第263話「呼び戻し」
連絡符が、扉の下から差し込まれていた。
宿の朝はまだ薄暗かった。リナが「今朝の早いうちに届いていました」と台所から持ってきた時、俺はベッドから起きたばかりで頭がまだぼんやりとしていた。小さな紙片が、白く光っている。
触れると光が消えた。文字が浮かぶ。カイルが二代目調停者の権限で飛ばす通信だと、すぐに分かった。
日付は昨夜の深夜だった。
文字は短い。
『レン。起きてるか。大事な話がある。できれば今すぐ返事をくれ。——カイル』
「来てくれるか」と書かず「今すぐ返事をくれ」と書いている。いつもなら「返事しろ」と書く。言葉が少し丁寧になっている時は、余裕がなくなっている時だ。
返信の紙を探しながら、窓の外を見た。
エグラス村の判定石柱が、今朝も白く光っていた。昨日より少し強い気がする。光の周期も、微妙にずれている。
「気のせいじゃないな」
「え?」
振り返ると、リナが朝食の皿を持って立っていた。
「ああ、すまない。石柱のことを考えていた」
「昨日より明るい気がして。気のせいかなって思ってたんですけど——」
「気のせいじゃないと思う」
リナが少し顔を曇らせた。宿の娘だ。エグラス村で生まれ育って、石柱がいつも同じ光り方をしているのを見てきた。それがおかしくなっていることへの不安が、表情ににじんでいた。
「直りますかね」
「誰かに聞いてみる」
「誰に?」
俺はそこで答えに詰まった。
本当に、分からなかったから。
そこに返信が届いた。紙片がまた光る。俺は広げた。
今度は長かった。字の線が荒れていた。急いで書いたのが分かる。
『昨夜、連合から正式な照会が届いた。「ジョブ判定異常への調停協力依頼」という名目だ。名指しはお前。正確には「第一部・第二部の主席関係者」という表記だが、その肩書きで該当するのは一人しかいない。
連合の集計では、現時点で——
・ジョブ表示の書き換え :確認83地点
・石柱機能の完全停止 :17地点
・子供のジョブ判定消失 :34村
・魔物側の種族ランク変動 :迷宮内部12か所
全部昨日の数字だ。今日はもっと増えているかもしれない。
正直に言う。これは俺が対処できる案件じゃない。調停というのは相手がいる話だ。その相手が誰なのか、俺には分からない。手も足も出ない。
ヴァリスに来てくれるか。——カイル』
読み終えて、俺はしばらく文字を見た。
「来てくれるか」。
カイルはいつも「来い」と書く。頼み方が直接的だ。でも今日は「来てくれるか」だ。
それだけ、困っているんだろう。
「どうしましたか」
リナが心配そうにこちらを見ていた。俺は荷物をまとめながら答えた。
「少し遠くまで行くことになった」
「また、戻ってきますか」
「戻ってくる。まだ——聞いてから判断しなきゃいけないことが、残ってるみたいだから」
リナが何か言おうとして、止めた。
宿を出る前に、俺はもう一度だけ窓から石柱を見た。白い光が、揺れていた。規則正しいはずの周期が、今日は特にずれている。
まるで何かを数え直しているみたいに。
街道は穏やかだった。
共存協定が発効してから、一年が過ぎた。道には商人が行き来し、たまに魔物の姿も混じっている。以前なら手が剣に向いていたような場面でも、今は軽く目礼して通り過ぎる。
それが当たり前の光景になっていた。
俺はその中を歩きながら、「誰と話せばいい」という問いを転がしていた。
ゴブが最初に来た夜、相手の顔があった。暗い扉の向こうで震えていた小さなゴブリンの顔を、俺は見た。だから扉を開けた。
第二部で人類連合から《人類最大の脅威》に指定された時も、相手の顔があった。オルディーンには議長席という舞台があった。セルウィンには硬い論理があった。レイラには——誰も受け止めきれなかった痛みがあった。
俺はその顔を見ながら、話を聞いた。
それしかやり方を知らなかった。
今回は、顔がない。
街道の脇に判定石柱が立っている。通りかかった行商人の男が柱を叩いた。
「また壊れてる。これで三本目だ」
「いつから?」
俺が声をかけると、男は振り返った。
「昨日の夕方から。このあたりの柱、全部おかしい。俺の荷馬が「勇者A」って判定されてた」
男は笑った。ただし、目が笑っていなかった。
「笑い話ですよね」と俺は言った。
「笑い話ならよかった。本当のことだから笑うしかない。馬が勇者で、俺が「判定不能」だ。どういうことだよ」
「「判定不能」に?」
「今朝また触れたら、そう出た。昨日は「農夫B」だったのに」
男は舌打ちをして行ってしまった。
俺は少し立ち止まって、石柱を見た。
白い光が揺れている。揺れ方が不規則だ。規則正しいはずの周期が、何かに引っ張られているみたいにずれている。
普段は使わないが、今日は必要だと判断した。
スキルを起動する。
【迷宮管理Lv.9:周辺判定系統——接続元を検知中】
数値が揺れた。
何かを探そうとしているが、つかみきれない。スキルが「接続元」を示そうとして、うまく捕まえられずにいる。まるで俺がスキルで何かを探しているのと同じように、スキル自体も手を伸ばして届かない感覚がある。
でも、一つだけ分かることがあった。
——判定の乱れは、一か所から来ていない。
——でも、全部が、同じ揺れ方をしている。
まるで遠い場所で何か巨大なものが体を動かしていて、その振動が全部の石柱に伝わっているような感覚。個別に壊れているのではなく、全部が一緒に動かされている。
「顔は見えない。でも、いる」
声に出して確かめた。
通りかかった人が俺を見た。俺は頭を下げて、また歩き始めた。
ヴァリスはまだ遠い。でも急いで着いても、相手の場所が分からないまま着いても、できることは変わらない。歩きながら、考える。
——相手は、世界中の石柱に同時に触れている。
——だとしたら、相手は「世界を分けてきた仕組み」に近い場所にいる。
その「場所」が、どこか。
まだ、分からなかった。
ヴァリスは賑やかだった。
共存協定の発効後、首都の空気は大きく変わっていた。市場では人間と魔物が同じ通りで物を売り、石畳の道に子供たちの声が響いている。一年前、査問会の最中に来た時の緊張した空気は、どこかに溶けていた。
俺の顔を知っている人間は少ない。
レン・アシダという名前を知っていても、顔まで一致させている人間は多くない。判定石柱の異変があちこちで話題になっていたが、市場で俺を見て立ち止まる人はいなかった。特徴のない顔というのは、こういう時に便利だ。
議事堂の裏口で待っていると、カイルが出てきた。
顔が疲れていた。目の下が少し暗い。
「早いな」
「近かった」
「……入れ。話が長くなる」
小さな会議室に通された。窓が一つあって、ヴァリスの市街が見えた。石柱が何本か立っている。ここからでも、光り方がおかしいのが分かった。
カイルが紙を広げた。
「昨日の最新集計だ」
数字が並んでいる。その中に、一行だけ太字のものがあった。
【世界判定エラー:3%】
「三パーセント」
「今朝の数字では三・七だ。増えている」
「一日で」
「一日で、だ」
カイルが指で紙を叩いた。
「最初の日が一パーセントで、翌日が二・四。昨日が三。今朝が三・七。加速している。このペースが続けば——」
「一週間で十パーセントを超える」
「そうだ」
しばらく沈黙した。
窓の向こうで、行商の馬車が通り過ぎた。普通の、何でもない昼前の光景だった。
「連合は何を求めてる」
「"調停"だ」
「誰と」
カイルが黙った。
俺は続けた。
「調停には相手がいる。その相手を、連合は誰だと言っている」
「——分からないと言っている」
カイルは椅子の背に寄りかかって、天井を見た。
「異変は起きている。でも誰がやっているのか、何がやっているのか、全く掴めていない。だから俺に照会が来た。俺は——お前に連絡した」
「フォルは何か言ってるか」
「「上から来ている」と言っている」
「上?」
「フォルの言葉そのままだ。「上から来ている。私たちよりも、もっと上の何かから」」
俺はその言葉を、頭の中でゆっくりと転がした。
フォルは深い場所にいる。迷宮の底の底で、ずっと待ち続けてきた存在だ。そのフォルが「上から」と言う。
地上よりも上。あるいは——迷宮という仕組みよりも根本的な場所にあるもの。
「ゴブはどうしている」
「第七迷宮の門番として、普通に仕事をしている。ただ、迷宮内部でも同じ判定異変が出ていると言ってた。魔物の種族ランクも揺れている」
「分けられていたのは、人間だけじゃなかったのか」
「……そういうことになる」
窓の向こうで、子供が石柱に向かって走っていく姿が見えた。光に手を伸ばそうとして、親に引き戻される。子供は不満そうな顔をしていたが、親は笑っていなかった。
「カイル、一つ確認する」
「何だ」
「今まで俺が向き合ってきた相手は——全員、話したかった。或いは、誰かに話を聞いてほしかった。ゴブも、ヴォルトも、レイラも、オルディーンも。今回の相手は——話したいと思っているか?」
カイルが少し間を置いた。
「……分からない」
「俺も分からない」
「それが——一番怖い」
「そうだな」
俺はそこで、街道で感じたことを話した。
「今日、スキルを使ってみた。石柱をいくつか確認した」
「それで?」
「全部、同じ揺れ方をしていた。一か所から来ているわけじゃないが、同じものに動かされている。顔は見えないが——いる。どこかから、世界中の判定に触れている」
カイルが身を乗り出した。
「どこから探す」
「一番古いところから。フォルが「上から来ている」と言った。俺はまだその「上」が分からない。でも——手がかりは、最も深い場所にあると思う」
「……第七迷宮か」
「明日行く」
カイルが少し黙ってから、頷いた。
「ゴブは——お前が来ると思って待っていたらしい」
「知ってた」
「なぜ分かる」
「あいつは、俺が知らないことに出くわした時の動き方を知ってるから」
カイルが短く、疲れた顔で笑った。
「分かった。お前に任せる。俺はここで集計を続ける」
「頼む。数字が増えていく様子を、全部記録してくれ」
「……どう役に立つ」
「今は分からない。でも——相手が何かを話してくれた時に、記録があると助かる。何かのパターンが見えるかもしれない」
「分かった」
カイルが紙を手元に引き寄せた。
夕方、カイルと二人で議事堂の屋上に出た。
ヴァリスが一望できる。夕陽が市街を橙色に染めていて、石柱の白い光がそこだけ昼のように浮いていた。石柱が光るたびに通りの人がちらと振り返る。もう慣れているのか、足を止めるほどでもない。でも一年前には当たり前だった光景が少しずつおかしくなっていることを、みんな感じているはずだった。
「今まで、交渉の相手が見えない状況はあったか」とカイルが聞いた。
「なかった」
「今回は」
「顔がない。声もない。でも——いる」
俺は夕景を見た。
「動いているものは、必ずどこかから動いている。扉がどこにあるか分からなくても——探せばある」
「探している間に、世界が崩れたら」
「探しながら急ぐ」
カイルが小さく笑った。
「お前は変わらないな」
「変わらない方がいいこともある」
「……そうだな」
しばらく二人とも黙っていた。ヴァリスの夕暮れが、静かに深くなっていく。
「一つだけ言っていいか」とカイルが言った。
「言え」
「今回の相手は——お前を怖がっていないかもしれない。今まで向き合ってきた相手は、みんなどこかで俺たちの存在を意識していた。でも今回は——俺たちのことを「エラー」として処理しているだけかもしれない。その場合は」
「聞く耳を持たないかもしれない、か」
「そうだ」
俺は少し考えた。
ゴブが最初に来た夜を思い出した。あの時、ゴブは怖がっていた。でも俺のことを「話せる相手かもしれない」と思って来た。だから扉をノックした。
怖がっていない相手は——ノックもしないかもしれない。
「その時は、こちらからノックするしかない」
「どうやって」
「まず——"それ"がどこにいるかを見つける。そこから考える」
カイルが頷いた。
それ以上、言葉はなかった。
スキルが、遠い場所で何かを感知し続けていた。
【迷宮管理Lv.9:深部方向——接触の痕跡を検知中】
翌朝、宿を出た。
ヴァリスの朝は早い。市場が動き始め、石畳に馬蹄の音が響く。石柱の光は昨夜より少し強くなっていた。数字で言えばまた上がっているはずだ。カイルが集計しているだろう。
俺は振り返らなかった。
第七迷宮へ向かう。
今回の相手がどこにいるか、まだ分からない。話せるかどうかも分からない。話したいと思っているかどうかも、分からない。
分からないことだらけだ。
でも、一つだけ確かなことがある。
どこかに、いる。
ゴブが最初に扉をノックした時、俺は扉の向こうに何がいるか分からなかった。それでも開けた。
今回は、扉がどこにあるかも分からない。
それでも——まず、探す。
「まず……"それ"が、どこにいるかだ」
自分に言い聞かせながら、歩いた。
スキルが、遠い場所の何かを、静かに感知し続けていた。
【迷宮管理Lv.9:深部方向——接触の痕跡を検知中】
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