第258話「当日、署名」
夜明け前から目が覚めていた。
廊下の窓の外はまだ暗い。ヴァリスの街が息をひそめている。
俺は廊下に出た。足音を立てないようにしながら歩いていくと、議事堂の東の廊下でカイルがひとり、壁にもたれていた。通信石を手に持ったまま、窓の外を見ている。
「眠れなかったか」
声をかけると、カイルは少し驚いたように振り返った。
「お前もだろ」
返してから、彼は短く笑った。久しぶりに見た笑顔だった。疲れているが、張り詰めてはいない。それが今のカイルの顔だ。
俺は隣に立った。
廊下の壁に、カイルが毎朝更新してきた紙が貼られている。
【共存協定 自動失効まで:あと0日】
ゼロになった。
九十日前に始まったカウントダウンが、今ここで底を打った。終わりか始まりか——どちらとも取れる数字が、朝の廊下に静かに貼られている。
「ゴブは」と俺は聞いた。
「昨夜のうちに来た。今は控え室にいる」
「来た者は」
「フォルが接続の準備をしている。あと一時間ほどで署名の時刻だ」
一時間。
長いような、短いような。
「緊張するか」とカイルが聞いた。
「少しな」と答えた。
「俺も少しはする」
「嘘つけ。顔に出てる」
カイルは今度ははっきりと笑った。窓の外が、少しずつ明るくなってきている。東の空の端に、薄い白が滲み始めていた。
夜明けとともに、議事堂の扉が開いた。
各国の代表が一人ずつ入ってくる。昨日まで査問会の場として使われていた部屋は、今朝は少し様子が違って見えた。テーブルが丸く並べ直されている。部屋の中央には協定書の原本が置かれていた。分厚い束だ。四十七条、九日間で仕上げた条文が綴じられている。
セルウィンが部屋の隅に陣取って、記録の準備をしていた。
査問官だった頃の張り詰めた顔つきとは少し違う。どこか穏やかで、しかし真剣だった。ペンと書き物台を整え、何も言わずに入ってくる代表たちを記録していく。
俺が近づくと、セルウィンは顔を上げた。
「準備は整っています」
「ありがとうございます」
「礼はいりません」彼は静かに言った。「記録係の仕事をするだけです」
それから少しの間があった。
セルウィンは手元の書類に目を落としたまま、続けた。
「……記録しておきたかったんです。この日のことを。自分の手で」
俺は何も言わなかった。
言わなくていいことだと思った。セルウィンが自分で選んだことだ。
ゴブが入ってきたのは、太陽が窓から差し込み始めた頃だった。
大きな扉が開いて、ゴブは入ってきた。
背が低い。ヴァリスの議事堂は人間向けに作られているから、入ってきても代表たちの視界よりずっと下にゴブの頭がある。それでも、誰も笑わなかった。笑う者がいなかった。
ゴブはまっすぐ俺のところへ来た。
「来た」
「来たな」
「遠かった」
「そうだろうな」
「でも——」ゴブは少し考えるように間を置いてから言った。「来てよかった」
声が、微かに震えていた。
怖いときにゴブの声が震えるのは知っている。でも今は違う。感情が溢れそうになっているときも、ゴブはこういう声になる。
ゴブは円卓の上の協定書を見た。代表たちの名前が並んでいる欄。そしてその下の空白。
「俺が——あそこに名前を書くのか」
「書いてほしい」
「ゴブ、と書けばいいのか」
「そうだ」
ゴブはしばらく黙った。
「ドランも」と、ゴブは突然言った。「ここにいたら、なんて言ったかな」
突然の名前だった。でも意外ではなかった。
ドランのことをゴブが言うのは、大事な場面だけだ。第十七層が光の中に消えた日から、ゴブはずっとドランをどこか大切なところに置いている。
「たぶん」と俺は言った。「「よかった」って言っただろうな」
ゴブは上を向いた。
目が赤かった。
「……そうですね」
それだけ言って、ゴブは前を向いた。泣かなかった。泣かないことを、ゴブ自身が選んだ。今日は泣く日ではないと決めたのかもしれない。
フォル経由の来た者との通信が確立したのは、署名開始の少し前だった。
カイルが通信石を机の上に置く。部屋の空気が、わずかに変わった。それまで協定書の内容を確認し合っていた代表たちが、一瞬静かになる。
声は静かだった。でも明瞭だった。
「——つながった。聞こえているか」
「聞こえてる」と俺は言った。「来てくれてよかった」
「来た」と声は答えた。「来たことに、した」
短い。でもそれが来た者の言い方だ。「来た」という事実を、自分で選んで宣言する。三百年、外から来ることを誰にも知られなかった存在が、今日は自分の意志で来たと言っている。
「今日で——協定が始まります」と俺は言った。
「終わりか。始まりか」
「どっちにもなれると思ってる」
少しの間があった。
「……そうだな」
その声の中に、何かがあった。俺には読み切れない何かが。でも、全部がわかる必要はない。聞いて、受け取れれば、それで十分だ。
「署名の準備ができています」とカイルが言った。「来た者様の分は、フォルを通じて石版に刻む形で——」
「やり方は、わかった」と声が言った。「やる」
署名は午前の中頃に始まった。
進行役の声が部屋に響き、各国の代表が順番に名を書いていく。
コルト代表が書いた。リン代表が書いた。カレドの代表が書いた。ドラズが書いた。フェンが書いた——
俺は少し離れたところで見ていた。
一人ずつ、名前が増えていく。
ドラズの代表が書き終えたとき、俺は少し考えた。あの男は九日前、「平和が我が国を滅ぼす」と言っていた。魔物との和解が軍需産業を殺すと言っていた。今、その手が協定書に署名している。
論破したわけではない。
「剣を鋤に打ち直しても売れる」と言っただけだ。別の道を示しただけだ。あとはドラズ自身が考えた。
それでいい。そうでないと、長続きしない。
最後の代表の欄に、オルディーンが進み出た。
議長として、ではなく——連合の代表として、彼は署名する側だった。セルウィンが書類の位置を正して、静かに道を空けた。
オルディーンは机の前に立った。
何も言わなかった。ただ、俯いて、少しの間、協定書を見た。長くはなかった。でも確かに、何かを見ていた。
俺には分からない。あの瞬間、彼が何を見ていたのか。十五年前に亡くなった妻のことか。"人類の恐怖"を一人で背負い続けてきた歳月か。それとも、これからのことか。
オルディーンは筆を取り、名前を書いた。
ゆっくりと、一字ずつ。
書き終えて、筆を置いた。
それだけだった。でもその一連が、俺にはとても長く見えた。
「では、魔物側の署名を」
進行役が言った。
ゴブが立ち上がった。
部屋が静かになった。各国の代表たちが見ている。見ないようにして見ている者もいる。ゴブはその視線を正面に受けながら、机に近づいた。
筆を手に取った。小さな手だ。人間の使う筆は少し大きい。それでもゴブは持った。
「俺の名前は」とゴブは進行役に聞いた。「どう書けばいいですか」
「お名前を、この欄に」
「ゴブ、だけか」
「はい」
ゴブは協定書を見た。
代表たちの名前が並んでいる。長い名前ばかりだ。国の名前、肩書き、個人の名前——それらがきちんと印刷された欄の中に書かれている。
ゴブは「ゴブ」と書いた。
たった二文字だった。
でも俺には、その二文字がどこよりも大きく見えた。
第七迷宮の第四層の小隊長が、王国軍の巡察隊から隠れながら夜に扉を叩いた日から、ここまで来た。ドランが消えて、ゴブが門番になって、長い道のりを経て、今日、人間の紙に自分の名前を書いている。
ゴブは筆を置いた。
書き終えて、立ち上がった。胸を張ったわけではない。でも俺には、ゴブが少し背が高く見えた気がした。
来た者の署名が完了したとカイルが確認した。フォル経由で石版への刻印が入ったという。通信石から声が短く言った。「——終わった」
全員の署名が揃った。
しばらくの沈黙があった。
誰かが最初に動けばいい、という空気だった。でも誰も動かなかった。
俺はカイルを見た。カイルは俺を見た。
「処分の話は」と俺は言った。
オルディーンが動いた。
懐から一枚の紙を取り出す。査問官でも随員でもなく、オルディーン自身の手で持った紙だ。
「人類連合決議第一号」
読み上げる声は、静かだった。静かで、しかし部屋の端まで届く声だった。
「《人類最大の脅威》の指定——レン・アシダに対する処分決議を、本日付けで正式に撤回する」
誰かが息を吐く音がした。
複数の誰かだったかもしれない。俺は確かめなかった。
オルディーンは続けた。
「本日、新たな人と魔物の共存協定が発効した。この協定の成立をもって、同指定の根拠となった事由は消滅したと認める。以上」
紙を折りたたみ、机の上に置いた。
セルウィンが記録している。ペンが動く音だけが聞こえた。
カイルが通信石を操作した。
【処分撤回 確認済み】
【共存協定 発効——自動失効0日・新協定開始】
数字が、変わった。
小さな表示だった。でも確かに、そこにあった。
「アシダ殿」
オルディーンが俺を呼んだ。
「はい」
「一つ確認していいか」
「どうぞ」
彼は少し間を置いた。
「あなたはこれで——終わりだと思っていますか」
俺は少し考えた。
「いいえ」
「そうか」
「始まりだと思っています」
オルディーンは頷いた。長い沈黙ではなかった。でも何かを受け取った頷きだった。
「では」と彼は言った。「続けていただきたい」
英雄としての賞賛ではなかった。そういう言い方ではなかった。ただ「続けてほしい」と言った。頼むような、そういう声だった。
「まあ」と俺は言った。「聞いてから判断します」
オルディーンが、少し笑った。
見たことのない笑顔だった。でも確かに笑った。
部屋の中が少しずつ動き始めた。代表たちが互いに言葉を交わしている。セルウィンが書類を整理している。カイルがどこかに通信を入れている。
その中で、俺はゴブの隣に立った。
「終わったか」とゴブが言った。
「ああ」
「俺の名前が、あの紙に書いてある」
「書いてある」
ゴブはしばらく黙っていた。
「不思議だな」と言った。
「何が」
「ドランが消えた日から——ここまで来るとは、思っていなかった」
俺は窓の外を見た。ヴァリスの街が動き始めている。市場の声が遠くから聞こえてくる。
「俺も思っていなかった」と、正直に言った。
「でも来た」
「来たな」
「まあ——」ゴブが言いかけた。俺は少し驚いて、ゴブを見た。「聞いてから判断しよう、ってことですね」
口癖だ。
ゴブが使うとき、少しだけ語尾が変わる。「しよう」ではなく「ですね」になる。そこがゴブらしい。
ゴブは自分が口癖を使っているとは気づいていないだろう。でも、もうずっと前からゴブはそう言えるようになっていた。あの夜から——扉の前で俺がはじめて言ったあの夜から、ゴブの中にある言葉になっていた。
「そうだな」と俺は言った。
「レンから最初に聞いた言葉だった。覚えてますか」
「覚えてる」
「あの夜——扉の前で」
俺は答えなかった。
答えなくていい。
ゴブも、それ以上は言わなかった。
二人で窓の外を見た。署名が終わった議事堂の中で、少しずつ人が動き始めていた。
部屋の端で、小さな声が聞こえた。
セルウィンだった。
記録を閉じながら、独り言のように——本当に小さく——彼は言った。
「もう、誰も裁かれない」
聞こえた者が何人いたかはわからない。
ゴブは聞こえていたと思う。カイルも聞こえていたかもしれない。
俺には聞こえた。
セルウィンは記録を棚に収め、何事もなかったように次の作業へ移った。その背中を、俺はしばらく見ていた。
査問官だった頃の彼には、言えなかった言葉だ。この九十日で、何かが変わった。セルウィンの中でも、確かに何かが変わった。
それでいい。
廊下に出ると、朝の光が差し込んでいた。
カイルが追いかけてきた。
「次の話があるんだが」
「今日じゃなくていいか」
「……まあ、一日くらいは」
「ありがとう」
ゴブが廊下の真ん中に立っていた。いつの間に用意したのか、小さな酒瓶を抱えている。ヴァリスで買ってきたらしい。
「一本飲んでいいですか」
「今から?」
「今から」
俺は笑った。
「まあ」と言った。「聞いてから——」
「判断しよう、でしょ」
「そうだ」
ゴブが瓶を開けた。廊下で、朝から、三人で小さく杯を傾けた。乾杯する音が廊下に響いて、すぐに消えた。ヴァリスの街の声が、遠くから続いている。
しばらくして、廊下の奥から足音が近づいてくるのが聞こえた。
俺は振り返った。
カイルも振り返った。
ゴブが「誰ですか」と言った。
廊下の曲がり角から姿を現したのは、レイラだった。
手に、一枚の折りたたまれた紙を持っている。昨日までここにいた顔だ。でも今日の彼女は——何かが違った。いつもの鋭い目つきではなかった。
「……終わりましたか」と彼女は言った。
「ああ」と俺は答えた。
「そうですか」
レイラは一歩近づいた。俺たちの三人を順番に見て、最後に俺を見た。
「一つだけ」と彼女は言った。「届けたいものがあります」
俺は言った。
「まあ、聞いてから判断しよう」
レイラが、少し目を細めた。
笑ったのかどうか、判断がつかなかった。
でも彼女は前に進んできた。廊下の朝の光の中で、その足音が止まった。
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