判定に似ていた。十七歳の夏、石柱の前で光の変化を待っていたあの数秒間。どんなジョブが出るだろうと固唾を呑んで待っていた、あの瞬間。
——……エラー。
声が、言った。
俺は目を開けた。
青白く光る岩の通路。脈打つ振動音。冷えた空気。
「エラー」か。
怒りも軽蔑も警戒も、何一つなかった。ただ分類した。ただ結果を出した。処理の副産物として、こちらに知らせた——それだけだ。
俺は、その声に向かって何かを言おうとした。
でもその前に、
【迷宮管理Lv.7:接触チャンネル——待機中。次の接触を待機】
スキルが先回りして、切り替わった。
向こうから、接触を切った。
俺はしばらく、その場に立っていた。
「エラー」という言葉が、頭の中に残っていた。
あの日「ハズレ」と言われた。この声は「エラー」と言った。言葉は違うが、意味は同じだ。判定の体系に収まらない存在。格付けの外にいる何か。
問題は——この声が、何を「エラー」と呼んだのか、だ。
俺のジョブだけなのか。
それとも——俺がやってきたことを全部含めて「エラー」と判定しているのか。人と魔物が話せるようになったこと。共存協定。査問会で繋いだすべての言葉。カイルに渡した調停者の仕事。ゴブが今日も第七迷宮の門の前に立っていること。
もしそうなら。
この声と俺は、長い話をしなければならないことになる。
俺は踵を返した。
来た道を、戻っていく。岩の発光が足元を照らしていた。振動音は変わらず続いていた。
明日、もう一度入ろう。
今夜は外で状況を整理する。カイルに報告して、フォルへの接触も再試行する。「私たちはあれと石柱の間にいた」——その意味と、この声の関係を考える必要があった。
出口の光が見えてきた。
そのとき、もう一度だけ、声が届いた。
遠くから、かすかに。先ほどより薄く、でも確実に。
——ジョブ:門番。ランク外。……エラー。
今度は——それだけではなかった。
声の最後に、ほんのわずかだが——何かが続こうとして、止まった。
止まった、というより——
次の言葉を、まだ処理している。
俺は出口の手前で足を止めた。
【迷宮管理Lv.7:接触チャンネル——次の判定、保留中】
「保留中」。
エラーの次が、保留されている。
外の空気が、入口の隙間からひんやりと流れ込んでくる。遠くで、子供の泣き声が止んでいた。
俺は立ったまま、その表示を見つめた。
エラーの次に何が来るのか——除去か、それとも別の分類か。
あるいは——これまで誰も持ち込まなかった何かを、この声は初めて処理しようとしているのか。
判定が、保留されている。
それはつまり、まだ結論が出ていない、ということだ。
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