第259話「会えてよかった」
協定発効の翌朝、議事堂の裏庭は静かだった。
昨夜の騒ぎが嘘のように、石畳には朝霧だけが残っている。
俺はひとりで石段に腰を下ろして、冷えた空気を吸っていた。背中に石壁の冷たさが伝わってくる。座りっぱなしで腰が少し痛い。それでも、立つ気にはなれなかった。
カイルは報告書の作成で部屋に籠もっている。ゴブはフォル経由で第七迷宮に戻る準備をしているらしい。昨日の署名のあと、ゴブが「名前は、どう書けばいいか」と聞いてきた。あの問いが可愛くて、少し笑ってしまった。人類連合の公式文書に、ゴブリンの門番の名が刻まれた。三ヶ月前には想像もできなかったことだ。
何かが終わったという実感は、まだない。
ただ——静かだ。あの手配書を見てから、ずっとどこかが張り詰めていた気がする。そのぶん今の静けさが、少し不思議な感じがする。
「アシダ殿」
声がした。振り返ると、ガレスが立っていた。
重鎧ではなく、薄い旅装だ。連合の徽章はもうない。見慣れた重さがないぶん、少し軽くなった印象がある。それが似合っているかどうかは、判断しかねた。
「座るか」と俺が言うと、ガレスは少し迷ってから石段の隅に腰を下ろした。
「連合の護衛職は昨日で辞した」
「知ってる」
「……驚かないんだな」
「ガレスさんが辞めるのは想定してた。もっと早いかとも思ったが」
ガレスが少し笑った。固い顔の人間が笑うと、目尻にしわがいっぱいよる。
「三十年、剣一本で生きてきた。だが——もうその使い道がわからなくなった。平和になったからじゃない。俺の剣が、間違った方向に向きかけたからだ」
俺は黙って聞いた。
「お前の討伐に来たとき、命令通り動くつもりだった。あの若い兵が固まらなければ、そうしていたかもしれない」
「うん」
「後悔はしていない。ただ——怖かった。お前が何も抜かなかったことが。どこを狙えばいいかわからなくなった。それがいちばん怖かった」
「戦わない相手って、やりにくいですよね」
「やりにくいどころじゃない。戦い方が根本から崩れた」
石段に朝霧が流れてきた。足先が少し冷える。ガレスはそれに気づいているのかいないのか、じっと前を向いている。横顔を見ると、思ったより老けている。歳を取っていたのか、それとも三ヶ月で老けたのか、俺には判断がつかない。
「これからどうするんですか」
「まだわからん。ただ——剣は錆びさせない。いつかお前みたいに、話を聞く役に立てる日が来るかもしれないから」
「俺みたいに、というのは合ってるかどうか怪しいですが」
「合ってなくてもいい。方向だけあれば十分だろう」
ガレスが立ち上がった。石段から上がるとき、膝を少し押さえた。それも見えないふりをした。
「お前に会えて——」
言いかけて止まった。照れているのか、語尾が詰まっている。
「まあ、聞いてから判断した」
最後にそれだけ言って、ガレスは歩いていった。
口癖を使っている。しかも照れ隠しとして。あの人がこういう使い方をするとは思っていなかった。笑ったらガレスが振り返りそうで、俺は石段を見下ろしたまま顔を伏せた。霧が少し晴れてきた。石畳に朝の光が斜めに入っている。
「アシダ」
乾いた声がした。セルウィンが裏庭の入口に立っていた。
査問の最初から今まで、あの人はずっとそこにいた。裁く側として、整理する側として、最後は記録する側として。どこにでもいて、ほとんど目立たない。でも、あの人の記録がなければ草案は形にならなかった。文書の骨格はセルウィンが作ったといっても過言ではない。
「一つだけ、言いにきました」
「どうぞ」
「私は最後まで、あなたが正しいとは思っていません」
「知ってます」
「ただ——間違いだとも、思えなくなった。それだけです」
セルウィンの声は相変わらず平坦だ。でも、朝に裏庭まで来てこれだけを言いに来た。それだけで十分だと思った。
「記録、ありがとうございました」
「仕事です」
「でも、あなたが記録したから残った。残ったから草案ができた」
セルウィンが少し黙った。
「……草案の質がよかったのは確かです。記録には自信がある」
「見てわかりました」
また沈黙があった。セルウィンという人は余計な言葉を使わない。それは最初からそうだった。「弁明は許す。ただし覆らない」という言い方も、今思えばあれが精一杯の公正さだった。
「一つだけ聞いていいですか」
俺が言うと、セルウィンが眉を上げた。
「今更、私に」
「セルウィンさんが「まあ、聞いて——」と言いかけて止めた日がありましたよね」
長い沈黙。
「……覚えていますか」とセルウィンが言った。声がわずかに上ずっていた。
「覚えてます」
「あれは——気づいた瞬間に、怖くなった。自分の言葉が変わっていることが」
「変わってよかったと思いますか」
「……まだ、わかりません」
正直な答えだと思った。セルウィンは誠実な人間だ。その誠実さが、ずっと「裁く側」の論理の中に閉じ込められていた。
「いつかわかったら、聞かせてください」
「あなたに会う機会があれば」
「会いましょう。次は——裁かれる側でも裁く側でもなく」
セルウィンがわずかに口の端を動かした。笑ったのかどうか微妙なラインだったが、俺はそれを笑顔として受け取ることにした。
レイラが来たのは昼を過ぎた頃だった。
カイルが「来客です」と通してくれた。議事堂の小さな客間に入ってきたレイラは、やつれていた。連日の証言と工作の公開でどれほど消耗したか、顔を見ればわかった。それでも背筋は伸びていた。折れやすい人間は、ああいう背中をしない。
「座ってください」
俺が言うと、レイラは迷いなく椅子に座った。テーブルを挟んで向かい合う。
しばらくお互いに何も言わなかった。
外から鳥の声が聞こえた。
レイラが先に口を開いた。
「許してはいません」
「わかってます」
「あなたの交渉で戦争が終わった。それが私の家族の死を無意味にしたと、今も思っている。この感情は消えない」
「消えなくていいと思います」
レイラが少し眉を上げた。
「消えなくていい、と」
「痛みを消して和解してほしいとは一度も思っていませんでした。ただ——あなたの話を、聞きたかった。それだけです」
レイラの手がテーブルの上で動いた。握ったり、開いたり、また握ったり。
「あの日、慟哭してしまった」
「うん」
「みっともなかった」
「そうは思いませんでした」
「——三十年分が出た気がしました。ずっと押し込んでいたものが」
俺は何も言わなかった。この話は、余計な言葉を入れると潰れる。
「家族を失って、私は怒りを使って生きてきました。怒りがなくなったら何もなくなると思っていた」
レイラが、テーブルから手を引いて、膝の上に置いた。
「なくなりませんでした。怒りが消えても——あの子の顔は残っていた」
「そうですか」
しばらく沈黙があった。
「記録が残ったから」とレイラが言った。「あなたが聞いてくれたから。私が話した言葉が、セルウィンに記録されて、協定の附則に収められました。あの子の名前が、公式の記録に——残ります」
声が震えた。
俺はただ頷いた。
「それは——」
レイラが深く息を吸った。ゆっくりと、何かを確かめるように。
「よかったと思っています。あの子の名前が残ることが。ただ、それだけです」
「それで十分です」
「十分ではありません。でも——」
一拍置いて、レイラは俺を真っ直ぐ見た。
「許してはいない。でも——会えて、よかった」
その言葉が、静かに部屋に落ちた。
カーラさんが別れ際に言ったのと、同じ言葉だった。あのときカーラさんは笑いながら言っていた。レイラは笑っていない。でも、どちらも本当のことを言っている。形が違うだけで、どちらも本当だ。
「俺もです」と俺は言った。「会えてよかった。あなたの話を聞けてよかった」
レイラが少し首を傾けた。
「私が話を聞かせた、という感覚はありません。叫んだだけです」
「叫んでくれてよかった」
しばらく間があった。
レイラが立ち上がり、「失礼します」と言って部屋を出た。
ドアが閉まった後、俺はしばらくそこに座っていた。
何かが着地した感じがあった。何かが終わったわけじゃない。レイラの痛みも、戦争の傷も、なくなったわけじゃない。でも——言葉が地面に届いた感じがあった。ちゃんと届いた。
オルディーンが来たのは夕方だった。
侍従も連れず、ひとりで。夕光の差し込む客間に入ってきたオルディーンは、いつもの議長の顔ではなかった。強い顔でもなく、恐怖を背負った顔でもなく——ただ、疲れた老人の顔をしていた。
「座ってください」
「……立ったままにする」
議場でいつも座って議事を回していた人が、立っている。昨日、はじめて立ち上がったのと同じように。
「一つだけ言わせてほしい」
「どうぞ」
オルディーンは少し俯いた。短く刈り込んだ白い髪が夕光に照らされている。
「私は十五年、背負い続けた」
「……はい」
「妻を失い、怒りを持ち続け、それが議長として正しいことだと信じていた。恐怖で統率することが役目だと。誰かを守るためには、強くあらねばならないと」
「それは正しかったと思います。あの時代には」
オルディーンが顔を上げた。意外そうな目をしていた。
「……あなたは否定しないのですね」
「否定するものが違う気がして」
「どういう意味か」
「恐怖で人が動くのは本当です。でも——恐怖だけで動き続けることはできない。消耗する。オルディーン議長が消耗していたのは、見ていてわかりました」
オルディーンが黙った。
窓の外で鳥が鳴いた。夕暮れの声だ。
「あなたの手紙を、一晩かけて読みました」
「ありがとうございます」
「三行しかなかった。なのに眠れなかった」
「短い手紙のほうが重くなることがあります」
「……まったく、やりにくい人間だ」
オルディーンが小さく息を吐いた。
「名簿を、一晩見ていました。二つの名簿を。並べて、ずっと見ていた」
「……うん」
「妻の名前はない。戦争で直接亡くなったわけではないから。でも——私の怒りの出どころは、あの戦争だ。その怒りで十五年、動き続けた。正しいと思って」
「正しかったんだと思います。あなたなりに」
「しかし——」
オルディーンが窓の外に目を向けた。ヴァリスの屋根が夕光を受けている。
「昨日、議席から立ち上がったとき。あなたの言葉を口にしたとき。初めて、重さが下りた気がした」
「重さが、ですか」
「十五年分の。背負い続けたものが、一瞬——ほんの一瞬だけ、軽くなった」
客間が静かだった。外の街の音だけが、遠くから聞こえている。
「議長の仕事は続けますか」
「続ける。ただし——これまでとは違う形で。今まで私は、答えを持ったまま議事を回していた。どこへ向かうかを決めてから、形だけ議論をさせていた」
「これからは?」
「まず聞く。それから答えを出す」
その言い方に、少し胸が詰まった。十五年の重さを下ろした人間が言う「聞く」には、特別な重みがある。
「それは難しいですよ。聞いてから判断すると、時間がかかる。急かされることも多いと思います」
「わかっている」
「それでも?」
オルディーンが、窓の外から俺に視線を戻した。白い髪が、夕光の中でわずかに揺れた。
「聞いてから、判断して……本当に、よかった」
その言葉が、夕暮れの空気の中に静かに溶けていった。
俺は何も言わなかった。
言える言葉が、なかった。
十五年分の喪失を背負ってきた人間が、それでも「よかった」と言える。その重みを、俺は軽々しく受け取れない。ただ、聞いた。それだけでいい。
オルディーンが「では」と言って、部屋を出た。夕光の中を、ゆっくり歩いていった。
夕暮れの客間に俺一人が残った。
窓の外に、ヴァリスの屋根が並んでいる。三ヶ月前、手配書の似顔絵を見て笑った街が、今は少し違って見える。人が急に変わったわけじゃない。でも——何かが動いた。それだけは確かだ。
壁の隅に、旅装束を入れた革袋がある。
明日には、また使うことになる。
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