第257話「俺が、この紙に」
セルウィンが紙の束を机の上に揃えながら言った。
「第十七条まで全員の承認を得ました。残るは署名欄の整理だけです」
声に、感情がなかった。
以前の彼の無感情とは違う。今日のそれは、疲れた人間が静かになっているときの音だった。
円卓会議が始まって九日が経っていた。
議場は朝から夜まで開いた。各国代表が交易路の数字を出し合い、魔物自治区の境界を地図に引き、調停窓口の設置場所を議論した。喧嘩にもなった。怒鳴り声が上がるたびに、ドラズ代表が机を叩き、カレド代表が黙って腕を組んだ。
それでも草案は、できあがった。
俺はテーブルの端に置かれた冊子を手に取り、最初のページをめくった。
「人と魔物の共存に関する協定——草案」と、セルウィンの几帳面な字で書かれていた。
「よくここまで来ましたね」
隣でガレスが言った。腕を組んで、草案の表紙を見ている。
「来ましたね、って言い方をするか、普通」
「俺は言葉を知らん。感想を言っただけだ」
九日前、「まあ、聞いてから判断しよう」と言ったオルディーン議長が、議場の空気を変えた。
あの日から何かが変わった。正確に言えば、変わっていたものがようやく動き出した、という感覚に近い。恐怖で固まっていた人たちが、恐怖を言葉にし始めた。言葉にしたら、隣の国の代表も同じことを怖がっていると分かった。同じことを怖がっている者同士が話し合ったら、別の答えが出た。
その積み重ねが、四十七ページの草案になった。
「署名者のリストを」とセルウィンが続けた。「各国代表は既に合意済みです。ただ——」
彼は少し間を置いた。
「魔物側の署名は、どうされますか」
俺は草案の最後のページを開いた。
署名欄が並んでいる。代表名、国名、日付。四十数行が埋まっていた。
その下に、三行が空白のまま残っていた。
欄外に、小さな字でセルウィンが書き足していた。「ゴブリン門番・ゴブ」「二代目調停者・カイル・ベルグ」「来た者」。
「この紙に、三人を呼べますか」と俺は言った。
セルウィンが「手配します」と答えた。
その返し方が、あの日の彼と全然違う。九日前まで「弁明は許す。だが覆らない」と言っていた男が、今は「手配します」と言う。
変わったのだから、それでいい。
部屋に戻ってカイルに通信を繋いだ。
「草案が完成した。明日、署名の場に来てほしい」
短い沈黙があった。
「……いつの間にそこまで進んだ」
「九日間、全部見てただろ」
「見てたけど、実感がない。まだ何かが足りない気がして——」
カイルが言いかけて止まった。
俺は「何が足りないと思う」と問い返した。
「わからん。でも、こんなに早く終わるものかと思って」
その感覚は、分かった。
第一部でドランが消えたとき、俺も「これで終わりか」と何度か思ったが、実際には終わりが来るまで実感がなかった。物事が終わるとき、人はたいてい実感より先に事実が来る。
「明日、実感が来る。たぶんゴブを見てれば」
「……なんでゴブ」
「あとで分かる。ゴブにも俺から連絡する」
通信を切って、ゴブへの回線を開いた。
フォル経由で第七迷宮に繋ぐと、ゴブの声がすぐ返ってきた。
「外の調停者、よかった。丁度話があった」
「どっちが先だ」
「俺が先です。出たい魔物と出たくない魔物で揉めてる話は聞きましたか」
「カイルから聞いた。昨夜の報告だろ」
「そうです。出たい側の中にドラズ産の鍛冶道具を欲しがってる連中がいて、どう折り合いをつけるか——」
「ゴブ」
「はい」
「明日、署名の場に来てほしい」
短い沈黙。
「……署名」
「協定の草案ができた。人類連合の代表たちが全員承認して、あとは署名だけ残ってる。魔物側の署名者として、お前に来てほしい」
また沈黙。今度は少し長かった。
「俺が……人間の会議に行くということですか」
「そうだ」
「……わかりました。行きます」
即答だった。
迷いがないわけじゃないと分かったが、ゴブは迷いを声に出さない。出さないで「行きます」と言える存在になった。いつからそうなったのか、俺にはうまく言えないが、確かにそうなっていた。
「ありがとう。来た者への連絡は俺が取る」
「来た者も来ますか」
「呼ぼうと思ってる」
「……それは、大きいですね」
ゴブの声に、何かが滲んだ。驚きでも喜びでもなく、「よかった」に近い何かだった。
来た者へのアクセスは、フォル経由しかない。
フォルに繋ぐと「待っていた」と返ってきた。フォルはたいてい待っている。第七迷宮の核として、来るものを待つのが本分だからだ。
「来た者に話を通したい」
「分かった」
少しして、奥から別の感触が届いてきた。
来た者の声は独特だ。言葉があるのに、音がない。意味だけが直接来る感じがする。フォル経由のせいかもしれないし、来た者の性質かもしれない。
「協定の草案が完成した。明日、署名の場に来てほしい」
返答まで、間があった。
「……人類の、場に」
「そうだ」
「私たちが、その紙に——名前を書く」
「来た者という名前を書いてもらえれば、それでいい」
また間。
来た者が何かを計っているときの沈黙は、重さが違う。単純に考えているわけじゃなく、言葉の重さを測っている感じがした。
「行く」
「ありがとう」
「一つだけ確認する」
「何だ」
「その紙は——残るか」
俺は少し考えた。
「物理的なものは保管される。協定の正文だから」
「残るなら、行く」
「……来たかったのか」
「来る必要がある、と、来たい、は違う。だが今回は——」
また少し間があった。
「両方だ」
俺は「分かった」とだけ言った。
来た者が「来たい」と言う言葉を、俺は初めて聞いた気がした。第一部で関わり合いになって以来、来た者はいつも「聞く」か「待つ」か「行く必要がある」だった。来たいという、欲求に近い言葉を出したのは初めてだった。
「失効まで一日」と、フォルが静かに言い添えた。
【共存協定 自動失効まで:あと1日】
分かってはいた。分かってはいたが、一日という数字を言葉にされると、胸に来るものがあった。
処分通告を受けたとき、連合の査問会に出頭したとき、賛成票が98まで逆流したとき、毎回終わりが見えなかった。それが今、一日だ。
夜が深くなってから、議事堂の廊下でセルウィンに会った。
彼は書類の束を抱えていた。明日の式典の準備資料だろう。
「遅くまで」と俺が言うと、「お互いに」と返ってきた。
廊下の窓から、ヴァリスの夜景が見えた。明かりがある。人が起きて動いている。九日前と何一つ変わらない夜の景色に見えるが、たぶん同じではない。あの査問会から、この街の何かが変わっている。
「セルウィン」
「はい」
「お前が草案を記録してくれたから、できあがった」
「私は記録しただけです」
「記録する人間がいなければ、残らない。設計する言葉があっても、書かなければ紙にならない」
セルウィンは少し沈黙した。
「……門番殿は、どうして私にそういうことを言うのか」
「なんで言ったらおかしいんだ」
「私は昨日まで、あなたを裁く側にいたから」
「そうだな」
「怒らないのですか」
「裁く仕事をしていた人間に怒っても仕方ない。ただ、一緒に設計できてよかったと思ってる」
セルウィンが少し俯いた。
「……あなたは、本当に変わった人間だ」
「よく言われる」
「褒めていませんよ」
「知ってる」
廊下の先で、ガレスの足音がした。巡回から戻ったらしい。俺たちを見つけて近づいてきた。
「まだ起きてたか」
「お前もだ」
「俺は軍人だから夜は慣れてる」ガレスが書類の束を一瞥した。「明日の準備か」
「そうです」とセルウィンが答えた。
「ガレス」と俺は言った。
「何だ」
「お前が証言してくれなかったら、賛成票が98のままで終わってたかもしれない」
ガレスは何も言わなかった。
しばらく廊下の明かりを見てから、「俺は自分の見たものを言っただけだ」と言った。「あの男は剣を抜かなかった。それが事実だから、事実を言った。それだけだ」
「お前のせいで連合に寝返りを利用された。迷惑をかけた」
「迷惑?」ガレスが少し間を取った。「俺は隊長職と年金を失ったが——」
また間。
「後悔はしていない、と、さっきも言った。繰り返す気はない」
そう言って、ガレスは「おやすみ」と廊下を歩いていった。
背中が遠ざかるのを見ながら、俺はこの男が第一部のカーラに似ていると思った。一人で背負う人間。でも最近は、見えるところに立つようになった。それが、変化というものだ。
部屋に戻ってから、ゴブの短い通信が来た。
フォル経由で転送された文字だった。ゴブが一字ずつ打ち込んだらしく、間隔が少し不規則だった。
「れん、一つ聞いていいですか」
「何だ」
「俺が……人間の紙に、名前を書くのか」
俺は少し笑った。
「そうだ」
「……人間語で書けばいいですか」
「ゴブリン語が読める人間が明日来る保証はないから、人間語のほうがいい」
「わかりました。練習してみます」
通信が切れた。
俺は天井を見た。
明日、ゴブが「来た者」と並んで、人類連合の代表たちと同じ紙に名前を書く。
最初にゴブが「話を聞いてほしい」と門をノックしてきた夜から、何年が経ったか。あの夜、俺は「まあ、聞いてから判断しよう」と思って扉を開けた。あの選択が、今ここに繋がっている。
感慨があるかと聞かれれば、ある。
でも感慨より先に、「明日は早い」という事実が来た。
目を閉じた。すぐには眠れなかった。しばらく天井の暗がりを見ながら、明日の段取りをぼんやりと確認していた。ゴブが来る。来た者が来る。カイルが来る。人類連合の代表たちが既に来ている。
みんなが同じ部屋に集まって、同じ紙に名前を書く。
たったそれだけのことが、この世界ではまだ一度も起きていなかった。
そして明日、起きる。
明日、ゴブが紙に名前を書いた瞬間に実感が来るのかもしれない。そんなことを考えながら、俺はいつの間にか眠っていた。
窓の外で、ヴァリスの夜が静かに続いていた。
翌朝、廊下でカイルと会った。珍しく、俺より先に起きていた。
「早いな」
「……眠れなかった」
「俺もだ」
二人で少し沈黙した。
「レン」
「何だ」
「ゴブが来るんだろ」
「ああ」
「……久しぶりに会う」
「何ヶ月ぶりだ」
「半年近い。通信はしてたけど」カイルが廊下の窓の外を見た。「直接会うのと、通信で繋ぐのは違う」
「そうだな」
「ゴブを見たら、実感が来るって言ってたな」
「来ると思う」
「なんで分かる」
「ゴブが来た者の隣に立つのを見たら、お前も来ると思う」
カイルは少し黙ってから、「そうかもしれん」と言った。
午前の光がヴァリスに入ってきた。朝の光の中で、議事堂の廊下はいつもより少し明るく見えた。
昼前、議事堂の正面玄関に小さな影が現れた。
第七迷宮からの転送馬車を使ったらしい。ゴブが一人で、連合の議事堂の前に立っていた。
俺が出迎えると、ゴブは辺りをぐるりと見渡してから言った。
「大きいですね、ここ」
「でかい」
「人間は大きいものを建てるのが好きですね」
「なんとなく」
ゴブが俺を見た。少し間を置いてから、静かな声で言った。
「レン」
「何だ」
「俺が……人間の紙に、名前を書くのか」
その声に、驚きがあった。感慨があった。緊張があった。全部が混ざって、ゴブの顔に出ていた。
「そうだ」と俺は答えた。
ゴブが「……わかった」と言った。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
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