第265話「私たちも、分けられた」
スキルの感触が、まだ指先に残っている気がした。
昨日、ヴァリスの広場で石柱に触れた瞬間のことを、何度も思い返している。「迷宮管理」スキルが世界中の石柱からの信号を追いかけた先に、収束する一点があった。地表から遥か深い場所。迷宮の底よりさらに下。そこから、何かが届いていた。
声とは違う。光とも違う。何か——もっと古いもの。
「整理しよう」
俺が言うと、カイルが苦い顔をした。机の向こうで腕を組み、大陸地図を睨んでいる。目の下に青みが出ている。昨夜あまり眠れなかったのかもしれない。
「整理できるのか、これを」
「できるかは分からない。でも、やらないよりマシだ」
「……そうだな」
調停局の会議室は、午後になっても来客がなかった。連合の技術者たちは各地の石柱の実地調査に出ていて、局内は静かだ。大陸地図の上には赤い×印が百二十五個、散らばっている。朝一番にカイルが確認した最新の数字だ。
昨日より二つ、増えていた。
世界のどこかで、また子供の判定が消えた。
窓から午後の光が斜めに差し込んでいる。ヴァリスの広場からは人の声がかすかに聞こえる。買い物をする者、子供を連れた親、石畳を急ぎ足で行く兵士。あの中の誰かが今朝、わが子のジョブが「判定不能」になったと通知を受けたかもしれない。石柱の番台が「機能していない、原因不明だ」と首を横に振るのを前に、どんな顔をしたのか。
俺には想像しかできない。
「フォルから何か来ていないか」
俺が問うと、カイルは首を振った。
「さっきまで何もなかった。でも——」
その言葉が途切れた瞬間、カイルの表情が変わった。
二代目調停者のスキルが反応している。かつては俺が持っていた力——迷宮との接続を可能にする、あの感覚。フォルへの「恒常通信」が開かれたのは何年も前のことだ。今、その力はカイルの手にある。俺には感触がない。でも、カイルが接続するときの空気の変わり方だけは、隣にいれば分かる。
「来た」
カイルが短く言った。声が少し硬い。
「フォルか」
「ああ。——緊急だと、思う」
「繋いでくれ」
カイルが目を閉じた。
フォルの声は直接聞こえるわけじゃない。カイルのスキルを通して伝わってくる印象が、言葉に変換されるまでに少し時間がかかる。以前、フォルと直接話したことがある俺には、その重さがおおよそ分かる。感情と情報と、何か言語化しにくいものが一緒に来る。カイルはそれを毎回受け止めている。
俺は黙って待った。急かしても意味がない。
しばらくして、カイルが口を開いた。
「——「あれが、目を覚ましかけている」」
「あれ、というのは」
「待って。まだ来てる」
カイルが額に手を当てた。眉間に皺が刻まれる。椅子の座面を、空いている方の手でぎゅっと握っている。それがカイルの、「負荷がかかっている」ときの癖だ。
「——「第七迷宮の最下層より、さらに下。そこからの振動が、三日前から急に変わった。最初は小さかったが、昨日から加速している」」
三日前。
石柱の異変が最初に報告されたのも、三日前だ。
「フォルに聞いてくれ。その振動と、石柱の異変に関係があるか」
カイルが伝える。少しの間があって、返答が来た。
「——「ある。石柱は、あれの延長にある。あれが揺れれば、石柱も揺れる」」
俺はゆっくりと椅子の背に体を預けた。
石柱は、あれの延長にある。
石柱のシステムは、地下深くの「あれ」が生み出したものだ。あるいはその一部だ。世界中に配置されたジョブ判定の仕組みが、一つの「震源」に繋がっている。そう考えると、三日前からの一致も、百二十五箇所に及ぶ×印の分布も、全部——同じ根から揺らいでいることになる。
「フォルは、あれが何だと思っている?」
また間があった。今度は少し長い。
「——「分からない。でも、いる。ずっと前から、あった。私が目覚めるより、ずっと前から」」
俺は少し黙った。
フォルが迷宮の核として目覚めたのがいつなのかは、正確には知らない。第七迷宮が生まれた頃にはすでにいたはずだ。数百年は下らないだろう。
その前から、「あれ」はいた。
「フォルは——今、怖いか」
カイルがその言葉をそのまま伝える。短い間のあと、返答が来た。
「「怖い……という感覚に、近いかもしれない。でも——」」
カイルが一瞬止まった。
「——「それよりも、知りたい、という感覚がある」」
俺はその言葉を、そのまま受け取った。
知りたい。
迷宮の核であるフォルが、自分たちより古い何かに対して——恐怖より先に、知りたいという感覚を持っている。
「フォル」と俺は言った。
カイル越しに問いかけるのは少し奇妙な感じがするが、もう慣れた。
「お前は、あれを感じたことがあるか。今ではなく——ずっと昔に」
返答まで、今度は長かった。
カイルが目を閉じたまま、少し顔をゆがめた。何か、複雑なものが流れ込んでいるのかもしれない。俺は声をかけなかった。窓の外を鳩が一羽横切って、広場の方へ飛んでいった。
「……フォルが言ってる」
カイルの声は、いつもよりゆっくりしていた。
「「感じた、ことはある。ずっと昔に。あれが初めて動いた頃に。見た、という言葉が正しいかは分からない。でも——知っている、という感覚はある。遠い記憶だが、消えていない」」
「初めて動いた頃、というのはいつ頃だ」
「「私には時間の感覚が正確でない。ただ——石柱が、最初に世界に現れた頃だった、と思う」」
俺の手が止まった。
石柱が最初に世界に現れた頃。
石柱は最初からあったわけじゃない。どこかの時点で、世界に生まれた。誰かが作ったか、何かが生んだか——それを俺は深く考えたことがなかった。石柱は「あるもの」として存在していた。空気や水と同じように。ジョブ判定は「世界の法則」だと、誰もがそう思っていた。
でも、法則は生まれる。始まりがある。
「フォル、石柱を作ったのが、あれだと思うか」
長い沈黙だった。
カイルの表情から、少しずつ色が抜けていった。受け取っているのが言葉というより、もっと直接的な何かになっているのかもしれない。
俺は待った。
会議室の中が静かだった。遠くから鐘の音が一回、それきり聞こえなくなった。
「——フォルが、何か言ってる」
カイルが、いつもと違うトーンで言った。
「はっきりした言葉じゃない。でも——印象として来てるものがある」
「そのまま言ってくれ」
カイルが少し息を吸った。
「「石柱の下に、私たちはいる。石柱の向こうに、あれがいる。私たちは——あれと、石柱の間にいた。ずっと」」
あれと、石柱の間。
「間に、というのはどういう意味だ」
「分からない。フォルも、言葉にしにくいみたいで——」
カイルが止まった。
また、何かが来たのだろう。俺は黙って待った。
カイルの眉が、わずかに上がった。受け取った何かが大きかったのかもしれない。机の縁を握る手に、力が入っている。
「——フォルが」
カイルが、静かに言った。
「もう一言、言いたいと言ってる」
「聞かせてくれ」
カイルが目を閉じたまま、息を整えた。
俺は待った。
窓の外の光が、少し傾いていた。広場の声が遠くなっている。時間が、止まっているような気がした。
やがて、カイルがゆっくりと口を開いた。
「「私たちも……分類された側だ」」
接続が、切れた。
カイルが目を開けた。額に汗がにじんでいる。机の縁を掴んだまま、しばらくそのままでいた。
俺は何も言わなかった。
会議室が静かだった。
分類された側。
その言葉が、ゆっくりと重くなっていった。
石柱がジョブを決める。その石柱を生んだのが「あれ」だとするなら——石柱によって分類されてきたのは、人間だけではない。迷宮も。迷宮の核も。フォルも、ヴォルトも、「来た者」たちも。全部、同じ仕組みの中に収められていた。
俺がかつて「ジョブ:門番(ランク外)」と判定されたように——フォルもまた、何かに「収められた」のか。
役割を与えられた。場所を決められた。そして長い間、それが世界の法則だと思っていた。
フォルが「知りたい」と言っていた理由が、少し分かった気がした。怒りではなく、恐怖でもなく、ただ——知りたいのだ。自分を分類した者が何者で、なぜそうしたのかを。
まあ、聞いてから判断しよう。
俺も同じだ。
「カイル」
俺が言うと、カイルがゆっくり顔を上げた。
「無理するな。今日はもう繋がなくていい」
「……大丈夫だ」
「大丈夫じゃない顔をしている」
カイルが少し黙って、それから苦笑した。
「——フォルの言葉、どう思う」
「フォルも、分けられた側だった、ということだろ」
「それだけか」
「それだけじゃない」とカイルが言った。「フォルが「私たちも」と言った。「私たちも」——つまり、他にもいる。分類された側が、他にも」
俺はカイルを見た。
その通りだ。「私たちも」という言葉は、フォルだけを指していない。迷宮の知性体全体か、あるいはもっと広い何かか——分けられた存在が、複数いる。
「「分けた者」がいて、「分けられた者」がいる」
「そうだ」
「俺も、分けられた側だった」
カイルが、少し口元を引き結んだ。
「そうだな」と、静かに言った。「ジョブ:門番(ランク外)——あの判定を、何かが下した。何かが、お前を「そこ」に収めた」
窓の外で、雲が少し動いていた。
ヴァリスの広場には、まだ人が歩いている。あの人たちが知らない深いところで、何かが目を覚ましかけている。石柱の異変が続いている。分けられた者たちが、分けた者の気配を感じ取っている。
フォルの言葉が、まだ静かにそこにあった。
「私たちも……分類された側だ」——。
【世界判定エラー:8%】
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