第260話「また、歩き出す」(第二部完)
「記録が、残ったでしょう」
レイラはまだそこにいた。
裏庭の石段に座って、朝の光の中で待っていた。夜の間ずっとここにいたのか、今朝ここに来たのかは分からなかった。服に夜露が滲んでいたから、たぶん前者だろうと思った。
「今日署名された協定に。あなたが聞いてくれた言葉が——私が話した言葉が、条文として残っています」
「あなたが話した言葉だ」
「でも、受け取ってくれた人がいた。整えてくれた人がいた。セルウィン殿が、記録として残してくれた」
俺は隣の石段に腰を下ろした。彼女が話しやすい距離というものを、今では自然に測れるようになっていた。
しばらく沈黙があった。庭の隅で鳥が鳴いた。一羽だけ、短く。それ以上は続かなかった。
「私が工作した言葉も——記録として残っています。恥ずかしい記録です。でも、それも残してもらいました」
「残すべきだと思っている」
「ええ。今は、そう思えます」
レイラが膝の上で両手を組んだ。指が少し白くなるくらいきつく組んで、それからゆっくりと力を抜いた。
「会えてよかった」
声が変わっていた。さっきとは。硬さのない声だった。
「会いたくはありませんでした。あなたのことは——」
そこで止まった。
言葉を選んでいるのではないと思った。選ぶのをやめたように見えた。言い切らなくていいと、彼女が自分で決めたように。
「でも、会えた。それだけは——よかった」
俺は何も言わなかった。
言わなくていいと思った。彼女の言葉がきちんと着地する前に何かを返したら、それは邪魔になる。今、俺にできることはここにいることだけだった。
しばらくして、レイラが立ち上がった。裾の埃を手で払って、俺を一度だけ見た。その目は昨日と違っていた。責めているわけでも赦しているわけでもない。ただ、見ている目だった。
「記録は続きます。あなたがいなくなった後も」
「それでいい」
「——ええ。それが、いいんでしょうね」
彼女は頭を下げた。深くも浅くもない、静かな礼だった。それから足音をほとんど立てず、裏庭を出ていった。
石畳に残された朝の光の中で、俺はしばらく座ったままでいた。
カーラが「あなたに会えてよかった」と言ったとき、それは別れの夜の柔らかさがあった。レイラが同じ言葉を言ったとき、中にはまだ何かが混じっていた。憎しみでも怒りでもない。言い終われなかった何かだ。
それでいいと思った。全部が解決しなくても、会えたという事実は残る。
議事堂の廊下は、朝の静けさの中にあった。
署名式から一夜明けて、まだ全員が何をすべきか分かっていないような空気だった。職員が足早に通り過ぎる。役人が書類を抱えて走る。でも誰も急いでいるわけではない。大きなことが終わった直後の、あの数日間。目的地に着いた直後の、どこか手持ち無沙汰な感覚だ。ドランが消えた後の第七迷宮の入口で、似たような空気を吸った記憶がある。
オルディーン議長が廊下の先に立っていた。
羊皮紙を一枚持っていた。俺を待っていたのか、偶然通りかかったのかは——どちらでもあったと思う。
「アシダ殿」
「議長」
「少し、よろしいですか」
「どうぞ」
書類を差し出された。連合の紋章が押印された羊皮紙だった。
「連合初代・和解調停大使の任命状です」
俺は受け取らなかった。
「二代目がいます」
オルディーンは少し間を置いた。
「カイル・ベルグ殿ですか」
「俺よりずっとうまい。そっちに渡してください」
彼は書類を下ろして、廊下の窓際の台に静かに置いた。
「承知しました」
それだけで終わるかと思ったら、そうじゃなかった。
オルディーンが窓の外を向いた。ヴァリスの朝の屋根が連なっている。
「個人として——一つだけ、聞いていただけますか」
「どうぞ」
「妻の名は、ノウルといいました」
俺は黙って聞いた。
「十五年前に失いました。溢出で」
「知っています」
「彼女は——人の話をよく聞く人間でした」
廊下に光が差した。窓から斜めに入る朝の光が、オルディーンの横顔を照らした。年を重ねた顔だった。でも昨日の議事堂で見た顔とは違う。重さが取れていた。それが悲しいことなのか、いいことなのかは分からなかった。
「あなたを初めて見たとき——似ていると思いました」
「それで」
「似ていてほしくなかった。ノウルのことを思い出したくなかった」
咎めるでもなく説明するでもなく、ただ話した。
「でも——聞いてもらいました。おかげで分かったことがあります」
「何が」
「ノウルのことを——まだ、覚えていられると」
廊下に風が通った。どこかの窓が開いているらしかった。
俺はその言葉を聞いて、何も返さなかった。返す言葉がなかった。あるとしたら、それは今必要なものじゃなかった。
「ありがとうございました」
オルディーンが頭を下げた。それから書類を手に取り、廊下の奥へと歩いていった。
俺は窓の外を少し見てから、その場を離れた。
カイルが建物の外で待っていた。
石畳の端に立って、空を見ていた。俺が出てくると、ちらりとこちらを向いた。それだけで全部分かっているらしかった。
「行くんだろ」
「ああ」
「今日か」
「今日がいい」
カイルが腕を組んだ。組んで、すぐほどいた。それを二回繰り返した。何か言いたいのに出てこないときの癖だ。三年前から変わっていない。
「連絡はよこせよ」
「お前がよこせ。調停者の仕事はそっちだ」
「どこにいるかも分からないやつにどうやって連絡を」
「俺はどこかにいる」
「役に立たないことを」
沈黙があった。
朝の風が吹いた。カイルの髪が乱れた。彼はそれを手で直さなかった。
「——開けてくれてよかった」
声が変わっていた。
「最初に、扉を」
「お前が来たんだろ」
「そうだな」
カイルが笑った。照れでも誤魔化しでもなく、ただそれだけで笑った。俺はカイルがこの顔で笑うのを何度か見てきた。第四迷宮から帰ってきた夜、ゴブの就任式の後、あと何度か気づかないうちに。今日で最後というわけじゃないだろうが、この距離でこの顔を見るのはしばらくないかもしれない。
「続けるからな」
「知ってる」
「お前が言ったんだから、俺に向いてるって」
「今も思ってる。変わってない」
カイルがまた腕を組んだ。組んだまま、遠くを見た。
「行け」
それだけだった。それ以上でも以下でもなかった。
俺は歩き出した。
ヴァリスの中心街を抜けながら、一度だけ立ち止まった。
カイルのスキルがまだ繋がっていた。今日が最後になるかもしれない接続で、ゴブを呼び出してもらった。
「ゴブ」
少し遅れて返事が来た。第七迷宮は今、昼に差し掛かっているはずだ。
『レン。今日ですか』
「今日だ。署名、見たか」
『見ました。写しを送ってもらいました』
「字は読めたか」
間があった。
『読めました。俺の名前が——あんな大きな紙に』
「よかった」
『カイル様が横でちょっと泣いてらっしゃったので、こっちも困りましたよ』
カイルの気配が通信の向こうでぴくりとした。繋いでいるカイル本人にも聞こえているはずだ。俺は知って言った。
「カイルには言うな、あいつは気にするから」
「誰が泣いたって」とカイルが俺の隣でこぼした。
「お前だろ」
「——証拠はあるのか」
証拠はない。でも、ある。ゴブが言ったんだから。
『また来ますか』
ゴブの声が少し柔らかくなっていた。
「来る」
『旅人として』
「旅人として」
通信が途切れた。
「俺が繋いだ分の礼ぐらい言え」とカイルがこぼした。「ありがとう」と言ったら「ゴブにじゃなく俺に言え」と言った。「お前にも」と返したら、カイルがまた笑った。さっきと同じ笑い方だった。
カイルの通信端末に、最後の集計状況が浮かんだ。
【査問集計:賛成票——集計停止・処分撤回済み/共存協定:発効】
「もう動かないぞ、これ」とカイルが言った。
「動く必要がないから」
俺はそれを確認してから、カイルに背を向けた。
ヴァリスの城門は朝から開いていた。
旅人が行き交い、商人が馬車を引き、子供が走り回っている。午前の日差しの中で、城門の周辺はいつも通りの朝の賑わいだった。
でも、半年前とは少し違うところがあった。
市場の端に看板が立っていた。「共存交易品目一覧・最新版」。木の板に手書きされた素朴なものだった。でもそこには迷宮産の素材の名前が並んでいた。俺が見てきたあの第七迷宮で取れるものがいくつかあった。取引が始まっているらしかった。立ち止まって読んでいる商人の隣で、別の商人が「これ、いつから置いてある」と言っている。「先週」という声が返ってきた。
先週。署名の前から、誰かが動いていたらしかった。連合が決める前に、始めた人間がいた。
俺は止まらずに通り過ぎた。
城門のそばを通ると、荷車が一台ゆっくりと街の外に出ていくところだった。荷台に積まれた布袋が六つ。形が均一ではない。迷宮産の素材を包んだときの、あの歪な形だ。もう輸送が始まっているのだと気づいた。
城門の兵士が二人いた。俺を見た。見て——特に何もしなかった。通過した。
三歩ほど歩いたところで、後ろから声が来た。
「お気をつけて」
振り返らなかった。
「ありがとう」
そのまま歩いた。
知らない顔の兵士だった。俺の名前も顔も知らないだろう。ただ通りかかった旅人に声をかけた。それだけのことだ。
半年前、俺がこの城門を初めて通ったとき——手配書があった。柱に貼られた似ていない似顔絵。あの日は人に紛れて通り過ぎた。今日は声をかけてもらって通り過ぎた。
それだけのことだ。でも、それだけのことだった。
道が続いていた。
ヴァリスを出ると、すぐに緩やかな丘になる。足元の石畳が、やがて砂交じりの土道に変わる。両側に木が増えてくる。そのあたりで、振り返ればヴァリスの城壁が見える場所がある。
俺は振り返らなかった。
見たくないわけじゃない。
ただ——前が見えているから。それだけだった。
道は長い。どこへ行くかは決めていない。
ゴブが門で待っていると言った。カイルが調停を続けると言った。レイラが記録を持っていた。オルディーンが妻の名前を覚えていられると知った。ガレスが照れながら去っていった。セルウィンが「また会おう」と言った。
全部、あそこにある。
俺はここを歩いている。
足の裏に砂が入った。靴が古い。もうしばらくしたら買い替えないといけない。今日の昼は、どこかの村で食べることになるだろう。腹が減ってきた。
風が背中を押した。
俺は歩いた。
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