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門番、魔王軍と交渉する〜ハズレジョブでも、話を聞く奴が世界を動かす〜  作者: ハル
門番、世界と話す

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261/276

第261話「ハズレの日」

「旅人さん、朝ですよ」


扉をノックする音で目が覚めた。


「おう、ありがとう」


返事をすると、廊下をぱたぱたと小走りで遠ざかる足音がした。宿主の娘のリナだ。十五歳くらいで、昨日から俺のことを「旅のおじさん」と呼んでいる。


窓から差し込む朝の光が、木張りの天井を斜めに照らしていた。


エグラスという村に来てから、三日目の朝だ。


ここは辺境の農村で、王都ヴァリスから馬でも四日はかかる。大きな街道からも外れていて、来る客と言えば行商人か、俺みたいな流れ者くらいだ。


俺がヴァリスを出て、もう一年になる。


あの日、議事堂の廊下を歩いて、城門を抜けて、そのまま歩き始めた。行き先は決めなかった。決める必要もなかった。調停者でも英雄でもない、ただの旅人として。村で仕事を手伝い、飯と宿を貰い、話を聞いて、また歩く。それだけを繰り返している。


扉の前に黒パンとチーズの籠が置いてあった。リナが届けてくれたものだ。


パンを一口齧りながら、窓の外を眺める。


農夫たちが早朝から畑に出ていた。その中に、一体の小柄な影があった。丸い体、緑がかった肌——正確な種族名は聞いていないが、迷宮の近くに棲む魔物の一種だとわかった。農夫の隣で鍬を担ぎ、黙々と土を掘り返している。


一年前には考えられなかった光景だ。


共存協定が発効してから、世界の端々が少しずつ変わっている。目に見えない変化だが、旅をしていると感じることがある。街道の検問所で魔物が通行証を持っていること。村の外れに迷宮産の素材を扱う小屋ができていること。農夫が魔物と肩を並べて畑を耕していること。


誰かが決めたのではなく、自然にそうなっていく。


それが一番、よかったと思う。


パンを食べ終えたころ、外から声が聞こえた。



 



「——待て、これはなんだ!」


困惑と恐怖が混ざったような声だった。


俺は窓から顔を出す。


広場に、村人が五、六人集まっていた。その中心にある石柱が、淡く光を放っていた——ジョブ判定石柱だ。どの村にも設置された、王国管理局の白い石柱。成人の儀のときにのみ発光するはずのものが、今、朝の光の中でひとりでに揺れている。


俺は部屋を出た。


広場に降りると、人が増えていた。十人、十五人——村のほぼ全員が出てきているようだった。


石柱の前に立っているのは、初老の農夫だった。六十近いだろうか、日焼けした顔に深い皺が刻まれている。エリアスという名前で、三十年以上この村で畑を耕してきたと、昨日の夕飯で話していた人物だ。


その石柱に、文字が浮かんでいた。


【ジョブ:勇者 ランク:S+】


「……勇者?」


誰かが呟いた。


「エリアスさんが、勇者?」


エリアスは石柱の表示を見つめたまま、動けずにいた。


「俺は……ただの農夫だ。ここで生まれて、ここで育って、畑以外のことは何も知らん」


震える声だった。困惑ではなく、恐怖に近い声だ。


「なのに……なんで、こんなものが——」


それを皮切りに、村人たちが次々と石柱に近づいた。


パン屋の息子——十六歳——が「魔法使いLv.MAX」と表示された。村長の奥さんが「暗殺者ランクA」。川沿いで釣りをして暮らしている老人が「剣聖」に。誰も彼も、心当たりのない、明らかにおかしなジョブが表示されていた。


最も人々を動揺させたのは、子供たちだった。


七歳の子も、十歳の子も——石柱に近づくと【判定不能】の三文字だけが浮かんで、消えた。


「どういうことだ! うちの子の判定が出ないなんて——」


「呪いか! 魔物の——」


その声が飛んだとき、畑で農夫と並んでいた緑色の魔物が、びくりと体を縮ませた。近くにいた農夫が、無言で前に立った。しかし、広場の空気は確実に剣呑になっていた。


俺は広場の端で、それを見ていた。


焦っても仕方がない、と思った。


焦って動いた先に何があるかは、今まで嫌というほど見てきた。カーラが一人で背負い込んでいたときも、ガレスが剣を向けてきたときも、オルディーンが議長席で固まっていたときも——焦りは判断を狂わせた。聞く前に動くと、間違える。


「旅人さん」


声をかけてきたのはリナだった。心細そうな顔をしている。


「なにが起きてるの?」


「わからない」


正直に言った。


「でも、焦っても仕方がない。まず聞かないと」


「何を?」


「何が起きたのか」


リナが首を傾げた。


「聞いたって……石柱は答えてくれないよ」


「石柱じゃなくて、人に聞く」



 



俺はエリアスのほうへ歩いた。


他の村人が去っていくのにも気づかない様子で、彼はまだ石柱の前に立っていた。【勇者S+】の文字を、ただ見続けていた。


「エリアスさん」


声をかけると、ゆっくり振り向いた。


「ちょっと聞いていいですか」


「……なんだ」


「この表示を見て、どう思いましたか」


「どう思った、って——おかしいに決まってる」


「おかしいのは確かです。でも、"おかしい"の中に、どういう気持ちがありますか」


エリアスは眉を寄せた。


「……怖い、かな」


「怖い?」


「勇者なんて——俺には無縁の言葉だと思ってた。それが突然表示されて、何が変わったのか、何を求められているのか——わからない。わからないのが、怖い」


俺は頷いた。


それは、わかる話だった。


俺が「門番・ランク外」と判定されたあの日、俺は怖いとは思わなかった。呆れたし、困ったけれど、怖くはなかった。でも今エリアスを見ていると——自分が何者かを外から定義してもらってきた人間が、その定義が突然狂ったとき、足元が消えるような感覚があるのだろうと、なんとなく想像できた。


「石柱の側が狂ってる可能性が高い。あなたがいきなり勇者になったわけじゃない」


「……だとしても」


エリアスが石柱を見た。


「こんな表示が出たら——自分がどこに立ってるのか、わからなくなる」


「ジョブって、そういうものかもしれないですね」


俺は言った。


「自分が何者かを、外から定義してくれるもの。それが狂ったら、浮いてる感じがする」


エリアスが、かすかに頷いた。


「俺、ジョブが「農夫ランクB」だったとき——別に嬉しくなかった。ありふれた判定だと思った。でも今こうして変な表示が出たら、あの「農夫」が戻ってきてほしいと思う。おかしいよな」


「おかしくないです」


「見れば見るほど、わからなくなる」


「まあ、今日一日で答えが出なくても、損はないと思います。まずどういう範囲でこれが起きているのかを確認してからでも遅くはない。他の集落でも同じことが起きていないか、人を出して聞いてもらえませんか」


エリアスは少し考えてから、村長のほうを振り向いた。


「……そうだな。それができる」


農夫が、かすかに息をついた。


少しだけ、肩から力が抜けた顔だった。



 



午後、俺は宿の軒先で羊皮紙を広げた。


リナに借りた一枚だ。


「カイルへ」と書き出してから、しばらく止まった。一年ぶりに書く手紙だ。


結局、短く書いた。


「エグラスという辺境の村で、ジョブ判定に異常が起きた。農夫が勇者に、子供が判定不能になった。石柱が通常ではない発光をしており、止まる気配がない。魔物のせいではないと思う。他の地域でも同じことが起きているか、確認できるか。返事はいつでも構わない」


飛脚を使える街まで二日かかる。カイルへ届くまで五日、返事が来るまで十日以上はかかる計算だ。


それまでに、ここで何ができるだろう。


手紙をたたんで懐にしまい、広場のほうを見た。


石柱はまだ光っていた。夕方になっても消える気配がない。子供たちは石柱に近づかないよう言われ、大人たちは低い声で話し合いを続けていた。


朝から一言も声を出さなかった緑の魔物は、村の外れで膝を抱えて座っていた。


誰かが毛布をかけてやっていた。


それを見て、少し息をついた。


恐怖が渦巻いている場所でも、誰かがそういうことをする。毛布一枚——こういう細かいことが、一年前に俺たちが積み上げてきたものの、いちばん底の部分だと思う。


夕暮れが赤くなったころ、村長がやってきた。


「使者を二方向に出しました。早ければ明後日には返事が来るかと」


「ありがとうございます」


「……あなた、本当にただの旅人ですか」


「そうですよ」


俺は正直に答えた。


「ただ、旅をしている間に、わからないことに何度か会ったことがある。そのときの経験上、焦っても仕方がないと知ってるだけです」


村長は少し沈黙した。


「あなたが落ち着いているおかげで、皆も少し落ち着きました」


「俺が落ち着いているのは、何も知らないからかもしれないですよ」


「知らなくても落ち着いていられる人間は、そんなにいない」


俺には答えが思いつかなかった。



 



夜になって、村が静まり返った。


俺は宿の外に出て、空を眺めた。


星が多い場所だった。王都では見えない星が、ここでは手が届きそうなくらい近い。


石柱はまだかすかに光っていた。


あの感じは、何だろう。


石柱に手を当てたとき——スキルがなくても、何かが遠くで揺れているのを感じた気がした。気のせいかもしれない。でも、あれに似ている。ドランと初めて対話したときの、あの「向こう側に何かがある」という感覚。迷宮の奥深くに知性体がいると気づいたときの、静かな予感。


俺の「迷宮管理」はもうない。カイルに渡した。今の俺には、何の特別な力もない。ただの旅人だ。


でも、聞くことはできる。


問題は——相手が誰なのか、まだわからないことだ。交渉には相手が要る。その相手が見えない。


そこで気づいた。


ジョブ判定は——誰が、あるいは何が、行っているのか。


考えたことがなかった。判定は当たり前にあるものとして、ずっと受け入れてきた。あの日、「門番・ランク外」と表示されたとき、俺はその判定に文句を言わなかった。ただ受け入れて、門番をやった。


でも、あの判定は——どこから来たのか。


石柱の光が、一瞬、強くなった気がした。


「……まあ」


思わず声が出た。


「聞いてから、判断しよう」


夜の村に、虫の声が響いている。


誰も答えない。石柱だけが、静かに揺れていた。


【世界判定エラー:1%】

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