第262話「書き換わる肩書き」
翌朝、エグラス村の空気はまだ重かった。
宿の窓から見える広場には、昨日と同じ石柱が立っている。ジョブ判定の石柱。村人が一生に一度だけ触れ、自分の「役割」を知るための装置。
今も光っていた。
誰も触れていないのに。
俺は湯気の立つ椀を両手で包んで、宿の縁側に腰を下ろした。昨日書きかけたカイルへの手紙は、膝の上に置いたままだ。一年ぶりに連絡しようと思ったのは、この異変に気づいたからだった。もっとも、そろそろ連絡したかったという気持ちのほうが先だったかもしれない。
「まだ光ってますね」
背後からリナが近づいてきた。宿主の娘で、十四か十五。昨日の夕方から俺をちらちら見ている。
「光ってる」
「消えないんですか」
「わからない。まだ聞いてみてないから」
俺が石柱に「聞く」なんて言い方をしても、リナには意味がわからないだろう。でも彼女は特に問い返さなかった。ただ湯気をぼんやり眺めながら、「お父さんの判定も変わってたらどうしよう」と呟いた。
「お父さんは何のジョブだった」
「農夫です。Cランク」
「それは変わっても、農夫であることは変わらないんじゃないか」
リナは少し考えてから、「でも、もし勇者とか出たら……」と言いかけて止めた。
怖いのは肩書きが良くなることではない。自分の知っている世界が変わってしまうことだ——その表情を見て、そう思った。わかる気がした。
広場に人が集まり始めたのは、昼前のことだった。
昨日レンに話を聞いてもらったエリアスが中心に立って、隣村から来た使いを迎えていた。使いは二十歳そこそこの若者で、息を切らしたまま言葉を続けていた。
「サクダ村でも同じです。昨日の朝から石柱が光り始めて、ジョブが書き換わって。子供が「判定不能」のままで、親が泣いてる。一体何なんですか、あれは」
エリアスが俺を振り返った。
仕方ない。縁側から立ち上がって、広場に向かった。
「他の村でも出てる?」
「出てます。使いが来たのはここだけだけど、行商のジョスが昨日通ったとき、マシダ村でも同じだって言ってました。子供の判定が全員消えたって」
「全員」という言葉が、静かに広場に落ちた。
村人たちがざわめく。子供の親たちが互いに顔を見合わせる。
ジョブ判定は十五歳前後に行うのが慣習で、それまでの間、子供たちは「判定待ち」として育てられる。「判定不能」という表示は、誰もが一番恐れるものの一つだ。魔力もジョブも持たないまま生きていくことになるかもしれない——という恐怖の象徴だった。
「判定不能は、ジョブがないということじゃない」
俺の声で、ざわめきがほんの少し静まった。
「石柱が狂ってる状態で出た結果だ。石柱が正確じゃないときに出た「判定不能」は、正確な判定じゃない。子供たちのジョブが消えたわけじゃなくて、測る側が壊れてる」
「壊れてる、って……石柱が?」
「そう思ってる。まあ、聞いてから判断しよう」
エリアスがうなずいた。昨日よりも目が落ち着いている。
彼は隣村の使いに向かって「とりあえず、うちで一晩休んでいけ。情報を集めてから次を動こう」と言った。使いの若者が肩から力を抜くのが見えた。
そういう人間が村にいてくれると、場は落ち着く。調停者がいなくても、聞ける人間が一人いれば、場はつながる。
昼すぎ、旅商人が一人やってきた。
マシダ・クロスという名の、髭の濃い中年の行商人だった。エグラス村は小さいが、北の街道筋にあたるらしく、月に二、三度は商人が通るのだそうだ。クロスは村に着いて石柱を見るなり、「ここもか」と呟いた。
「ここも、というのは」
俺が宿の前で声をかけると、彼は風呂敷包みを縁台に置きながら「街道沿いで今週だけで六つ目ですよ」と答えた。
「六つ」
「モドスト、ヴァンガ、カレキノ、ファルン、それにさっき通ってきたヴィラン村も。全部、石柱が勝手に光って判定がぐちゃぐちゃになってる。ヴィラン村では鍛冶屋のじいさんが「神官長」に判定されたそうで、笑えない冗談だと大騒ぎでした」
「街の中心部では」
「ルリダの街では昨日から石柱に近づけないようにしてると聞きました。近衛が出て通行制限を敷いてる。でも街の外の石柱は管理できないですからね——こういう村まで来ると、もう手の打ちようがない」
クロスは疲れたような顔で「何かご存知ですか」と俺を見た。
「旅人みたいな格好してるけど、そんな落ち着いた顔してるのは珍しいもんで」
「調停者、みたいなことをやってました。以前」
「以前?」
「今は旅人です」
クロスは少し首を傾けてから、「なら、もっと大事な話があります」と言った。彼は行商人らしい素早い手つきで荷物の中を探り、折り畳まれた紙を取り出した。
「三日前に連合の使いが街道を通ってました。連合から王国各地へ、急ぎの書状を配って回ってたみたいで。一部始終を見ていた宿の主人から聞いたんですが——書状の封印に、「全迷宮異常」という文字が見えたと」
俺は黙ってその紙を受け取った。
クロスの手書きのメモだった。書状の内容ではなく、外から見て取れた情報だけが書かれている。
「全迷宮異常」。
ジョブ判定石柱は迷宮の管理システムと繋がっている、という話をかつてフォルから聞いた。スキル『迷宮管理』が判定と連動するのも、その構造の一部だとカイルが言っていた。石柱が一斉に狂い始めたとするなら、その根はもっと深いところにある。
「ありがとう」
「何かわかりますか」
「まだ。でも、聞きに行くことにします」
クロスは少し安堵したような、それでいて半信半疑のような顔で「頼みますよ」と言った。行商人が世界の異変に「頼む」相手として、旅人一人を選ぶのは奇妙な光景だった。でも奇妙な光景には慣れている。
その夜、部屋に戻って書きかけの手紙を広げた。
カイルへ。一年ぶりになった。元気か。
書き出しだけで止まっていたその続きに、エグラスで起きたことを書き足していく。石柱の異変、隣村の話、クロスの情報、「全迷宮異常」という言葉。書きながら、送るより前に返事が来そうな気がした。
その予感は正しかった。
翌朝、日が出るより早く、廊下の外で声がした。
「旅人さん。——旅人さん、連絡が来てます」
リナが扉を叩いていた。手に連絡符を持っている。王国の正式な通信紙ではなく、青い縁のある連合公式の紙だった。
連合は正式な通信経路を使って、こんな辺境の宿まで届けてきたということだ。
受け取って、中を開いた。
差出人はカイル・ベルグ。二代目調停者。
レン。
手紙を書こうとしてただろ。止めろ。俺が今から話す。
全迷宮で判定異常が出ている。連合加盟国の石柱、現在把握できている範囲で八十三か所が影響を受けた。うち十七か所は石柱そのものが機能停止。子供の判定が消えた村が三十四。「神官」が「剣士」になった街が二つ。「勇者」と判定された農夫が九人出た。
笑えない話だ。
連合は「迷宮管理システムの広域障害」として発表した。原因調査中。実際のところ、迷宮の最深部で何かが動き始めているらしいが、誰も深部まで届く手段がない。
ゴブも動揺してる。第七迷宮の内部でも判定が出始めている——魔物の「種族ランク」が書き換わってる。魔物にもランクがあったのか、と俺は初めて知った。
連合が、お前を呼んでる。
お前には役職も権限もないのはわかってる。でも「前・調停者」であることは消えない。連合の議事録にはレン・アシダの名前が残ってる。オルディーン議長も同意した。
「話を聞ける者に来てほしい」という内容だ。
どこにいる。返信をくれ。
カイル・ベルグ
俺は手紙をしばらく見ていた。
カイルの字は昔より少し整っている。二代目調停者になってから、書類を書く機会が増えたのだろうと思った。俺が書く必要がなくなったのと逆に。
「連合が呼んでる」というのは、わかる。「話を聞ける者が必要」というのも、そうだろう。前回も前々回も、呼ばれてから動くことになった。人類連合の査問会、魔物との和解、封印の維持——全部、呼ばれる前から始まっていたことばかりだったが、表向きには「呼ばれて動いた」という形だった。
だが今回は違う気がした。
前回は人を相手にした。その前は魔物を相手にした。
今度は——
窓から外を見た。石柱の光が夜明け前の薄闇の中でまだ青く滲んでいる。エリアスの畑が見える。リナが世話をしている鶏小屋が見える。判定不能と言われた子供たちが、今どんな顔をしているか、想像できた。
「お前の役目はない」と言われた日があった。「ランク外」と刻まれた日があった。
あれを下した何かが、今、世界中の石柱から流れ出てきているとしたら。
通信符の余白に、俺は返信を書いた。
「北の街道、エグラス村にいる。三日で連合首都に着く。今度の相手は誰だ」
折り畳んで窓の外に出すと、連合の送達呪式が働いて紙が光った。向こうで読まれたのとほぼ同時に、余白にカイルの字が浮き上がってきた。
短い文章だった。
カイルの字は、丁寧ではなかった。急いでいる字だった。それでも読みやすい。
俺は紙を持ち直して、その一文を読んだ。
「今度の相手は、人でも魔物でも——ない」
荷物をまとめ始めた。
大したものはない。着替えが三日分と、水筒と、書きかけの手紙の束と、小さな火打ち石。連合首都ヴァリスまでは三日の行程。食料は途中の村で調達できる。
スキルはない。剣もない。
三年前、人類連合の査問会に向かった日とほとんど同じ荷物だ。あのときも似たような格好で、ヴァリスを歩いていた。
ただあのときは「裁かれる側」として呼ばれた。
今回は何として呼ばれるのかは、まだわからない。
「話を聞ける者」として呼ばれた、とカイルは書いた。聞く相手が人でも魔物でもないなら——
考えながら荷物の口を結んだ。
リナが朝餉を持ってきたとき、俺はすでに旅支度を終えていた。
「もう行くんですか」
「行くことになった」
彼女は一瞬、困ったような顔をした。質問があるのにうまく言い出せない、という顔だった。
「石柱のこと、解決できますか」
俺はしばらく考えた。
「どうかわからない。でも聞きに行くことはできる。聞かないと損だから」
リナが笑った。昨日の夕方よりも、少しだけ目が明るかった。
「旅人さんみたいな人が来てくれてよかった」
「エリアスさんがいれば大丈夫だ。あの人は昨日、ちゃんと聞いてたから」
縁側の椀を返して、宿を出た。
広場の石柱は今朝も光っていた。
昨日より強い。
エグラスの子供たちが登校する時間に差し掛かっていて、何人かが石柱のそばでざわざわしていた。その中の一人——昨日「判定不能」が出たという小さな女の子が、おそるおそる石柱に触れた。
光がさらに揺れた。
「判定不能」という文字が浮いて、消えた。
女の子が手を引っ込めて、隣にいた母親の服を掴んだ。母親は何も言わずに、その手を強く握った。
俺は立ち止まらなかった。
立ち止まって何か言える言葉を、今の俺は持っていない。持っているのは「聞きに行く」という方向だけだ。
足の裏で土が鳴った。北の街道を南に折れて、ヴァリスへ向かう。
後ろから、石柱の光が背中に当たった。
【世界判定エラー:3%——上昇中】
カイルが何者と会わせようとしているのか、まだわからない。
でも聞けばわかる。
それだけは、変わらなかった。
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