第256話「設計する人類」
議事堂の大会議室は、三日前とは別の場所になっていた。
椅子の配置が変わっている。
対立構造を作っていた二列の向かい合わせから、大きな丸テーブルを囲む配置へ。オルディーン議長が議場変更の権限を行使したのは昨日の朝のことだ。査問会の席順に意味があるように、椅子の置き方にも意味がある——向かい合えば議論になる。丸く囲めば、設計になる。
そういうことだ。
俺は窓際に置かれた小さな椅子に腰を下ろしたまま、メモ用紙に何も書かずにいた。
「交易路の話を続けましょう」
メルダ代表のコルト・セリスが立ち上がる。貿易国家の本領発揮で、提案書の厚みが他国の倍はある。三日前まで処分賛成側にいた男が、今は交易路の図面を持ち込んでいる。椅子の向きだけが変わったわけじゃない、と俺は思った。人間の向きも、少し変わった。
「第七迷宮から南の港までの陸路——ここに幹線交易路を設けることを提案します。魔物素材の搬送コストが現状の三分の一になる試算です」
「三分の一、根拠は」
ドラズ代表が即座に突っ込んだ。軍需国家を背負うドラズ・レイドは数字に厳しい。最初に「魔物素材の産業化ができる」と言い出した男でもあるから、数字で返せなければ話にならないとわかっているのだろう。
「配布済みの試算書、九ページをご覧ください。現行の迂回路との比較が詳細に出ています」
コルトが静かに言うと、席の全員がほぼ同時に資料のページを捲る音がした。
俺も手に取り、九ページを開く。数字の列が並んでいる。正直、細かい試算の中身を検証する知識は俺にはない。スキルもない今の俺には、スキル越しに情報を補うこともできなかった。
ただ、今は俺が検証する必要がない。
そういう役割の人間が、今はここにいる。
「数字は見た。問題は陸路の安全確保だ」
カレドの代表が低い声で言う。山岳国家の代表らしく、地形と安全の話になると目が変わる。
「魔物の通行域と人間の通行域をどう切り分けるか。そこが曖昧では、いくら試算が良くても意味がない」
「そこが今日の中心です」
オルディーンが口を開いた。議長席——今はもう"裁く席"ではなく、場を調整する位置として機能している——から、静かな声で言う。
「通行区分の設計を皆さんにお願いしたい。魔物側との擦り合わせが必要なら、その窓口も含めて」
視線が俺に集まった。
「魔物側の窓口はカイルに頼めます。第七迷宮の門番と繋がっているので、今日中に確認を取ります」
「対応に時間がかかるか」
「まあ——聞いてから判断しましょう」
カレドが、少し間を置いてから、ふっと顔を緩めた。
「いい言い方だな、それ」
俺は特に何も言わなかった。
廊下の端で通信石を握りながら、カイルに繋いだ。
「ゴブは今、迷宮内部にいる。来た者との確認事項があるらしい。夕方に折り返す、と言ってた」
「わかった。通行区分の件で魔物側の希望を聞いてほしい——上層に出たい者と、出たくない者がいるはずだから、どっちも選べる仕組みを前提に」
「整理して伝える」
「頼む」
「レン」
「何」
「今日、何回話した」
俺は思い返す。交易路の確認のとき一言。カレドへの返答で一言。あとは窓際の椅子から聞いているだけだ。
「三、四回くらいか」
「そうだろうな。お前がほとんど話さない日は、たいていうまくいってる。いつもそうだ」
通信が切れた。
廊下に一人残った。石造りの壁越しに街の音が聞こえる。商人が声を張り上げている音、荷車が石畳を転がる音、どこかで子供が走る足音。
三週間前にこの街に来たとき、ヴァリスの大きさに何も感じなかった。ただ広い街だ、と思っただけだった。今は少し違う見え方がする。
壁の向こうで、人が生きている音がする。
夕方になった。
メルダのコルトが試算書を修正して再配布し、ドラズのレイドが産業転換の段階案を提示した。カレドの代表は通行区分の図を手書きで描き始め、他の代表が脇から覗き込んでいる。山岳地帯の地形に詳しいのは自分だけだという確信が、ペンの動き方に出ていた。
リン代表が海路の別案を出した。
「陸路だけでなく、港からの沿岸ルートも設けるべきだ。一本の道に依存するのは、島国としては認められない」
「同意します」
フェン代表が即座に続いた。魔物交易で利益を得ている小国の代表は、今この会議で最も積極的に動いている。処分賛成票を投じていたころの緊張感が、もうこの男には見えなかった。
「小国には複数の選択肢が必要です。単一ルートが断たれたとき、代替がなければ交易が終わる」
大国の代表が少し考える顔をした。
「……複数ルートか。コスト面の見直しが必要になるが」
一拍置いて。
「悪くない」
俺は何も言わなかった。
ただ聞いていた。
三日前には「裁く側」と「裁かれる側」に分かれていた人間たちが、今は「どう繋げるか」を口々に言っている。
その変化は、俺が作ったものじゃない。ドラズのレイドが最初に「産業化できる」と言い出した。リンが「海路も」と言い、フェンが「選択肢が必要」と言い、カレドが黙って図を描いた。
俺がしたことは、そこに「聞く場所」を用意したことだけだ。
今日もそれだけだった。
夕刻、セルウィンが書類を抱えて近づいてきた。
査問官から要望整理役に変わったこの男は、ここ数日で別人のように動いている。朝一番に会議室に入り、最後に出る。各代表の発言を一言も漏らさず書き留め、夜のうちに整理して翌日の配布物にまとめる。
「確認をお願いできますか」
差し出された紙を受け取った。交易路、通行区分、共同防衛の三項目が箇条書きになっている。今日の発言から拾い出した要点が、きれいに整理されていた。
「これ、今日一日でまとめたんですか」
「記録係の仕事は昔からやっています」
セルウィンが静かに言う。
「査問官になる前は、ずっと記録係でした。長い間、聞くだけの仕事をしていた」
「なら向いてるじゃないですか」
「……そう言われると、少し腹が立ちますね」
俺はちょっと笑った。
セルウィンも、眉を少し上げた。笑ったとは言えないが、なんとなくそれに近い顔だった。
「一点、まだ案がない箇所があります」
草案の最下段を指で示す。
「魔物側の自治区の範囲と、人間側との調停窓口の設計。ここだけ、今日の議論でも結論が出なかった」
「カイルが夕方に連絡してくれるはずです」
「夕方はもう過ぎていますが」
「まあ——聞いてから判断しましょう」
セルウィンが「またその言い方か」という顔をした。
「あなたは本当に、それしか言わないのですね」
「色々言っているつもりなんですが」
「実質、それだけです」
カイルからの折り返しは夜になった。
「ゴブが言うには——」
通信石から、少し疲れた声が来る。カイルも長い一日を過ごしているはずだった。
「出たい魔物と、出たくない魔物で、希望がはっきり分かれている。第七迷宮の上層にいる者は人間側の様子を見に来たい、深層にいる者は出てくる気がない。どっちも選べるようにしてほしい、というのがゴブの言葉だ」
「わかった。自治区の範囲はどうなった」
「来た者に直接確認した。向こうが言うには——あんまり広い範囲を要求するつもりはない。第七迷宮を中心に、三つの層分で十分だ、と。具体的な数字まで出てきた」
「向こうは設計が好きみたいだな」
「そうらしい。——もう一つある」
カイルが一息置いた。
「これはゴブ自身の言葉だ。「もし人間側が困ったときは、助けに行けるようにしたい」——そう言ってた。笑いながら」
俺は少し黙った。
窓の外、ヴァリスの夜景が広がっている。灯りが点々と並んでいた。
「ゴブがそう言ったのか」
「そう言った」
「伝えます」
「ああ。——失効まで、今日で五日だ」
「知ってる」
「間に合うのか」
「間に合わせます」
「根拠は」
「まあ、聞いてから判断しよう」
通信の向こうで、カイルが短く鼻を鳴らした。
「セルウィンにも同じこと言われなかったか」
「言われました」
「同じことを言い返されただろ」
「……そうです」
「頑張れ」
翌日。
大会議室で、俺が口を開いたのは最初だけだった。
「魔物側から確認が取れました。自治区の希望範囲は第七迷宮から三層分。上層は人間側との交流を望んでいる。そして——追加で、一つ、魔物側から希望がありました」
代表たちが俺を見る。
「もし人間側が困ったとき——助けに行けるようにしたい、と」
大会議室が静かになった。
「……助けに」
メルダのコルトが繰り返す。
「魔物が、人間を、助けに来る」
「はい」
「それは——」
ドラズのレイドが言いかけて止まった。元軍需国家の代表として、この件に最も懐疑的であるべき立場の男が、しばらく何かを考えている。
それから、紙に何かを書き始めた。
「……双方向援助条項にできる。双方が困難な状況に置かれたとき、相互に援助の意志を表明し実施できる——こういう条文だ」
「それでお願いします」
セルウィンが素早くメモを取る音がした。
俺は椅子の背に体を預けた。
ゴブが言った言葉を、朝からずっと頭の中で繰り返していた。
助けに行けるようにしたい。
三年前、扉をノックしに来たのは逃げるためだった。今、ゴブは「出て行ける」場所を求めている。その動機は——来るのも行くのも、誰かのためだ。
そういうことが、静かに起きている。
昼を過ぎた頃、セルウィンが草案の第一稿を全員に配った。
全二十二条。
表紙に「人と魔物の共存に関する基本協定(草案・第一稿)」と書かれていた。
代表たちが黙って読んでいる。ページを捲る音だけが続く。
俺も読んだ。交易路の設定(第三条)、通行区分(第四条〜第七条)、魔物側の自治区(第八条〜第十二条)、双方向援助条項(第十五条)、窓口設置と調停者制度の継続(第十八条〜第二十条)——セルウィンが一晩でここまでまとめた。
「修正点があれば」
代表たちが手を挙げ始める。リンが第六条の港の記載を、ドラズが第十五条の発動条件を、フェンが第二十条の窓口の設置場所を指摘した。次々と意見が飛び、セルウィンが記録し続けた。
俺は「その点は魔物側に確認が必要です」「第七迷宮の門番に問い合わせます」と二度言っただけで、あとはただ聞いていた。
二時間が過ぎた。
腹が鳴った。
隣のカレド代表が横目でこちらを見た。
「……食事をとっていないのか」
「忘れていました」
「草案の修正は続けておく。三十分、席を外せ」
「でも——」
「あなたがいなくても、できることはある」
カレドが短く言った。それ以上でも以下でもない言葉だった。
俺は立ち上がった。
廊下にガレスがいた。
「遅い昼飯か」
「そうです」
「路地の食堂の方が安くて早い。一緒に行く」
ガレスと二人で議事堂の裏口から出た。昼間の外の空気は会議室より少し違う。石畳が日差しを跳ね返している。街の温度がある。
路地の食堂は小さかった。カウンターに二人で並んで座り、出てきたものを食べながら、ガレスが言う。
「代表たちが、ここ三日で顔が変わった」
「変わりましたか」
「来たときより、帰りの方が柔らかい。出てくる顔の緊張が違う。外で待機しながら、ずっと見ていた」
ガレスは中に入れない。傍聴席は代表以外は座れない規則がある。外で待機しながら、入る人間と出る人間の顔を三日間見ていたのだ。
「失効まで、明日で四日だ」
「知ってます」
「間に合うのか」
「間に合わせます」
「根拠は」
俺はスープの椀を置いた。
「今日、草案の第一稿が出ました。明日・明後日で修正して、失効三日前には形になると思います」
「その確信はどこから来る」
「今日一日、代表たちが何を言っていたかを聞いていたので」
ガレスが少し間を置いた。
「……そうか。なら——まあ、大丈夫か」
俺はガレスを見た。
「今、何か言いましたか」
「……何も言っていない」
「「まあ——大丈夫か」と言いましたか」
ガレスが腕を組み、少し目を逸らした。
「言ったかもしれない」
「いつからその言い回しを使ってるんですか」
「……知らん。気づいたら口から出ていた」
俺は何も言わなかった。
食堂の中が静かだった。カウンターの向こうで、調理人が鍋をかき混ぜている音だけが聞こえた。
気づいたら口から出ていた。
ガレスは無意識にそう言った。ep197で寝返りを公言したとき、「まあ、聞いてから判断した」と言ったあの男が、今度は自然に、何でもない場面で使っていた。
そういうことが、静かに起きている。
誰かから誰かへ。じわじわと、気づかれないまま移っていく。
俺は残りのスープを飲み干した。
三日目の夕方、セルウィンが草案の最終稿を配った。
修正回数は十七回を数えていた。全二十六条に増えていた——最初の二十二条から四条が増えたのは、魔物側からの追加希望が届いたからだ。各代表の修正意見が加わり、カイル経由でゴブと来た者に確認し、それをまた条文に織り込んで。
代表たちが最終稿を読んでいる。静かな部屋で、紙を捲る音だけが続く。
俺も読んだ。
第十五条、双方向援助条項。ドラズのレイドが一晩かけて書いたその条文は、「双方が困難な状況に置かれた際、相互に援助の意志を表明し実施できる」という文章だった。ゴブの「助けに行けるようにしたい」という言葉が、今はここに収まっている。
レイドは軍需国家の代表として来た。剣を鋤に、という話の最初に引っかかりを持った男だ。それがゴブの言葉を条文にした。
オルディーン議長が最後のページを閉じた。
「……よくできています」
静かな声だった。
「皆さんが設計した」
「議長が場を変えてくださったからです」
カレドの代表が言う。
「丸テーブルにしてくれなければ、こうはならなかった」
オルディーンがわずかに視線を落とした。
「私はただ——」
「それで十分です」
俺は静かに言った。
オルディーンが俺を見た。十五年前に妻を失い、"人類の恐怖"を一人で背負って議長席に座ってきた男が、今は少し違う顔をしている。
「明日には署名の場が設けられます。魔物側の代表も来る予定です」
「魔物が——この協定に署名するのか」
「はい」
しばらく、誰も何も言わなかった。
外が暗くなり始めていた。議事堂の窓から、ヴァリスの街の灯りが見える。点々と、それぞれの灯りがある。
カイルから通信が入ったのは、そのときだった。
「レン。ゴブから言葉を預かった」
「何ですか」
「「明日、俺が人間の紙に名前を書くのか」——これだけ。そのまま伝えてくれと」
俺は草案の表紙を見た。
「合ってます」
「ゴブが笑ってた」
大会議室の中で、通信石からの声だけが静かに響いた。
俺も、少し笑った。
カイルが続ける。
「もう一つある。ゴブが今夜から、字の練習をしてる」
「字の練習」
「署名用の字だ。人間語で自分の名前を書く練習。「きれいに書きたい」って言ってた」
窓の外、ヴァリスの街の灯りが揺れている。
俺は何も言えなかった。
しばらくの間、ただそこに立っていた。
大会議室の中で、各国の代表が最終稿の余白に何かを書き込んでいる。セルウィンが補足の記録をとっている。ガレスが廊下の向こうで壁に背を預けているのが、ガラス越しに見える。
そして今ここから遠い第七迷宮の、あの小さな門番小屋の中で、ゴブが紙に向かって字を書いているのだ。
「きれいに書けそうか」
俺は通信石に向かって聞いた。
カイルが一拍置いた。
「……めちゃくちゃ下手だ」
それだけ言って、通信が切れた。
【共存協定 自動失効まで:あと三日】
新協定の草案が、形になっていく。
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